min-minの読書メモ

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杉山隆男著『兵士に告ぐ』

2010-02-24 19:00:57 | ノンフィクション
杉山隆男著『兵士に告ぐ』小学館文庫 2010.2.10 第二刷 657+tax

オススメ度:★★★★☆

『兵士に聞け』『兵士を見よ』『兵士を追え』に続くシリーズ第四弾である。
著者杉山隆男氏は1995年の『兵士に聞け』の上梓以来、実に15年に渡って我が国の自衛隊、それも陸、海、空、3軍全ての部隊に密着取材してきた。
かくも長きに渡り自衛隊を追っかけたルポルタージュは他に例を見ない。杉山氏の取材姿勢は左も右も偏らないのが良い。
自衛隊の良い面も悪しき面も率直に語ってきた姿勢や、自衛隊員の個々の素顔にせまる取材姿勢は好感を持てる。故に僕もシリーズ全てを読み繋いできた。

今回の主な取材対象は長崎に根拠地を置く「西部方面普通科連隊」である。設置された当時、この連隊は「日本版海兵隊」としてマスコミ報道された。
それは看板にある「普通科連隊」の名前とは裏腹に、普通ではない「特殊部隊」的訓練を行う部隊であったからだ。
全国の部隊から選りすぐりの優秀な自衛官を集め、その半数以上がレンジャー資格者で占められることが何よりもこの連隊の実態を如実に語っているのではなかろうか。
「西部方面普通科連隊」の設立目的は明らかに対中国や北朝鮮の軍事的脅威に対抗するためのものである。
米ソの冷戦構造が終焉し、我が国防衛の姿勢は日本の北の脅威から南の脅威への対応へと確実にシフトしてきた。
近年の中国による軍拡の勢いは留まることを知らず、台湾海峡を挟む緊張のほか、資源獲得のため、尖閣列島を初めとした挑発的とも言える一時占有などに見られる如く、周辺諸国、地域、特に南の海域に中国のプレゼンスを示してきた。
また、最近ではやや頻度が落ちたものの、北朝鮮の工作船の跳梁跋扈も後を絶たない。
こうした軍事情勢を踏まえ、南方海域の島への上陸作戦を含めた米国海兵隊のような部隊の創設が焦眉の課題となったわけだ。

戦後、警察予備隊として発足した治安部隊が、その後「自衛隊」と名を変えて組織が拡大され今日に至ったわけであるが、当時は「日陰者」扱いを受けたものの、今やPKO部隊として海外に派兵されるまでになった。
今日、自衛隊そのもの存在意義というか、ひいては我が国の防衛に関して今一度国民的レベルで議論されねばならない段階に達しているのではなかろうか。
米軍の普天間基地の移転問題といった一部の問題ではなく、日米同盟の根幹に関る問題を論じなければならないということである。



さてここで、本書の感想からは多少ずれるのであるが、本書に触発され改めて自衛隊そのもの、日本の行く末を考えてみた。

誰が何と言おうが自衛隊は「軍隊」である。第二次大戦に敗れた日本は米国の主導によって新憲法が作られ、その憲法の第九条で日本は恒久的に戦争を放棄する、とうたっている。
戦争しない、と憲法に定めた国家が何故軍隊を持つのか?憲法上の解釈からすれば明らかに自衛隊は違憲である。この全くの「矛盾」を日本人は矛盾とせず、「憲法解釈」という手段でもって65年間も「軍隊」を存続させてきた。
そもそも戦後の日本に「軍隊」を持たせないと決めたのはアメリカ合衆国であり、その後朝鮮戦争による共産主義の脅威に対して再び日本に「軍隊」を持たせた。これは合衆国にとっては何ら「矛盾」ではなく「合衆国の国益を守る」上では極めて合理的な決定であったと言えよう。

