日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

市河氏の「一信徒としての質疑」を破す①

1991-09-01 | 時局資料

     市河氏の「一信徒としての質疑」を破す

              時局協議会文書作成班3班  

 市河氏は、その序文において、昭和53年の6・30の確認事項で、最も衝撃を受けたのは、出家と在家の差別観であったことを記している。そして、宗門に僧俗の差別観がある限り、今回のような事件は、小事をきっかけに将来もでてくるのではないか、とも述べている。
 ここに、この質疑内容全体を通して存する宗門と寺院の軽視、僧侶蔑視の思想を臭わせている。最も重大なことは、この質疑内容全体としての論理から、本因下種仏法における三宝の破壊という問題に行きあたることで、これはとても看過できない。これは、まさに「悪鬼入其身」による正法破壊の姿であるというべきである。
 そして、このように、僧侶でない者が、自分は僧侶を兼ねる、自分は僧侶と同等であるかのような考えをもち、それを主張する者がでてくる限り、本宗の三宝や化儀の在り方そのものが危うくなってしまうので、昭和52年路線や、今回のような問題は、必ず起こってくるものと思われる。
 ともあれ、こうした質疑書などというものは、もっと真面目に日蓮正宗本来の教学の勉強をしてからにしてもらいたいというのが、我々の偽らざる気持ちである。


(1)在家出家の平等観

 市河氏は、「出家と在家の差別観」あるいは、「宗門に僧俗の差別観がある限り」と述べているように、ことさらに差別観を意識している。
 確かに出家と在家、僧侶と在家の関係は、一切衆生悉有仏性であり、理の辺からみれば平等である。これは、日蓮正宗僧俗、あるいは他宗の人々も皆等しく仏性を具えているのであるから、人種、性別を問わず、差別など存するわけがないのである。
 しかし、信心をしている日蓮正宗の信者を、内道外道をもひっくるめた他の宗教家や、在家の人達と同格にみることができるだろうか。そこには、当然のことながら、正法を受持信行する者と、邪宗教の者との差別が存することは当然である。正法を受持信行する俗人の中から、出家である僧侶もでてくるのである。
 信者は、在家としての生活のまま仏道を行じ、出家は、仏の内弟子として僧形となるのである。
 御書の中には、「日蓮が弟子」「日蓮等の類」「日蓮が弟子檀那」といった表現があるが、これは、別して僧侶である「弟子」と、信徒である「檀那」とを立て分けた場合、「大聖人と弟子(僧)」をいった場合、「弟子檀那」と総じていった場合、あるいは「弟子」といっても外弟子の意味で、在家信者の者をも「弟子」と表現された場合など、種々な意味があることは周知のとおりである。
 しかし、僧俗の立場を混同したり、在家が出家を兼ねるなどという意味の御指南は、大聖人、日興上人をはじめとする御歴代上人には、全くないのである。大聖人様は僧の意義として、
「父母の家を出て出家の身となるは必ず父母を・すくはんがためなり」(「開目抄」)
「夫れ出家して道に入る者は法に依つて仏を期するなり」(「立正安国論」)
「凡父母の家を出でて僧となる事は必ず父母を助くる道にて候なり、出家功徳経に云く『高さ三十三天に百千の塔婆を立つるよりも一日出家の功徳は勝れたり』と、されば其の身は無智無行にもあれかみをそり袈裟をかくる形には天魔も恐をなすと見えたり、大集経に云く『頭を剃り袈裟を著くれば持戒及び毀戒も天人供養す可し則ち仏を供養するに為りぬ』云云、又一経の文に有人海辺をとをる一人の餓鬼あつて喜び踊れり、其の謂れを尋ぬれば我が七世の孫今日出家になれり其の功徳にひかれて出離生死せん事喜ばしきなりと答へたり、されば出家と成る事は我が身助かるのみならず親をも助け上無量の父母まで助かる功徳あり、されば人身をうくること難く人身をうけても出家と成ること尤も難し」(「出家功徳御書」)
と御指南あそばされている。
 これらの御書を拝すれば、市河氏の、
「創価学会の活動家は、やはり出家在家の両方に通じていると見るべきだ」
「出家と在家の立場は本来平等であり、表面上の役務が違うのみと見るのが正しい」
という考えは、すでに大聖人の御指南に反するものと断言できる。
 本宗において、僧侶となるためには、長年の修行を要する。仏祖三宝以来、師匠から弟子へと習い伝えられる仏道修行の経験もない在家の人々が、突然、自分達は出家を兼ねているとか、出家も在家も同じだと思うのは、大聖人の法義に反するものである。
 私達僧侶は、自分のことを偉いと思ったり、威張ったりする気持ちは全くない。そのようなことがあるならば、実に恥ずかしいことなのである。しかし、本因下種仏法たる日蓮正宗においては、二祖日興上人が「遺誡置文」の中で、
「若輩為りと雖も高位の檀那自り末座に居る可からざる事」
と、明確に規定しておられる。これが日蓮正宗であり、これを否定して己義を構える者は、もはや日蓮正宗の信者ではないというべきである。


