老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

京街道を行く⑱  余談  ~「京街道」の整理~ 

2019年12月17日 20時29分40秒 | 旅行/色々な風景
 今回の一連の歩きは、その①で述べたように、京阪電車の「京街道ウォーキングマップ」を見て思い立ったもので、そのレポートも「京街道を行く」と名付けるとともに、
京街道とは、東海道の大津宿から、京都市内を経由せずに、伏見に向い、そこから京都―大阪の幹線である道を通り枚方/守口を経て大阪市内の高麗橋まで(当初は大阪城の京橋口だったようですが、江戸時代に高麗橋に変更になった由です)の道をいうようです。”
と記載しました。

 今回は、この道を逆方向に歩いたのですが、「京街道」という定義に付いて、若干補足説明が必要なようです。

 途中の大阪市旭区の商店街や、枚方の枚方宿跡などには「京街道」の看板があったりして伏見に着くまでは、何ら疑問を感じなかったのですが、伏見を過ぎて大津に向うにつれて、この「京街道」という呼び方に少し違和感を覚えるようになり、無事大津に着いたのを機に纏める意味でもこの呼称を少しチェックしてみました。


 先ず、東海道や中山道などの呼称は別にして、「〇〇街道」と呼ばれる場合は、中には経由地を呼ぶ場合もありますが、一般的は〇〇が行き先の地名でつけられている場合が多いのです。
また、同じ区間が複数の街道名に重複している場合もあります。


◆従って、「京街道」と言う場合は京都に向かう道を言い、一般的には大坂(大阪市)から京(京都市)に向う幹線道路を言い、逆に京都から大阪に向う場合は、同じ街道でも「大坂街道」と呼ばれていました。

◆この京街道 (大坂街道)は、大坂の京橋(後に高麗橋)から淀川左岸に沿って進み、淀を経て京(京都)に向かう街道です。文禄3年(1594年)に伏見城築造に着手した豊臣秀吉が、1596年(文禄5年)2月に毛利一族に命じて淀川左岸に築かせた「文禄堤」が起源のようです。

 淀から京都の間は2つのルートが取られました。1つは桂川左岸を進む鳥羽街道であり、もう1つは現在の宇治川右岸の淀堤を経て伏見に至り、伏見から伏見街道あるいは竹田街道を経て京都中心部に達します。

※ 鳥羽街道は、京の羅城門跡(京都市南区)から鳥羽を通り淀へと至る街道で、京街道(大坂街道)に含まれる場合も多いようです。

※ 伏見街道は、 京(京都)の五条と伏見とを結ぶ街道で、途中で大津宿と伏見宿を結ぶ街道である大津街道と合流します。
 今回私が歩いたのはこの大津街道で、その間の伏見~髭茶屋追分間は伏見街道或いは大津街道で(その内の小野~髭茶屋追分間は奈良街道とも重複します)、髭茶屋追分から先が大津街道(或いは東海道の一部)ということになります。

※ 竹田街道は、京(京都)の竹田口から伏見へとつながっていた街道で、 奈良街道や京街道(大坂街道)の一部とも位置づけられる。

◆京から伏見を経て奈良に至る街道は、一般的に「奈良街道」あるいは「大和街道」と呼ばれます。(京⇔大坂と同様に、奈良側からは「京街道」といいます)
 京・伏見間は山沿いの「伏見街道」と、平野部の「竹田街道」の2ルートがあります。
 伏見街道を経由する場合は、髭茶屋追分で旧東海道(三条街道)と分岐、山科盆地を南下し六地蔵から宇治・大久保に至る経路も「奈良街道」と言います

 従って、山科区小野地区⇔髭茶屋追分間は、伏見街道・大津街道・奈良街道の3つの呼び名があるというややこしいことになります。

 以上、難しい街道学の一部でした。(まさ)