手打ち蕎麦をする私の徒然日記

2003年1月に手打ち蕎麦に初挑戦。手打ち蕎麦の事ばかりでなく、日常インパクトのあった事柄を思ったまま綴ったブログです。

卒業論文を指導してくれたK先生の想い出

2008-07-04 18:22:37 | 想い出
数日前の夕方、私の大学時代に同じ研究室で卒論をまとめた仲間から、電話がかかってきて、私たちに卒論の指導をしてくれたK先生が亡くなられた、ことを伝えてくれた。
報道によれば、6月30日午前8時50分、急性心不全のため東京都足立区の病院で死去、85歳だった、という。
K先生は、私が大学卒業後に勤務することになった東京・六本木の研究所(現在は国立新美術館に生まれ変わっている!)への就職を世話された方でもある。
私が東京・御茶ノ水の駅から歩いて10分足らずの場所にある日本大学で、電気工学を専攻して過ごしたのは、今から約50年ほど前になる。当時、K先生は必須科目である電気・磁気学の講義をされていた。電気工学の中でも、電気・磁気学という科目は、基本的なわりには難しい科目で、ほとんどの仲間が理解するのに苦労していたようで、私もその一人だった。でも、必修科目なので、どうしてもこの科目で合格点を取らないといけないので、必死だった。私の友達は、大学4年生になって、就職先が決まっていたのに、この電気・磁気学で合格点がもらえなかったため、大学を1年間、留年したほどだった。
私は、卒業をまじかに控えた大学4年生のとき、K先生の研究室に入って、卒論を指導していただいた。当時のK先生は40歳前後の若さバリバリで、太っていてガッチリした体格の持ち主であった。毎日のように、授業が終わると、同じ研究室の仲間7、8人とともに、小部屋の研究室に入ってきて、各自が卒論を書くための実験などの研究にとりかかる。研究室は狭くて、かつて秋葉原で見かけたジャンク店みたいに雑然としていたのを覚えている。研究実験の合間には、時々、K先生とともに外出して、明治大学の裏手に店を構えていた「卓球場」に出向いて、卓球をやったものだった。それから、K先生が四国の高松市出身だった関係で、K先生とともに私たち研究室仲間で四国の栗林公園に旅行したこともあって懐かしく思い出される。
K先生の研究室で私が、もっとも強烈に憶えているのは、ときどき室内で行われる飲み会のことである。飲み会は、みんなが帰宅する直前、夜になって行われるのだが、その席上、きまって、私と仲間のM君--NHKに就職した--が、毎回のように、仲間のみんなやK先生からご指名され、催促されて歌を唄ったことである。私が歌うのは、いつも、三橋美智也さんのヒット曲「古城」で、M君の歌は平尾昌章さんのヒット曲「みよちゃん」だった。今、当時を思い出しても可笑しく笑ってしまうほど、M君の感情込めた唄いっぷりは忘れ難い。
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"みなさん、まー僕の話を聞いてください。僕が高校2年で あの娘みよちゃんも高校2年の時でした"
♪僕のかわいいみよちゃんは
色が白くてかわいくて
前髪たらしたかわいい娘
あの娘は高校2年生♪♪
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さて、K先生に最も最近お目にかかったのは、何年か前に、先生が叙勲の栄誉を受けられたときであり、東京・赤坂のホテルで行われた祝賀式に出席したときのことであった。このときのK先生は、私の学生時代のでっぷりとした先生とはうって変わって、やせ細って小柄な身体つきになっておられていた。


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