(2)誤れる出家観

 また、市河氏は、
「創価学会員による出家在家の両面性によって日蓮正宗は、現代に宣揚されてきたのではないでしょうか。在家によるこのような弘教は仏教史上にはなかったのではないでしょ
うか。
 大聖人の仏法が前人未踏の開拓である以上、僧俗のあり方もまた、釈迦仏法の形態を受け継ぐのではなく僧俗間で時代に即応して、新たなる創造を必要としてよいように思います。」
などと述べているが、これは自分を弁えていない実に 慢ないい方であり、仏祖三宝尊の教えを踏みにじるものである。
 市河氏は、創価学会が今日のように大きくなったのは、創価学会員だけの力によると思っているらしい。僧侶による弘教は、全くないようないい方である。法華講員や学会員で、僧侶に折伏をされたり、折伏を応援してもらった人達も、かなりいるはずである。また、寺院の法要における説法、地域寺院によっては、お通夜や法事などでの法話を行なうなど、さまざまな形をとりながら行なわれているはずである。僧侶というものは、このように御本尊に給仕申し上げ、寺院を護り、自分の修行と教学の研鑽もし、ときには人々の悩みを聞いたり相談を受けるなど、種々にわたって広布のために努力しているのである。
 このように、在家の人たちとは異なった立場での僧侶の働きがあり、文字通り、僧俗一致の形に裏打ちされて、今日のような創価学会の大発展の姿をみることができたというべきである。論ずるまでもなく、これがそのまま宗門自体の大発展の姿でもあった。
 また市河氏は、
「涅槃経に次のようなご教示があります。
 『持律に似像して少し経を読誦し飲食を貪嗜してその身を長養し袈裟を著すと雖も猶猟師の細めに視て徐に行くが如く猫が鼠を伺うがごとし。乃至実には沙門に非ずして沙門の像を現じ』と。
 これは法衣を着したといっても、それが出家を表すものではないとの意であります。宗門の御僧侶がこの文に相当すると申しているわけでは決してありませんが、宗門に正法が伝えられていても、僧がその精神を忘れた場合においては、もはや『沙門に非ずして沙門を現じ』ということにならざるを得ないと考えます。これに反し、身は在俗であっても、広布の使命を自覚し、信行学に励む人があったとすれば、それは既に名聞名利の家を出た人であり、袈裟を着さないからといって一般社会人と同一視すべきではないと考えます。」
と述べているが、何とも根性のねじれたものの見方しかできない人物であるようだ。さらに、
「私の認識では、出家の本義は総じて名聞名利の家を出ることですから出家がそのまま仏法僧に云う僧には当たらないと理解しています。」
「出家即仏法僧の僧ではないのですから出家の解釈に当っては、時代的背景を認識することが不可欠であると私は考えるものです。」
とも述べているところから、この人は、本宗における三宝の意味が全く解っていないようである。
 本宗の三宝は、今さら論ずるまでもなく、仏宝は、久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人。法宝は、無作本有の妙法たる本門の大御本尊。僧宝とは、久遠元初の結要付属を受けた日興上人である。日寛上人は、「当流行事抄」で、
「久遠元初の僧宝とは即ち是れ開山上人なり。仏恩甚深にして法恩も無量なり、然りと雖も若し之れを伝えずんば則ち末代今時の我等衆生、曷んぞ此の大法を信受することを得んや。豈開山上人の結要伝受の功に非ずや」
と述べられている。この御指南のように、日興上人をもって僧宝とするのである。つまり、日興上人を結要付属の功あるをもって、私達僧侶の最高位の鏡たる僧宝として、信仰し奉るのである。
