あらゆる体は宇宙全体の物質によってあたかも奔流に流さるるがごとく運び去られ、「全体」に結びつき、我々の四肢が互いに協力するようにこれと協力する。
何人のクリュシッポス、何人のソークラテース、何人のエピクテートスを時がすでに呑みつくしてしまったことであろう。
いかなる人間についても、いかなる事柄についても、このことを思い起こせ。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第11章18)
宇宙を支配する自然はすべて君が見るところのものを一瞬にして変化せしめ、その物質から他のものをこしらえ、更にそれらのものの物質から他のものをこしらえ、こうして世界がつねに新たであるようにするのである。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第11章25)
遠からず君は何者でもなくなり、いずこにもいなくなることを考えよ。
また君の現在見る人びとも、現在生きている人びとも同様である。
すべては生来変化し、変形し、消滅すべくできている。
それは他のものがつぎつぎに生まれ来るためである。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』第12章21)
消滅・死は自然なことであり、それは新しい他のものがつぎつぎに生まれてきて、世界が常に新たであるためである*、とアウレーリウスは自分自身に言い聞かせています。
死をそういうものとして捉えることができれば、私たちは生だけでなく死をも含むほんとうの生というか、生死を根源的に肯定することができるでしょう。
死を恐れないだけでなく肯定することさえできるとは、なんと深い境地でしょうか。
まさに不動心(アパティア)です。
(↑ストア派哲学ではふつう「アパティア」なのですが、アウレーリウスは「アタラクシア」という言葉のほうを使っているようです。補足・訂正します。)
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