日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

第六項 『日興遺誡置文』の「極理師伝」の文を否定する仏法破壊の妄説を破折する

1997-12-15 | 創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す

 

 第六項 『日興遺誡置文』の「極理師伝」の文を否定する仏法破壊の妄説を破折する


 『日興遺誡置文』に「御書を心肝に染め極理を師伝して」とあるから御書だけではダメで、極理を相伝した歴代の法主の指南に従わなければならない。
(文責者注・右文は創価学会が宗門の主張として挙げたもの)

 まず御書を心肝に染めなさい!信徒が勝手に御書を読んでも大聖人の深い心は分からない等と物知り顔に言う輩は、大聖人がひらがなで書かれたお手紙を梳き返しにした五老僧の末裔であり、天魔の伴侶です!
 なぜ昔は無知の僧俗に対して御書の乱読を禁じたかについて、日亨上人は、
『無意の誤写・有意の偽作多きが故に、御書といへばとて綿密の検閲を経るにあらざれば・信を措いて拝読すること能はず』(富士宗学要集第1巻P.153)
と、「宗門に於いて一定の御書の編纂せられざるの間は」(P.154)後世の者による後加が多いため、御書の乱読を戒められたのですが、すでに日亨上人が正邪を明確に区別された現在は、大聖人の言葉として御書を根本に真剣な拝読を行うべきなのです。

 御書を心肝に染めることは大切でありますが、我意・我見、わがままな自己中心の立場で御書を読むことは、聖意を外す誤りがあり、まさに創価学会の読み方がそれなのです。
 すなわち、「本化国主として、愚王を誡責するのが池田」だとか、「『一期弘法抄』の国主が、創価学会最高のリーダー池田」だとか、途方もない解釈のほかにも、あらゆる文のスリ替え、切り文などが実に目立ちます。創価学会の「御書根本」は、宗門の師伝を軽賤する我見によっていますから、ことごとく聖意に背逆するに至るのです。
 また、学会はここで、「極理師伝」を否定する文証として、日有上人が『化儀抄』において御書の濫読を禁じられた文についての、日亨上人の『註解』を悪用しています。すなわち、日有上人の昔は誤写・偽作の御書が多かった故に、宗門において一定の御書の編纂がされない間は御書の濫読を禁じられたものとの日享上人の解釈を挙げ、既に日亨上人が御書の正邪を区別された現在は御書を根本とすべきであって、「極理師伝」はもはや不要、とするのです。
しかし、『化儀抄』および『註解』の当該の文を精読すれば、この学会の主張こそ、趣旨のスリ替えであることが明白です。それは、他門徒所有の御書の披見を禁じられた『化儀抄』の指南と、また、これについてその理由を解説した『註解』のいずれにも、「極理師伝」を否定する文言や趣旨は認められないからです。
 すなわち、当時、他門の所有する御書のなかに偽書が存在したことや、本宗僧俗が勝手に他門の御書を拝読することを日有上人が禁じられたこと、日享上人の編纂による『御書全集』が発行されたことにより、御書拝読に関する日有上人の制約が解消したことなどは与えて認めるとしても、それらは御書の信頼性の面からの拝読に関する指南であって、大聖人の真実の御書を拝する上における「極理師伝」の重要性を否定するものでは、全くないのです。
 もし「極理師伝」がなくとも、単に御書を拝読するだけで仏法の深義が領解できるのなら、五老僧やその門下が謗法となることもなかったはずです。先にも重々述べた如く、権実相対、本迹相対の御法門を示された御書が多くありますが、その文面に執し、本門弘通の大導師たる日興上人からの「極理師伝」を怨嫉し、これに背逆したところに、身延派の本尊雑乱等の謗法が生じたのであり、まさに現在の創価学会と軌を一にするものです。
 また、宗祖一期御化導の締めくくりとして、重大法義を明かされた『三大秘法抄』には、
  「予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付けて留め置かずんば、門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加ふべし。其の後は何と悔ゆとも叶ふまじきと存する間貴辺に対し書き遺し候」(御書一五九五)
と仰せです。すなわち、大聖人の弘通あそばされる御法門とは甚深の秘法であり、この仰せからは、当時、門家の弟子達ですら、その深義を領解できておらず、むしろ大聖人の御法門を汚す恐れがあったことが明らかなのです。
 その後の五老僧の振る舞いは、まさしく大聖人がかねて見通されていた如くであり、同時に、今日の創価学会の下種三宝破壊の姿こそは、この「無慈悲の讒言」云々の聖文の真実なることを証明している、と言わねばなりません。
 なお、学会は『御書全集』について「日亨上人が正邪を明確に区別された」と言っていますが、それならば、同『全集』に収録されている『百六箇抄』等も、後加文を含め、日亨上人が正編とされた御書と拝信すべきなのです。
 また、同『全集』は系年検討が完全ではなく、また、真撰と拝すべき相当数の御書も未収録ですが、今回、本宗において、大幅にこれらの点の改善と充実が図られた『平成新編日蓮大聖人御書』が発刊されたことを、だれよりも喜んでおられるのは、『全集』編者の日亨上人でありましょう。それとともに、創価学会が同上人著述を切り文して宗門攻撃に利用していることを憤激しておられる、と言っておきます。