 そして、さらに日目上人、日道上人と次第して結要伝受して、今日の御法主上人に至る御歴代上人をも、総じて僧宝と仰ぐとともに、能化・所化等の僧侶をも僧宝の枠組の中に置かれることは論をまたない。大聖人は、「四恩抄」に、
「次に僧の恩をいはば仏宝法宝は必ず僧によりて住す、譬えば薪なければ火無く大地無ければ草木生ずべからず、仏法有りといへども僧有りて習伝へずんば正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず、故に大集経に云く五箇の五百歳の後に無智無戒なる沙門を失ありと云つて・是を悩すは此の人仏法の大灯明を滅せんと思えと説かれたり、然れば僧の恩を報じ難し、されば三宝の恩を報じ給うべし」
と仰せられ、さらに「新池御書」には、
「況や我等衆生少分の法門を心得たりとも信心なくば仏にならんことおぼつかなし、末代の衆生は法門を少分こころえ僧をあなづり法をいるかせにして悪道におつべしと説き給へり、法をこころえたる・しるしには僧を敬ひ法をあがめ仏を供養すべし、今は仏ましまさず解悟の智識を仏と敬ふべし争か徳分なからんや、後世を願はん者は名利名聞を捨てて何に賤しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし、是れ正しく経文なり」
と、御指南あそばされている。
 日有上人は、「化儀抄」に、
「一、貴賎道俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何レも同等なり、然レども竹に上下の節の有るがごとく其ノ位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか、信心の所は無作一仏、即身成仏なるが故に道俗何にも全く不同有るべからず、縦ひ人愚癡にして等閑有リとも、我レは其ノ心中を不便に思ふべきか、之レに於イて在家・出家の不同有るべし、等閑の義をなほ不便に思ふは出家・悪く思ふは在家なり、是レ則チ世間仏法の二ツなり」
と御指南されている。また日亨上人は、「化儀抄註解」に、
「『信心の人は妙法蓮華経なる故に何も同等なり』とは信心に於いて有為の凡膚に妙法蓮華の当体を顕証するが故に無信の時は貴賎の区別・賢愚の区別・道俗の分界・其天分に随つて益々明なれども信仰の上にて妙法の人となれば平等無差別なり、又類文の意の如し『竹に上下の節の有るが如く其位をば乱さず」等とは竹は一幹なれども節々の次第あり、信心の人は唯一妙法なれども能化所化の次第・僧俗の分位・初信後信の前後なきにあらず、此を以つて開山上人も弟子分帳の中に弟子分・俗弟子分・女人弟子分・在家弟子分と区別し給へり、但し前文は平等の義を示し今文は差別の義を示し常同常別・而二不二の通規を汎爾に示し給ふ」
と示されている。これらの文証をもとによく考えて、本宗における僧俗の正しい在り方を知ってもらいたいものである。
 「涅槃経」に、
「善男子よ、若し人、信心あって智慧あること無ければ、是の人は則ち能く無明を増長せん。若し智慧あって信心あること無ければ、是の人は則ち能く邪見を増長せん。善男子よ、不信の人は、瞋恚心の故に、説いて、仏・法・僧宝有ること無しと言ふ。信者に慧なければ顛倒して義を解し、聞法者をして仏・法・僧を謗ぜしめん。善男子よ、是の故に我れ不信の人は瞋恚心の故に、有信の人は無智慧の故に、是の人能く仏・法・僧を謗ずと説く」
と述べている。
 市河氏の論理でいけば、かならず三宝の破壊に通ずるものであり、仏法破壊の因縁と成るのは必定である。それは、もはや日蓮正宗ではなく、明らかに異流義であると断ずるものである。


