老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

安全と安心

2017年01月30日 20時01分59秒 | その他
 先日の安倍首相の所信表明演説では、“安全で安心な国家”という言葉が使われていましたし、“安全で安心”という言葉は、まるで一つの対言葉のように使われるケースが多いのが少し気になっていました。

 デジタル大辞泉によると、「安全」は“危険がなく安心なこと”で、「安全」には「安心」がセットになっており、つい“安全であれば、安心である”という思い込みが生じているようです。

 しかし、国際標準化機構による定義では、“安全とは許容できないリスクがないこと”となっており、もっぱらリスクに関する危機管理のことなのです。

 一方、同じくデジタル大辞泉では、「安心」は“気にかかることがなく心が落ち着いていること。また、そのさま”とあります。

 即ち、安全と安心は全く違う概念で、
◆「安全」は科学的評価が可能なもので、“科学で証明される客観的事実”であるのに対して、「安心」は“自ら理解・納得したという主観的な感情”で人それぞれに異なるものです。
別の言い方をすれば、“安全は評価できるが、安心は評価できない”ということでしょうし、“安心は信頼感に基づく”ともいえそうです。

◆本来に安全ならば安心感を生むことになり、今まで多くの人は(特に産業界の人は)、“安全を確保しさえすれば、人々は安心してくれるはずだ”と考えていました。
しかし、原発に関しても、それまでの安全基準を満たしていたはずなのに、予想もしていなかったような大事故に結び付いた事実を突き付けられ、どうもおかしいと思いはじめたようです。

◆即ち、安全の基準をどこに置くかで安心に結び付かないケースが多くあることに気付き始めたのです。
安全基準とは、殆どの場合は経済性や競争力を考慮してマニュアル通りの使用や想定内の過酷さを超えないという前提に基づく、言わば“相対的安全”であり、想定外の使用や天変地異に対しても問題のない“絶対的安全”ではないのです。

 従って、絶対的安全が確保されない以上は安全と安心は結び付かないのです。

 相対的安全でも万一の場合にも医師などの対応で生命に対する危険がない商品や機器などの場合は、勿論ながら数字で表せるような「安全」を確保した上で、その基準となる範囲(あるいは限度)をはっきりと表示することで、少しでも「安心」に近づけるでしょう。

 しかし、原発のような核物質を取り扱う産業や、危険物を取り扱う装置産業については、万一の場合の被害の大きさを認識すれば、相対的安全というのはあり得ず、絶対的安全がなければ、「安心」という言葉に結び付けるべきではないと思います。(まさ)

(この項は、朝日新聞デジタル版並びに日経ビジネスデジタル版を参考にさせて頂きました)