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アイヌと和人の関係と歴史覚書

2012年05月13日 20時49分48秒 | 考古学・古代史・歴史・文化人類学
アイヌ語関連の地名の本を頂いたことがきっかけで、そもそもアイヌとはということを調べてみた。
以下は関係するいくつかの本を読み始めた段階での覚書である。
元々、789年ごろ北上川で朝廷軍と戦って朝廷軍を撃退し、その後清水寺を創建したといわれる征夷大将軍の坂田村麻呂に陸奥の国で801年敗れた、エミシ軍の首領アテルイに興味を持っていた。
古代アイヌは、蝦夷(エミシ)と(エゾ)と2つの名称があり、アイヌの成立そのものが、10世紀以降になってからと考えられている。

元々日本には、原日本人とも言うべき人達(縄文人?)がいたという説が有力である。
弥生時代以降、飛鳥時代まで、大量の渡来人が九州を始め西日本から関東地方まで渡来していることが分っている。
渡来人は、縄文人と対立や融合をしながら、稲作文化を持ち込み、弥生文化を形成したと考えられている。
古墳時代には、東北地方南部まで、古墳文化が浸透している。
東北のエミシと北海道のアイヌとは先祖は同じで(縄文人?)、日本の古墳時代には、東北北部は北海道と同じ続縄文文化でありながら東北北部でも9世紀以降和人集団が東北北部に達し、10Cには稲作も始まり土師器も受け入れて同化が進み、土師器文化となり、北海道は擦文文化となる。
13C以降東北北部も和人文化となり、北海道ではアイヌ文化が成立する。

上記のように、北海道のアイヌ文化以前は、北海道は縄文文化、続縄文文化、擦文文化となって、日本の弥生時代や古墳時代に相当するものは無く、国家も形成されなかった。
日本の弥生時代や古墳時代と同じ時期は、北海道では続縄文文化といわれ狩猟採集社会が続いた。

言語面では、古代日本語の主要単語の痕跡から、本州・四国・九州の太平洋側にポリネシア、東南アジア方面や中国南部からの人の移動もあったのではないか、という説もある。

西日本では、縄文人と渡来系の人達(主に朝鮮系)が融合したのではないかといわれていて、「渡来系弥生人の拡散と続縄文人時代」といった報告書も出ている。(国立歴史民俗博物館研究報告)
その報告書によると、続縄文時代(弥生時代から古墳時代)には北海道と東北・関東や長野には、同じ縄文系の形質の人達が分布していたという。
(元々北九州と南朝鮮の間では、弥生時代以前から行き来があった可能性が指摘されている。)
北海道では更に、オホーツク文化の人もある時期、南下していて北海道東部に文化圏を作っていてアイヌ民族といっても複雑である。

関東・東北の蝦夷(エミシ)も日本書紀等には度々登場する。
元々同じ北海道・東北の縄文系の人達が、本州では、古墳時代以降、稲作文化を受け入れ、北海道では稲作文化が入らず、狩猟採集生活を続けたが、同時に雑穀の農耕はしていたという。(川での大量の鮭漁も含む)

東北では、稲作農耕文化を受け入れた人達が、大和朝廷と対決し、それが記紀ではエミシとされているという説もある。
エミシやエゾに関しては研究が進んでいるが、日本の弥生時代や古墳時代やそれ以降の歴史のように、明確になってはいない。



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