(3)寺院と会館の役割

 市河氏は、宗門から、
「創価学会が会館や研修所を建てることは寺院軽視につながると申されていました。」
と述べているが、宗門は、何も学会が建物を建てたことで、寺院軽視といったのではない。その建物で、僧侶・寺院をまねて行なった法要や結婚式、その他寺院を軽視するような発言に対して、寺院軽視であることを指摘したのである。
 この当時のことを問題に取り上げるということは、昭和52年路線における、御本尊模刻をはじめとするさまざまな逸脱に対し、全く反省がないことを示しているものといえる。ここでも寺院軽視の思想が露呈している。
 僧俗については、先にも述べたが、市河氏が会館の役割を述べた文の中にもある「創価学会に出家在家の両面性が事実上認められる限り」云々などという考え方は、明らかに間違いであり、在俗の者は、どこまでいっても出家である僧侶を兼ねることはできない。たとえば、出家僧侶を兼ねるといって、そうした形をとったときには、完全に異流義であり、日蓮正宗の信者と認めるわけにはいかない。
 また市河氏は、
「交通事故、災害、家庭問題、生活問題等(中略)信心でどう受けとめるべきかという生々しい問題と取り組まざるを得ません。仏法と生活を直結させる拠点としての役割りを果しているといえましょう。最も必要なこうした役割りを今日の寺院で果たすことができるでしょうか。」
とも述べているが、それでは寺院ではできないとなぜいえるのであろうか。「上求菩提・下化衆生」の精神をもって精進している僧侶で、住職の経験が豊富な人ほど、このような問題解決のために対処した経験も多くもっているものである。
 学会員が大幹部の指導に納得できず、寺院に来ることも勿論あるが、特に法華講のある寺院においては、こうした問題を避けては通れないものである。
 また「創価学会の会館は、この様な形式を打ち破り」とも述べているが、「形式を打ち破り」とはいかなることか。一般の社会にあっても、宗内の諸法要においても、形式を打ち破るなどと、非道乱暴なことをされたのでは、全てが成り立たない。物事というものは、もっと深く考え、正しい認識をもって発言されなければならないのである。


(4)宗門の教学は正宗分、創価仏法は流通分

 市河氏は、
「創価仏法といっても、その内容は、大聖人の仏法を宣揚するものであって、大聖人の仏法と相違するものではなかったと信じます。強いてニュアンスの異なる点をあげれば、宗門の教義は法体の確立を示した正宗分であり、創価仏法は正宗分に根ざした流通分ということができたのではないでしょうか。」
と述べている。
 創価学会は、本来、日蓮正宗の教義を御法主上人の御指南のもとに、大聖人の流類として弘宣していく信徒団体ではなかったのか。そうであるならば、宗門の教義以外の仏法は、不要であるはずである。それを、ことさらに宗門の教義=正宗分、創価仏法=正宗分に根ざす流通分と強調し、区分けをする必要がどこにあろうか。
 元来、正宗分と流通分とはその内容において別なものではない。「流通」とは、流れ通わすという意味であり、その流通の当体とは正宗分であって、大聖人所顕の久遠元初の一法である。すなわち、日蓮正宗に血脈付法をもって守られた正宗分たる法義を、僧俗が力を合わせて弘めていくというのが当家の本義なのである。故にこそ「観心本尊抄文段」には、
「文底下種の三段とは、正宗は前の如く久遠元初の唯密の正法を以て正宗と為す。総じて一代五十余年の諸経、十方三世の微塵の経々並びに八宗の章疏を以て、或は序分に属し、或は流通に属す。謂く、彼の体外の辺は以て序分と為し、彼の体内の辺は以て流通に属するなり」
と釈されている。文底正宗分の一品二半の体内の辺で拝せば、序分として説かれた微塵の経説が、ことごとく妙法の一側面を説き明かされた流通分となることを示されるのである。
 序・正・流通とは、もともとこのように法義を述べる法体に約する仏法用語である。これを、ことさらに大聖人滅後の弘教の様相に当てはめようとするところに無理があり、市河氏の作為・邪念があるといえる。


