sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

水仙盆と須賀敦子さんのフィレンツェの街

2017-03-27 | 芸術、とか
台湾の故宮博物院で、この水仙盆の前に立ち尽くして、
あまりの美しさに何十分も見ていたというお友達の話を聞いても、
写真見てもカタログ見ても、なにがそんなにいいのかさっぱりわからなかったのに
実物を見たらすとんとやられた。まいった。すとん。
→北宋女窯青磁水仙盆の展示、美術館のサイト。

これは電車の中吊り広告。

大阪の中之島にある東洋陶磁美術館は、川沿いで、こじんまりとして好きな場所。
ここ数年ではルーシー・リーや、フィンランドデザイン展などを見ました。
今回は、台北にある国立故宮博物館の水仙盆の展示で、
人類史上最高のやきもの、海外初出品、という鳴物入りの展示。
そもそも焼き物がわからないわたしですが、
せめてその自分のわからなさについて、わかりたいと思って見てきました。

6つの水仙盆があったんだけど、4つは故宮博物院のもの。
一つは東洋陶磁美術所蔵のもので、前に何度か見たことがあるもの。
もう一つは18世紀清朝の景徳鎮で作られた、
史上最高水仙盆へのオマージュ的作品らしいです。
他の5つは全部北宋時代、11〜12世紀のもので、これ並べて見るとすぐわかる。
なんというか、全然違うのよ。
並べなかったらわかんないかもしれないけど、一緒に見るとすぐわかる。
この6つが一つの部屋にあったんだけど、何周もして何度も見て、
でも3周目からは、この6つ目のは飛ばして見てたくらい、何か違う。
それで他の5つの凄さが、あらためてわかるくらい。
写真などで見て、さっぱりわからなかったものが、実物を目にすると
一つ一つ違うことが良くわかってきて、ほっとしました。
何度も何度も見てちゃんとそれぞれのことが自分なりにわかって
仲良くなれた気がする。
そして、それぞれについてるコピーが、改めてうまいなぁと思いました。
1:人類史上最高のやきもの・・・夢に見そうな美しさ
2:天青色の極み・・・これは特別鮮やかな透明感のある彩度の高い青でした
3:最大サイズの水仙盆・・・大きいのに繊細さはそのままで素晴らしい
4:無銘の帝王:底面に乾隆御製詩のついてないタイプ
5:伝世女窯青磁の日本代表:東洋陶磁美術館の誇る所蔵品
6:女窯青磁水仙盆へのオマージュ
何度も見てると、このコピーがすごくわかりやすく頭に入ってきました。
→カラーチラシ
→作品解説・リスト

しかし、たまに行く美術館だけどこんなに混んでるのを初めて見た。
チケット買うまでに30分くらい並んだし、
水仙盆の部屋に入るのにもう20分くらい並んだと思う。
テレビの「日曜美術館」にとりあげられたせいで、その前まで去年のうちは
結構すいててガラガラだったそうです。
最初から行くつもりだったので、早めに行けばよかったなぁ。
海外初公開の水仙盆が4つもあるのですよ、この大阪の小さな美術館に。
これのためだけに故宮博物院まで行きたい人もいるようなものが。
テレビに出るまですいてたことの方が不思議かも。
でも印象派やらレンブラントやら若冲やらよりはずっとマシな混み具合。笑
並んでも、ゆっくり見られて、とてもよかったです。

何度も何度も水仙盆を堪能した後は、他の部屋の常設展示なども一通り見ました。
焼き物ってさーっぱりわからず、年に一度くらい何かの展示を美術館とかで見ても
なにがいいのかわからないままささっと見て終わるだけだったけど、
それくらいのことでも何十年も毎年繰り返してたら、
なんか少しずつ変わってくるんだよなぁと、やっとこの頃思います。
今も相変わらず焼き物のことはわからないけど、この小さな美術館では、
常設の展示でなんとなく覚えてる壺にあったら、
おお相変わらず渋い色だなーってかわいく思うし、
馴染みの子もできて(子じゃないけど)、
前に見たときよりなんか色っぽく見えるなぁとか思ったり。
そうすると、わからなさは相変わらずなんだけど、
何しろ馴染みの子だからさっと飛ばさないで、少しは会話する。
そしたらますます馴染みになって、次や次の次の年に見たときに、
あー気づかなかったけどこっちの子と出身同じなんだ!とか
首のこの辺り随分繊細な作りだったのね、とか気づいたりする。
すごくゆっくりゆっくりだけど仲良くなっていってる気がするのですよ。
年に一度会うか会わないかでも、何十年の単位で見ると、
少しずつ、なんとも悠長な仲の良くなり方ですけど。
でもそうやって、数年前は他人だった壺や盆や皿が、今は知ってる子みたいになって
すっと目に飛び込んでくるのが(知識はいい加減なままですけど)、
これがわかってきたってことなんじゃないだろうかと思うと心が躍る。
何かがわかるようになる、好きになるということは、本当に心ときめくことですね。

今日は実は、もう一度会ってよく確かめたかった気になってた子がいなくて
(→子じゃなく壺だけど)ちょっとさびしかった。
次の展示に変わって、すいた頃にまた行って会えたらなぁと思います。

そういうことを考えながら夜お風呂で須賀敦子さんのエッセイを読んでたら
彼女がフィレンツェに住んで、少しずつ街と仲良くなっていった描写が
まるで、わたしとやきもののことのようで、
まるで自分が書いたのかと思うような文章で(おこがましくてすみません!)
どきどきして嬉しくて、心が躍った。
「フィレンツェ、急がないで、歩く、街。」という短い文章です。
何度も同じ道を歩く、ひどく時間がかかるわかり方で少しずつ理解する。
このごろになって、やっと、私は、たとえばフィレンツェ・ルネサンスの建築への理解が、少しだけ身についてきたように思える。以前。本でなんど読んでもわからなかったことが、変な言い方だが、自分のからだの一部になってきたような気がする。その建物の前、あるいは横に立った時、ああ、ルネサンス建築とはこういうことだったのか、と感慨をおぼえる。その時点で、私は、もういちど、本を読む。すると、書いてあることが、ふしぎに立体感を持って、あたまに入る。こうなったら私とその建物の間には、もう誰も入れない。/須賀敦子

ああ、何かと仲良くなっていくって、楽しい!