カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは6月でしたがお休みします。

Ash Wednesday

2008-02-06 20:30:10 | Weblog

 今日は灰の水曜日、四旬節の始まりということで、前々からタバコとお酒を一日だけ控えるということをしていた。

 大したことはないと考えていた。しかし、そうした日に、誰かに試されているのかのようにいろんなことが重なる。

 まず、駅では死体を置き場から死体が出されていた。その死体は両目が抉り取られていた。

 運んでいたインド人が「見ろ、見ろ」というだけはあった。度が過ぎている。彼は何の罪を犯したのか?誰が裁いたのか?考えることさえ拒否をしているところがあった。

 目をくり抜く制裁は、昨年八月ビハールで一般市民によって捕らえれた窃盗団を一般市民のリンチによって10人殺した。その中には目をくり抜かれた者もいれば、首に縄をくくられてバイクによって引きずり回された者もあった。

 インドにはこういう顔もある。しかし、集団心理とはこうした影をもその瞬時に正当化してしまう。人間の弱さである。

 今日はそしてタクシー、バスがストライキだった。患者をプレムダンに列車で運んだ。歩くこともできない患者を列車で運ぶことは簡単なことではない。

 普段と違うことで、いつもよりもタバコを吸いたくなっていた。タクシーのドライバーが何人も「どうする?どこに行くんだ?」何度も声をかけてくるのにも疲れていた。彼らもストライキをしたい訳ではなく、出来れば、仕事をして稼ぎたいから、何度でも来た。そうしたことも精神的にも身体的にも疲れを倍増させ、一服したい思いを積み上げていく。

 彼はどうにか2,3メートルは支えがあれば歩けた。運良くすぐに列車に乗ることができ、つぎの駅、プレムダンのあるパークサーカスに着いた。すぐに彼は歩けなくなり、自分達は担架で運びことにした。
 自分がプレムダンに担架を取って、マーシーと戻ってくると子供達が20人くらいいた。

 怒った。息をするのもままならない、ほんとうに弱り苦しんでいる患者のそばで子供達と遊んでいたボランティアに怒りを覚えた。

 自分とマーシーは患者を担架に乗せるとそのボランティアを置いて、プレムダンに向った。

 誰にでも優しいのはとっても良いが、何が大切で、今、何をした方が良いかと考えない者は、自分は正しいと思ってしていることでさえ、その相手に苦しみを与えていることがある。そうしたことをボランティアをしていると見ることがある。

 しかし、何よりも、自分は自分のことで精一杯になっていたのも事実。もし、彼が日本人なら、必ずはっきりと自分の意思を声にして伝えただろうと思う。そして、そのとき、自分は彼を見下していた。彼の側には何一つ立たずにいた。

 そうした事実が自分のなかで渦を巻くように荒れていた。

 そうした灰の水曜日だった。でも、患者に暖かな場所が与えられたことが嬉しい、そのことに偽りはない。
コメント
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