 逆に、日顕宗の輩のように、たまに御書を引用すると後加文ばかり、などというのは、
『私に経文を作り経文に私の言を加へなんどせる人是れ多し、然りと雖も愚者は是を真と思うなり』(P.882) (※善無畏三蔵抄)
と大聖人が言われたとおりの愚者であることは間違い有りません。
 また、御書の大部分は、大聖人様がひらがなしか読めない信徒たちに書かれたお手紙です。この御書をそのまま読んでも信徒には分からない等と言うのは御本仏の大慈悲をないがしろにした五老僧の生まれ変わりでしょう!

 まず、「御書を引用すると後加文ばかり」と悪口を加えているが、これについては池田らの自語相違を含めて、先に破折したとおりです(本書188頁を参照)。
  次に『善無畏三蔵抄』の、
  「私に経文を作り(乃至)真と思ふなり」(御書四三七)
の文を引いて宗門が愚者だと言っておりますが、この文も意味の異なるスリ替えであります。これは法華経に背く慧能や善導そのほか、三国の邪師その他のことを仰せであり、宗門の相伝書を受けた方がその正意を明らかにするために付加された意義とは、天地の隔たりがあります。それを見る見識もなく、混乱して文を挙げるところが、創価学会の「御書根本」の邪義だと言うのです。
 また、「ひらがな」云々は、それだけが御書の主体であるような言い分はとんでもない間違いであります。漢文体とひらがなの違いに関係なく、五大部、十大部等の甚深の御書もあり、信徒へのひらがなの御書のなかにも、深い義理と元意を込められている場合も多いのです。したがって、「極理を師伝し」云々の指南が肝要なのです。
 本宗の正しい素直な信心をもって御書を拝すれば、ひらがなや漢文体の別なく、僧侶も信徒も共に次第して正しい理解を得られるのです。それを、信徒には解らないなどと言う僧侶は全くいません。
 ただし、謗法・邪義になり果てて、しかも、なんでも解ると狂信する創価学会こそ慢謗法なのであり、御書の聖意から遠く距たるのであります。


 えらそうに「極理」などと秘密めかしても、その極理とは、相承箱に入れて代々の法主に伝えられて来たはずの相伝書のことだということも知らないのでしょうか?この相伝書の内容は、日寛上人が「観心本尊抄文段」で列記されています。
  『故に当抄に於て重々の口伝あり。所謂三種九部の法華経、二百二十九条の口伝(御義口伝)、種脱一百六箇の本迹(百六箇抄)、三大章疏七面七重口決(本因妙抄)、台当両家二十四番の勝劣(本因妙抄)、摩訶止観十重顕観の相伝(本因妙抄)、・・、本尊七箇の口決(御本尊七箇相承)、三重の相伝(本尊三度相伝)、筆法の大事(御本尊七箇相承)、明星直見の伝授(御本尊七箇相承)、甚深奥旨、宗門の淵底は唯我が家の所伝にして諸門流の知らざる所なり。』(観心本尊抄文段 文段集P.443)
 しかも、相承箱の内容が散逸していたため、59世堀日亨上人が他山の写本等から写してきて、御書と富士宗学要集にすべて公開されたではありませんか!そのことを日達上人も認められていたことも知らないのでしょうか?
 例えば、百六箇抄は要法寺日辰や房州日我の写本、産湯相承書は房州妙本寺日山(日我門下)の写本、御本尊七箇相承も房州妙本寺日山(日我門下)の写本から、日亨上人が写されてきたもので、日蓮正宗には存在していなかったのです。これらの事実についても、富士宗学要集に日亨上人の言葉で記録されているではありませんか。
 それでも、なお相承書以外に特別な「極理が師伝」されていると言う人には、繰り返して大聖人の言葉に基づいて「天魔、外道だ」と破折しましょう。

