素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

ごく平凡な一日。下村博文・文科相インタビューを朝刊で読む。

2013年04月22日 | 日記
 朝刊の「くらしナビ学ぶ」に『道徳の教科化 どう進める』という内容での下村文科相へのインタビュー記事が掲載されていた。
《道徳教科化について「国が定めた道徳観を押しつける」との批判がある》という質問に

♦それはイメージで言っているのだと思う。今の学習指導要領を見てほしい。例えば「法やきまりの意義を理解し、遵守すること」「公徳心をもってよりよい社会の実現に努めること」とある。これが果たして批判者が言うような国家の特定な価値観を国民に押しつけ、心の内面まで入り込むものかどうか。これは国境、民族、歴史を超えて人が人として知っておくべき規範意識や社会のルールではないか。

と答えている。国会の答弁でも同じような趣旨のことを述べていた。スッキリしないのである。集団生活があるかぎりそこに一定の規範意識やルール(規則、法律)が必要なことは確かである。しかし、一方で規範やルールは生活のなかで作られてきたものであるから絶対的なものではない。という視点も必要である。憲法改正の話や法の解釈の相違によるさまざまな訴訟のことなどは説明がつかない。「遵守すること」も大切だが、自分にとって不当だと思うルールについてはどう向き合っていくべきかまで踏み込まないとだめだろう。権力者にとってはこのことが一番嫌なことではないだろうか。

 そういう点では学校教育制度は規範意識やルールを遵守することを学ぶシステムとしてよくできているように思われる。ことさら教科にしなくても十分今のシステムの中でやっていけると思っている。

 「公徳心を持ってよりよい社会の実現に努める」についても一歩踏み込めば「公徳心のある・なし」の判断は極めて難しいし同時に「よりよい社会」にいたってはさまざまなイメージがあるだろう。例えば皆が口にする「平和な世界の実現」ということでも具体的な内容になると百家争鳴となる。そう考えると、「権力者にとって不都合なよりよい社会をめざす人間は公徳心がない」という心が裏に見える。

 《なぜ教科にする必要があるのでしょう》という質問には

♦いじめ問題が一つの背景にある。道徳の学習指導要領に書いてある内容をきちんと学ぶことによって、相手に対する思いやりや、人と人との関係をもっと大切にすることなどを身に着ける。いじめはゼロにならないかもしれないが、少しでもなくしていくことに資するものだということを考える中で、教科化することにより、しっかり授業を行ってほしいという思いがある。

 楽天的やなというのが率直な思い。いじめ問題はどなど今に始まった問題ではない。はるか昔から存在する宿命みたいな課題である。教科云々という話以前から心砕いて取り組んできたことである。その実践例を古今東西の学校関係者が紙に書いて積み上げれば富士山より高くなるであろう。そういうことをきちっとふまえていればこのような答えにはならないだろうと思う。

 などなど午前中の買い出しの時も午後からのジムでもずっと頭の中でいろいろな思いが駆け巡っていた。それらを言葉にするのは本当に難しい。

 学校教育はよくできたシステムではあると思うが、今考え直す時期にさしかかっているのかも知れない。基本はスリム化じゃないかと思う。余りにも多くのことを学校が取り込みすぎたように思える。
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