(5)創価仏法、創価思想、創価哲学の表現

 また市河氏は、
「宗門では、創価仏法という言葉を使用してはならないとか、『日蓮大聖人の生命哲学』とはいうべきではないと指摘されたことにより、その後、創価学会ではこの用語を使っていません。しかし、創価仏法といっても、その内容は、大聖人の仏法を宣揚するものであって、大聖人の仏法と相違するものではなかったと信じます。」
と述べている。その理由として、市河氏は、
「宗門に伝わる正宗分を現代人に理解させるためには、生命論から法を説くかどうかが最もわかりやすい方法だったと思います。創価学会の教学が日蓮大聖人の法体に根ざしているかぎり、どのように展開しようとも、大聖人の法体を宣揚する論理であって、大聖人の仏法を逸脱した教義ではなかったはずです。」
と述べている。
 そして、以上の論理の結論として市河氏は、
「創価仏法という用語規則を撤回すると共に創価思想、創価哲学といった表現を許していただけませんでしょうか。」
と述べている。
 この主張に対して、まずいえることは、6・30、11・7の反省を、信心をもってもっと深く堀り下げるべきであるという点である。市河氏の、
「(現代に展開する意味で)現代の用語と概念を駆使しつつ展開し、現代相応の実践に導く」
との考え方は、一面の道理のようであるが、破壊してはいけない法義を破壊してまで、無理に新しく造語する必要は全くないのである。
 さらに、市河氏は、
「どのように展開しようとも、大聖人の法体を宣揚する論理であって、大聖人の仏法を逸脱した教義ではなかったはずです。」
として、無条件に学会の展開自体に誤りがないと主張するが、この種の展開に対しては、つねに大聖人の法義の筋道を踏まえることが、あくまで前提条件となるのである。現代用語は、大聖人の仏法の上からみるとき、大きな問題点も多々あることを知るべきである。無理な展開・解釈ではなく、あくまで大聖人の仏法の法義の基本を誤りなく踏まえ、解りやすく表現する努力こそ大切である。すなわち、現代用語の安易な使用は、大聖人の仏法の本義に新義を追加したり、ときとして意味内容がその本義から一人立ちして、独自的なものに変質、変容していく危険性を、つねに内に蔵しているからである。
 市河氏には、日蓮正宗の伝統の教義より逸脱することがあってはならないことを深く心に留めるべきである。
 また、市河氏は、
「私自身も日蓮大聖人の教義内容が偉大なる生命哲学であると認識したればこそ信を深くし」
と述べているが、大聖人の仏法は、単なる生命哲学という低次元なものではない。たとえ仏法を宣揚する手段であっても、大聖人の仏法に適った宗教的実践が根本である。故に、「日蓮大聖人の教義内容が偉大なる生命哲学である」と、短絡的に認識することは、誤りである。
 また市河氏は、
「そのような意味において、私は創価仏法を確立された代々の会長に、私は尊敬と感謝の念を禁ずることができません。私が、第三代会長を直接の師匠として仰ぐのも、創価仏法を通じて一大秘法の何たるかを自分なりに掴み得たという喜びに基くものです。」
と述べている。自己の教化親並びに縁故の人々に、尊敬と感謝の念を持つことは自然であり、むしろ当然のことといえるが「直接の師匠」とは、人生の師であっても、仏法上の師匠ではない。まして先に述べたように、「創価仏法の確立」などという新仏法・新興の教義の宗教は、もはや日蓮正宗の宗教とはいえないのである。日蓮正宗でいうところの仏法上の師とは、日蓮大聖人、そして現代においては唯授一人血脈付法の御法主上人に限るのである。市河氏には、当宗根幹の「師弟子」の在り方を、深く信受されんことを願うものである。


(6)日蓮大聖人の仏法と創価仏法

 市河氏は、
「日蓮大聖人の仏法と創価仏法の関係は、あたかも釈尊の法華経二十八品と天台の摩訶止観にたとえられるように思います。」
と述べている。
 しかし、あえて創価仏法を標榜する氏の仏法解釈は、すでに多くの誤りがあるのであり、大聖人の仏法との関係を論ずる前に、いさぎよく創価仏法などというような表現を捨て、日蓮正宗の相伝仏法により、内道と外道の相違から、改めて教学を学ぶことをお勧めする。創価仏法なるものの幻影に執われながら、大聖人の仏法を理解し、信ずることは、到底できることではない。いわば、爾前権経に執われながら、法華経を信ずることができないのと同じことである。
 氏のためにあえていえば、創価学会それ自体には、正しく日蓮正宗の仏法を信ずることによる功徳はあるが、創価学会独自の創価仏法なるものは、功徳はないのである。この仏法の簡単な道理が判るだろうか。仏法を現代的に展開し、宣揚するといっても、それは「法華経を讃すと雖も還って法華の心を死す」
というものとなってはならない。氏にとって、少し難解かも知れないが、大御本尊は仏法そのものであり、仏法の本義は唯授一人の御法主上人が御所持されるのである。これは大聖人の絶対的な御遺誡なのである。
 故に、創価学会による教学の展開も、日蓮正宗の教義と三宝を遵守するという前提のもとに、御法主上人より許されていることなのである。もし、御法主上人の御指南によって直すべき教義や指導があれば、学会はただちに反省し、それを改めることは当然のことである。氏は、創価仏法の存在を、釈尊の法華経に対する天台の摩訶止観に喩えたいようだが、天台大師は、なにも像法時代の衆生に迎合して、勝手に法華経を説いたのではない。釈尊より迹化の付嘱をうけ、その立場から摩訶止観等を説いたのである。釈尊も、大聖人も、また御法主上人も、創価仏法という用語を造り、そのもとで創価教学なるものを展開せよなどと仰せになっていないし、それを学会に依頼などはしていないのである。