 次に「極理」について相承箱に入れて伝えられてきた相伝書だと言い、それは日寛上人が『本尊抄文段』で列記されているとしてその名目を挙げ、それも「散逸していたため、日亨上人があちこちの諸山から集めたもので、すべて公開されているから、これ以外に特別な極理が師伝されていると言うなら、天魔、外道だと破折しよう」などと大見栄を切っております。まことに一知半解の哀れな者どもであります。
 今、この『本尊抄文段』の初めに列記された、創価学会では略していますが、二十三カ条の名目を見ますと、さすが日寛上人かなと感嘆いたします。なぜかと言うと、大聖人、日興上人以下に伝わる甚深の相承には、外用と内用があり、特にその内用と定められた唯授一人の血脈相承の文には、一言半句も触れておられないことであります。ここにきちんとけじめをつけられて、甚深の法門、相伝書といえども、文段に挙げる名目は外に示してよい名目に限っておられます。これを見て、創価学会の輩は「相承と言ってもこれしかないのだ。それは皆、既に発表済みで、ほかに何もない」と得意顔なのは、そこに創価学会の邪心・無慙があり、その誤りを自覚せずして喋々する「御書根本」「大聖人直結」などの意味がすべて、我見・邪悪の結果を生ずるのであります。
 重ねて言うと、この文段の「重々の相伝」と言われるものは、秘伝ながら外用の範囲であります。さらに内用において、金口嫡々唯授一人の相承があり、今、その記述内容の関連より、やむをえず示された文が公開済みなので、これを挙げることにいたします。
 『家中抄』の日道上人の伝の終わりに、
「御上洛の刻み、法を日道に付嘱す、所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり。総じて之れを謂えば内用外用金口の知識なり、別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり、甚深の血脈なり、其の器に非ざれば伝えず、此くの如き当家大事の法門既に日道に付嘱す。爰に知りぬ、大石寺を日道に付嘱することを。後来の衆徒疑滞を残す莫かれ」(日蓮正宗聖典六九五)
とあります。このなかの「外用」とは、外に向かって仏法の筋道を示す、従浅至深、一切の法門であり、日寛上人の挙げた名目も、大体ここに入ります。
 「内用」とは、嫡々代々の内証において用いる真の唯授一人、七百年、法統連綿をなす根幹の相承、一言一句も他に申し出すべからずと示されたる、別しての十二カ条の法体法門であります。故に、日亨上人といえども全く公開せず、極秘伝の扱いのまま、今日に至っております。
 次に、学会は、日亨上人が相承箱の内容を他山より集め、それをすべて御書と『富士宗学要集』に公開されたと言い、このことを日達上人も認められていた、などの当てずっぽうを言っているが、それなら日達上人が認められていた内容として、唯授一人の相承もほかにはなく、すべて公開済みであると言われたという証拠を、はっきり出しなさい。これを出せなければ、相承に関する彼等の誹謗は、すべて我見の邪義と断じられます。
 創価学会の者どもの浅識無知にして大聖人の真化を謗ずるは、堕在無間であることを知らなければなりません。また、「日亨上人が他山から写した」云々による謬見は、前に破折してあります(本書160頁を参照)。


  『仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ』(P.219) (※開目抄)
  『我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり』(P.181) (※行敏訴状御会通)
 大聖人の経文の中に伝えられた正法しか信じてはならないのです。

 次に、また、『開目抄』の「仏説に依憑して」云々の文と『行敏訴状御会通』の「我が経の外に」云々の文を挙げていますが、前者は法相、三論等の四宗破折の文証で、後者は禅破折の文証であり、まさに切り文であります。


 それでは、御書とりわけ口伝書の中に示されている「極理」とは何かと言えば、御義口伝に明確に示されているのです。
  『今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり、六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり、聞き奉りて修行するは観行即なり此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、さて惑障を伏するを相似即と云うなり化他に出ずるを分真即と云うなり無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり、惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得可きなり』(P.752)
  (通解:今大聖人門下の考え方は、広く言えば如来とは一切衆生のことであり、深く根本的に言えば大聖人の弟子檀那のことである。したがって無作の三身とは末法の法華経の行者のことを言うのである。この無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と言うのである。寿量品の事の三大事とはこのことである。これを六即に立て分けた時は、一切衆生が如来であるというのは理即の凡夫のことである。題目を受持した時が名字即である。その理由は、初めて聞く題目だからである。題目を聞いて修行する(唱題行に励む)のは観行即である。この観行即とは事の一念三千の本尊を持つことである。次に惑障を伏するのを相似即と言うのである。折伏をするのを分真即と言うのである。わが身が無作の三身の仏であると究竟した境涯を究竟即の仏と言うのである。一般的に伏惑を以て寿量品の究極とはしない。ただ凡夫の当体本有のままをこの寿量品の極理と心得べきである。)

