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昨日は、午前中雨のぐずついた天気だった。
天候のせいでもあるまいが、終日なんとなくやる気も出ず、今週はそういう状態が多かった。
ブログも『疲れ』というタイトルで作成した。
今週、くしゃみをしたり、昨日は喉に違和感があったりしたが、今週の疲れた感じが続いたのも、昨日書いたように、軽い風邪又はインフルエンザが原因かもしれないと思った。
今日はくしゃみも出ず、喉の違和感も無くなり、少しやる気が出た感じだ。
桜も満開になり始めたようだ。
土曜日は、西天満に行く日だが、最近現代美術を見ようという楽しみが、かなり減ってきたように思う。
インパクトのある作品に出合わないのと、私の言動が誤解されたり、批判されたりして、へこむことが多かったからかもしれない。
ただ、美術というものに対し、答えの出ない問いかけをしていて、疲れたのかもしれない。
私の美術芸術に対する立場ははっきりしていて、芸術は表現であるという、記号論的・構造論的立場は変わりない。
芸術の基本は価値観であり、価値観は、個人の主観、教育、環境(気候風土・社会・国家・宗教・民族性を含む)で決まると思っている。
以下の例は、好き嫌いという意味で価値観に関係する、表現ではない嗜好も入っているが、価値観と嗜好は共通する要素・構造があるように思う。
例えば、欧米人にとっては、虫の声は単なる雑音に聞こえるというが、日本人にとっては虫の音を聞き分けられ、心地よいものであり鈴虫や邯鄲の音を楽しむこともある。
ビートルズの音楽を初めて聞いた時は、多くの人が騒音に聞こえたようだ。
しかし、その表現や聴き方や見方がわかると、そこに価値が発生し定着しその価値観で楽しむようになる。
飲食品では、コーラを始めて飲んだ時も同様だった。
こんな、臭いもの飲めるかと思ったが、2-3度飲むうちにそのうまさがわかった。
ビールにしろ、鮒ずしにしろ、同様だ。
しかしタバコに関しては、いまだにうまさがわからない。
今まで繰り返し述べてきたこうしたことを踏まえつつ、今まで現代美術の事も多少勉強し、多くの作品を観て様々な傾向の作品の文法文脈=見方も分かり、面白さもわかるようになるにつれ、作品の良しあしも分かったつもりでいたのだが、最近作品を観て面白いと思うことは少なくなった。
だが、実は以前から、多くのパフォーマンスの面白さや良し悪しがわからないし、映像作品の一部の分野も面白さが理解できないし、極一部の平面や造形やインスタレーションも理解出来なかったり面白みを感じられなかったりしているのが、私の実態だ。
(分からない、又は、良さが感じられない作品の多くの場合、その分野の作品に接していることが少ないことが原因であると考えている。例えば、映像作品に関しては、時間がかかるという理由で飛ばすことが多いし、同時に作品そのものに接する機会も少ない。当然のことながら、多くの作品を観ていないとその作品群の文法文脈やその分野の共通のコードをつかむことができないので、作品の良さを感じたり読み解いたりできない。)
これが、老化による私の感性の低下によるものなのか、いい作品が少なくなったのか、疑問に思っているところである。
ところで、美術鑑賞は作品を展示している場に行く必要があり、場の空気も重要な要素である。
しかし、一人の人間が行けるところには、物理的経済的に限界がある。
今は、ネットでも見ることができるが、ネット上の作品画像は、単なる参考資料に過ぎない。
スケール感や質感・や展示会場の照明も含めたものは、ネット上では表現できない。
こうしたことを考えると、美術作品の鑑賞は現物を観ることがどうしても必要なのである。
だが、展覧会は日本全国(世界中)であり、特に東京では関西圏の数倍の展覧会をしているものと考えられる。
こう考えると、大阪でいろいろ作品を観たといっても、しょせん全体の中の極一部でしかないのだろう。
更に言えば、展覧会の中にも質の高低があり、通常すぐれた作品は少ない。
ということは、すぐれた作品に接する機会は、かなり限られると思われる。
ということは、見て回るにしてもすぐれた作品を選んで効率的に見に行く方がよい。
すぐれた作品は、確率的に評価の高い作家が創ることが多い。
それ以外に、目の肥えたギャラリストなりキューレーターが企画する展覧会に展示される確率が高い。
そうしたことからすると、見て回るときに、重点的に見る展覧会と、場時間のない時は飛ばしても良い展覧会があるのかもしれない。
ただ、名も知らない作家の作品で、時折いい作品と出会うことがあるので、時間があれば回れるギャラリーは回っておいたほうが良いと言える。
というのも、現在評価が高い作家も新人の時は無名の作家である。
逆に、過去に評価が高い作品を創った作家が、現在もそのレベルを維持しているかどうかわからない事も多い。
一度評価が定着すると、特に現代美術の場合評価が難しいので、その後作家が駄作を作っていても、評価の高い作家として見られることが多い。
又、お金や時間や技法を凝らしたものが、大作=評価の高い作品と誤解されやすいことがあるかもしれない。
同時に、評価そのものが、一部評論家や美術関係者の思い込みによる場合や、有力メディアが取り上げた=評価の高い作品となったり、官製の評価が評価の標準となったり、マスメディアや画廊が営業的にスターを創造(=高評価)している可能性も考えられる。
人脈絡み(コネ)や、門閥や企業や学校絡みで意図的に、実力以上の評価をしている場合も特に芸能界ではたまに見受けられる、芸術の世界でもあるかもしれない。
歴史的にもそうしたことは(音楽も含め)知られていて、最終的には歴史的評価がそれを証明するのだろう。
今のところ、ギャラリー回りしても、大量のフライヤーを持ち帰るだけで整理は出来ていない。
フライヤーを整理して展覧会の内容の評価をすることで、作家を見る目が肥えるのだろうが、全くできていない。
そういうことを考えると、現代美術鑑賞ももうひと手間かけることで、面白くできるのかもしれないし、現在感じている、なんとなくつまらないという感じが解消できるのかもしれない。
ただ、別の意味で美術鑑賞の中の多くの部分は、作品を通じた人間的交流の楽しさがある。
作品を通じて、その人の感性や考え方がわかることが多いし、作家もそうしたことを表現し理解されることを欲望している。
多分美術館レベルの物を求めてみるのと、通常のギャラリー回りとは切り離して考えた方がよいのだろう。
通常のギャラリー回りで、素晴らしい作家が見つかればラッキーということでいいのだろう。
野球でも、草野球、地区代表野球、高校野球、ノンプロ野球、プロ野球と様々なレベルで楽しんでいるが、それと同様だと思う。
それが、ギャラリー回りの楽しみの一つでもある。
以上美術鑑賞に関して思いつくまま、思い浮かぶことを羅列して書いたので、論点が拡散しばらばらだが、よく考えると、各論点でいろいろ考えることがあり、各項目で展開できそうだ。
美術鑑賞の話が長くなったが、今後さらに考察したい。
さて、昨日は午後から寝る前まで、夕食をはさんで副食11食の製造に全力を挙げ、何とか12時前までに完了させた。
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参考ブログ集 散歩者gooより
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