ワールドカップが終わってしまった。
今朝も目覚まし時計でちゃんと起きて決勝を見た。
さすがに素晴らしい内容の決勝戦だった、感動した。
やはりサッカーは面白い、今日でその世界最高峰の祭典が見れなくなるのが惜しい気もしている。
延長後半に一点入れられたアルゼンチンのファンたちの落胆ぶり、その涙にもらい泣きであった。
ブラジル戦のファンたちの涙にももらい泣きした。
小さい子供からお年寄りまで涙を流し落胆に暮れるその姿は、まだ日本にはない何気ない日常の中にさえある生きた生活の中にサッカー文化が根付いている表れだと感じたし、それは信仰のような形ですらあるかもしれないと思えた。
いつか日本もそのようになれば、きっともっと上位に食い込めるのではないかと期待する。
その日本では長友のインタビュー時の涙に、私も一緒に泣いた。
ワールドカップまでの4年間の思いをインタビュアーに聞かれた長友は、途端に目頭を押さえ、その場を少し離さざるを得なくなり、溢れ出る涙を抑えるように天を仰ぎ、高まる感情をどうにか抑えようとしたが、それがどうにもならなくなり、言葉の代わりとして涙があふれ続けた、その思いに計り知れない努力と信じる力によって支えてきた彼の中の彼が子供のように涙したのかもしれない、それが私のそれに反応し、私も涙した。
優勝者ドイツ以外には届かない祈り、叶わない願いがたくさんたくさんあったワールドカップであったであろう、そのすべては無であったのだろうか、いや、きっとそうとも言えないだろう。
子供の時のペレの話である、ブラジルの敗戦に涙する父親に彼はこう言った。
「パパ、泣かないで。僕がきっとブラジルを優勝させるから」そして、そのペレは約束を守ったのである。
これからまたペレのような子供たちが敗戦に涙する大人の夢を引き継ぎ、より素晴らしいサッカーを提供するようになるのである。
そして、私たちはそれに間違えなく感動する。
涙の向こうにそれがあると信じれるのであれば、生きる糧は自ら生み出すものであり、自由選択の可能性の中にあると言えよう。
こうした涙はカタルシスを与え、それは必要なものである、恥ずかしいと思うこともあるが、素直な心の現れとして意味あるものではないだろうか。
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