(7)法体と体の三身、用の三身

 また、市河氏は、
「宗門に伝持された本門戒壇の御本尊たる法体は、私ども信徒からみれば体の三身とあり、広宣流布を目指す創価学会の活動は用の三身を意味するものと見ることができるように思います。」
と述べている。「体の三身」「用の三身」の、体とは本体を示し、用とは働きを示す。つまり、体を離れて用はないのである。体も用も倶に具わっていることを、倶体倶用という。宗祖大聖人を久遠元初の倶体倶用の無作三身、久遠元初の自受用身の本仏と立てるのが本宗の宗義である。これをなぜ分ける必要があろうか。本来、仏及び仏の化導に関してのみ用いる言葉、表現を、組織活動の中に当てはめること自体が、不適切であり、慎むべきである。
 さらに、市河氏は、
「つまり、創価学会を通じてのみ、日蓮大聖人の法体が何であるかを理論上も生活上の実感としても知ることができたわけです。」
と結論する。ここに至っては、滑稽さを通り越した哀れささえある。市河氏は、宗門=体の三身、学会=用の三身と分けた上で、折伏の実績の量をもって、学会主・宗門従という図式を企てようとしているが、まずこれは、他の正宗分・流通分、摂受・折伏の、宗門・学会への牽強付会の当てはめと同道で、その当てはめ自体が、間違いであることを知らねばいけない。
 元来、体の三身・用の三身とは、仏身に約する用語である。それを、ことさらに宗門と学会とに結びつけようとすること自体が無理であり、誤りである。まして、氏の「創価学会を通じてのみ」云々との言を借りていえば、会員に御本尊を正しく拝せしめるはずの創価学会というメガネは、今や曇り・歪み、使用不能にさえなりつつある。
 市河氏の言のようでは、葉をかいて根を断つように、自らの生命を絶つ自殺行為であることに気付くべきである。