「矛盾」を「矛盾」でなくしている他の事例として、我が国がかかげる「非核三原則」なるものがある。
「非核三原則」とはご承知の通り、日本国政府は「核兵器を製造せず、装備せず、持ち込ませず」という原則のことだ。
だが、国民の誰もが「持ち込まれていること」は承知している。米国の原潜や原子力空母が我が国の佐世保港や横須賀港に入ってくるたびに日本政府は「核兵器は搭載されていないものと信じている」というコメントを出すばかり。
だが、合衆国の核兵器を搭載した艦船が、いちいち日本に寄港する前にどこかに核兵器だけ下ろしてくるというのを誰が信じるというのか。
我が国の政治家も官僚もメディアも、みんなその事実を知りながら知らないふりをしてきた。こんな理屈にもならない理屈が何故通るのか?

再び内田樹著『日本辺境論』の記述から引用させていただくことにする。

【「アメリカにいいように騙されているバカな国」のふりをすることで、非核三原則と、アメリカによる核兵器持込の間の「矛盾」を糊塗した。
仮にも一独立国家が「他国に騙されているのがわかっていながら、騙されたふりをしていることで、もっと面倒な事態を先送りする」こんな込み入った技が出来るであろうか?日本人にはできるのである。】

と記述している。これは日本人が辺境人としてのメンタリティーを持っているが故と説く。こうした「思考停止」は日本人の古来からの狡知の技だというのだ。
事のついでにもう少し内田樹先生のいうところの「日本人のメンタリティー」について述べてみたい。
内田先生は丸山眞男の「超国家主義の心理」を引用して「日本人のメンタリティー」を説明している。

【日本の軍人たちは首尾一貫した政治イデオロギーではなく、「究極的価値たる天皇への相対的な近接の意識」に基づいてすべてを整序していた。この究極的実体への近接度ということこそが、個々の権力的支配だけではなく、全国家的機構を運転せしめている精神的起動力にほかならぬ。
官僚なり軍人なりの行為を制約しているのは少なくとも第一義的な合法性の意識ではなくして、ヨリ優越的地位に立つもの、絶対的価値体のヨリ近いものの存在である。(中略)ここでの国家的社会的地位の価値基準はその社会的機能よりも、天皇への距離にある】

このことをもう少しくだいた言い方をすると、内田先生曰く、

【とりあえず今ここで強い権力を発揮しているものとの空間的な遠近によって自分が何ものであるかが決まり、何をすべきかが決まる。(中略)
官僚や政治家や知識人たちの行為はそのつどの「絶対的価値体」との近接度によって制約されています。「何が正しいのか」を論理的に判断することよりも、「誰と親しくすればいいのか」を見極めることに専ら知的資源が供給されるということです。
自分自身が正しい判断を下すことよりも、「正しい判断を下すはずの人」を探り当て、その「身近」にあることの方を優先するということです」】

ここで「天皇への距離」を「合衆国への距離」と置き換えてみようではないか。
日本人にとって両者とも、その決定した事柄は「聖域」なのであって、良いも悪いもなく「思考停止」状態に陥りその決定に従う。
日本人の「絶対的な力を持った者」に対する盲従の性向こそが、かくも不可解な国家運営を司る本質なのであろう。
故に「隷属国家日本」は「絶大な力を持つ」アメリカ合衆国がそのパワーを失いつつある今、更に次なる「絶大な力を持つ」もの、国家、へ寄り添うスタンスを取りかねない。
どうも次は「中国の天領」となっても不思議ではない政治、経済、軍事情勢となりつつある。日本はアメリカとの距離を保ちつつ、急速に中国に寄り添う姿勢を見せている。
これでいいのか?と問いかける前に「これでいいのだ」という結論が出てきそうだ。なんたって日本は古来「辺境国家」なのだから。

だが、僕はこうした日本は望まない。たとえ経済的危機を招こうが国家百年の計から言えば、今こそ自主独立の道を歩みだす決意を下す時ではないのか。
このまま行けば、上述のように「中国の天領」になりかねない。