●今日の埼玉新聞「読書」欄の新著の余禄に“異物認める優しい社会に”というタイトルで、内田樹さんの著書「日本習合論」(ミシマ社)について記載しています。内田さんは「神仏習合のような明治以前の宗教文化の豊かさも捨てずに生かさないともったいない。『廃品回収』のような感じです」と語っています。
●「今こそ日本人論を積極的に語るべき。日本にはほかの国をもって代えがたい世界史的使命があるのだというある種の”共同幻想”は必要です。そうした理想がないと国民は分断され、細分化し、まとまりがなくなってしまう。」と。新書「日本習合論」のキーワードはズバリ「習合」。「コーヒーと牛乳でコーヒー牛乳。カレーとそばでカレーそば。何でも混ぜっちゃう日本文化の一番いいところ。習合というのが日本文化の特徴です」と明快です。
●「習合」。はじめてお目にかかった言葉です。ブリタニカ国際大百科事典では「人類学用語。文化接触によって生じる2つ以上の異質な文化的要素の混在,共存のこと。 1935年頃から始った文化変容研究の開花期に登場した用語。習合において,もとの文化要素は再解釈,再構成され,新しい意味や機能が与えられる」と解説しています。
●この余禄の文章を読みながら何となく今の日本と自分が子どもの頃から成長期にの時代を重ねてみると、何となく漫然と違いが分かる。分岐点は、バブル崩壊後の政治の混迷の中で、新自由主義的経済政策の「小泉構造改革」からリーマンショックで、我が国の社会は「自己責任社会」となり、分断と格差貧困が定着し、何となくクリスタル(田中康夫)から何となく格差・貧困・孤独・孤立・あきらめが社会を覆うようになった気がしました。
●小泉改革から民主党政権の自己崩壊を受け、安倍内閣の復活後の7年8カ月、その継承の菅政権が掲げた「自助・共助・公助」、アメリカのトランプ大統領の自国(自分)主義が、国際社会の分断をあおっているように見えます。私のように北海で生まれ、青春期をそこで過ごし、就職後の東京、新家庭を持った北本市には、重層な地縁が薄く、まさに「習合」の理念が必要であるようにも思いました。自分は地方自治体の議員として、ある時は新自由主義的競争社会を羨望し、年齢を重ね家族との未来を想像すると、内田樹氏が語る、「習合の社会(異物を認める優しい社会)」と公助と共助に帰結しそうでありますが・・・。皆さんはどうお考えになりますか。