(8)仏とは生命なり、仏法を蘇生させるについて

 また、市河氏は、
「『仏とは生命なり』とか、大聖人の仏法を『現代に蘇生させ』という用語にしても、宗門が何故目くじらを立てねばならなかったのか、現在においてもよくわかりません。仏とは、特殊な人でもなければ娑婆世界を離れたところにいるものとは思わないからです。御書にも『迷うを凡夫、悟を仏』とあるように、仏界とは、十界を互具した凡夫の生命のはたらきとして認識しております。」
と述べている。これは、まさに本仏と十界互具の凡身とが、全同であるとする暴論である。「仏」という語を用いるときには、当然、本仏日蓮大聖人を指す場合と、そうでない場合とを区別しなければならない。その混同、曲解を52年路線において、宗門は指摘したのであり、創価学会は反省したのである。
 「観心本尊抄」に、
「但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ」
とあり、又同抄に
「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」
「十界互具之を立つるは石中の火・木中の花信じ難けれども縁に値うて出生すれば之を信ず人界所具の仏界は水中の火・火中の水最も甚だ信じ難し(中略)悉達太子は人界より仏身を成ず此等の現証を以て之を信ず可きなり」
とあるように、「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」との御聖意は、末代の凡夫が人間と生まれてきて法華経を信ずるのは、人界に仏界を具足しているから信ずることができると教えられたものである。すなわち、この御教示は、人間界に仏界を具足することを信ずるとはいえるが、それを本仏への表現と混同させる作為をもってする「仏とは生命なり」との表現は、不適切であると宗門は指導したのである。我が心中に仏界ありといえども、仏界所具の凡身が本仏大聖人そのものであるかのごとき表現は、大なる僻見であることを知らなければいけない。
 さらに、市河氏は、
「『仏法を現代に蘇生させた』という表現を用いたとしても、宗門の仏法が死んでいたことにはならないと考えます。『大聖人の仏法を現代に蘇生させた』という言葉の使用を創価学会員に認めていただけないでしょうか。認められない場合は、その理由を教示して下さい。」
と述べているが、このような用語を認められない理由は、すでに述べているとおりである。市河氏の論に一貫して流れるもの、それこそが本質的な問題なのであるが、それは当宗根幹の「師弟子」とは別な師を立てようとする作為である。当宗における仏法上の師とは、再三述べているとおりである。大聖人の仏法は二祖日興上人に一切が御付嘱されている。「百六箇抄」には、
「上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐ可き者なり」
とある。日興上人は、令法久住、広宣流布の根本は、大聖人の金言と、血脈付法に対する正しい信受以外にないことを、
「当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して」
と仰せである。特に「極理を師伝して」といわれた所以を、よくよく拝すべきである。
 また日因上人は、
「当宗ノ即身成仏ノ法門は師弟相対シテ少モ余念無き処ヲ云フなり」(「有師物語聴聞抄佳跡」)
と仰せであり、そこにこそ、成仏の境界が開けることを知るべきである。故に、「現代に蘇生させ」等の用語は認められないのである。


(9)在家にも供養を受ける資格があるについて

 市河氏は、
「宗門では、在家は応供の資格はなく、それは仏と仏に直結した僧にのみ許された特権であるかの如く述べられています。在家は僧に金品を供養し、僧はこれを受ける立場にあった時代は、在家に弘教の力がなく、弘教は仏法研鑽を専門とする出家に頼っており、在家は僧に供養するということによってのみ、弘教に参画できるという社会状況にあったことを、私は先に述べてきました。
 僧への供養が仏縁となり、福運の因になるということは、それが間接的に弘教につながる社会において成り立つものと思います。」
「在家は供養を受ける資格はないということは、宗門では在家集団における広布のための運用費を否定されるのでしょうか。もし、運用費なら否定しないが、供養は認められないといわれるなら、供養という名の金銭と運用費という名の金銭は、どう違うのかという疑問が生じます。」
と述べている。応供とは応受供養、すなわち供養を受ける資格がある者の意で、仏の十号の一つである。この供養の語は、三宝に対して使われるものであるから、厳密にいえば、本宗においては、御本尊と血脈付法の御法主上人のみが、応供に当たるのである。したがって、御法主上人以外の僧は、供養を御本尊にお取り次ぎする立場である。各末寺の住職が御供養を預かるのは、宗祖日蓮大聖人・日興上人・日目上人等の御先師、並びに御当代上人の代わりにお取り次ぎのために受け取る意義なのである。これは「化儀抄」第24条に、
「弟子檀那の供養をば先ヅ其ノ所の住持の御目にかけて住持の義に依ツて仏へ申し上げ鐘を参らすべきなり、先師々々は過去して残る所は当住持計りなる故なり、住持の見たまふ所が諸仏聖者の見たまふ所なり」
とお示しのごとくである。これから考えて、創価学会において運用されるお金を御供養とはいえないことが明らかである。
 もし、広布に使うという金品の全てが御供養であるというならば、例えばB長が広布に使いたいと思って、B長が個人的にお金を集めても御供養ということになるのではないか。こうしたことは混乱を招き、仏法の法義を破壊するだけである。
 また市河氏は、
「供養という名の金銭と運用費という名の金銭は、どう違うか」
と開き直っているが、いずれの世界でも、名目は大切である。政治でも防衛費か侵略・殺戮のためかで、つねにもめているではないか。これより考えて、市河氏のいう金銭は、運用費・活動費の類であって、御供養とすることはできないのである。

※②へつづく

この記事についてブログを書く
« 市河氏の「一信徒としての質... | トップ | 創価学会の日精上人に対する... »