 次に『御義口伝』の寿量品の六即会釈の文を引き、特に最後の、
  「唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得べきなり」(御書一七六六)
の文により、ここに明確に極理が示されている、と言うのです。これも「御書根本」などと言いつつ、「極理」という文字に囚われて、この文に含まれる深い義理を短絡して「極理」だと受け取る素人読みなのであります。
 この文は、「凡夫」とあっても、ただの凡夫ではありません。
  「無作の三身とは末法の法華経の行者なり」(御書一七六五)
と仰せのように、凡夫の当体たる日蓮大聖人が、寿量の仏身においては真実・究極の仏であることを御指南されているのです。これが極理であることはもちろんですが、このなかにはさらに、御本尊の顕示、三大秘法の整足、日興上人への内用・外用の相承等、重々の本仏の御境界、御化導の中心・中枢の極理が存するのであります。
 これを知らず、ただ「極理」という言辞にのみ囚われて、我々凡夫の当体を「これのみが極理だ」などと驕る創価学会の浅識こそ、笑いものであります。


  『此の品の時最上第一の相伝あり、釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り給うなり八字とは当起遠迎当如敬仏の文なり乃至必ず仏の如くに法華経の行者を敬ふ可しと云う経文なり』(P.781) (※御義口伝)
  (通解:普賢品の時に最上第一の相伝がある。釈尊の八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲られたのである。八字とは当起遠迎当如敬仏の文である。(中略)必ず仏に対するように法華経の行者=三類を呼び起こして妙法を広めた人を敬わなければならない、という経文である。)
 要するに、末法に三類の強敵を呼び起こしながら妙法を広める「法華経の行者」を仏のように敬いなさい、と言うのが法華経の最上第一の相伝だと言われているのです。日顕宗は一応同じ大聖人の仏法なので五重の相対では破折出来ませんが、日顕を破折するために、大聖人は人間としての最高の振る舞いこそが究極の目的であるとの御金言を残されています。
  『不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ』(P.1174) (※崇峻天皇御書)
 つまり、特別な戒律や修行によって惑障を伏するのを寿量品の「極理」とはせず、ただ凡夫の当体本有のままで、一切衆生の救済のために自行化他の題目をあげ、難を乗り越えて妙法を広め続けること、またその最高の振る舞いの人を最大に尊敬することを寿量品の極理とする、ということが口伝されているのです。この「極理」を伝えるべき法主が悩乱して放逸(謗法の異名P.1174)と権威主義(立場にとらわれた外道)に陥った故に、今こそ正法を守るため断固として邪義と戦わねばならないのです。

 次に「当如敬仏」の文をしつこく挙げ、創価学会が「相伝」という文字に囚われた守文の徒であることを暴露しています。
 これは、彼等の言う如き「寿量品」ではなく「普賢菩薩勧発品」に説かれる、教化弘通の徳に関する相伝であり、総の法門であります。その趣意は、必ずしも創価学会に限ったことではありません。否、むしろ今の創価学会は既に法華の信者・行者たる資格を、正法正義の正師を謗ずることにより失っているのですから、「当如敬仏」の文には全く当てはまらないのです。「当如敬仏」とは、まさに現日蓮正宗僧俗の信行学に邁進する者に与えられる資格であります。
 このあと、御丁寧に『崇峻天皇御書』の末文の、有名な、
「不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候ひけるぞ」(御書一一七四)
の文を挙げていますが、この文は、悪業三昧の創価学会へ、よく拝読して我が身を省みよと、そっくりお返しします。
 女性問題に関する裁判係争、電話盗聴、「勝って勝ちまくれ」などの闘争意識、平気でウソを言う虚言体質、弱い者いじめ、金権・金まみれ体質、そのほか数え挙げればきりのない、おぞましい行為や体質はすべて、池田創価学会が世に撒き散らしている姿であります。この文を挙げて宗門を誹謗する暇があるなら、その汚れた脳ミソにこの御文の正意を少しは叩き込んでおけ、と呵すものであります。

 ※『第七項 血脈法水に具わる僧宝の意義を否定する、下種三宝破壊の妄説を破折する』へつづく

 

 

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