駅で麻薬をやる人たちにもルールがある。誰も来ない、来れないような汚い場所でブラウンシュガーをしなくてはならない。
この前、こんなことがあった。
シアルダーのサウスステーションに向う道、ディスペンサリーの横、路上生活者の女性たちの生活している横で三人の麻薬中毒者がドラックを始めようとしていた。
すると、いきなり大声で女性達が怒り始めた。
「ここでするな!何してんだ!どっかに行け!」激しい怒鳴り散らし、洗濯していたたらいの水はそのままかけ、そのたらいで彼らのなかの一人の頭を殴りつけていた。
彼ら三人は何の抵抗も出来ず、ぼそぼそを声を出しながら足を引きずるようにして、その場を離れていった。
アンタッチャブルの彼らは人として認められず、生きられず、ゴミのように生きている。恋も出来ず、異性と暖かなときも持てず、人から愛を受けられるような生活とは無縁のところで生きている。それが彼らの一生でもある。
人はときに他人を見下し、馬鹿にして、自己の優越感、存在感を味わう。そうした弱さがある。
自分自身にもそうした弱さがある。見たくはない、認めたくはない弱さがある。その意味を何度も感じ考える。
マザーは「あなたは神に愛されている」そのことを伝えるために彼女の一生を費やした。
どんな罪を犯そうとも、どんな過ちを犯そうとも、どんな失敗を犯そうとも、その向こう側にあるものを思いやること、思い描くこと、想像しえること、それが思いやりになり、愛になる。そうせざるを得ないものがあり、そうしたことをしてしまう。
自分にどれだけ他人のそうしたものが見れるだろうかは判らない。にもかかわらず、ずっと、それを抱きかかえるようにしていく意思がある。そして、いつも、それを邪魔するのは判ったつもりでいる自分であることも知っている。
自分を捨てていかなくてはならない。その自分も判っている自分があって欲しい。ゆえに祈る。
今日、病院では二人亡くなっていた。三人、死にそうである。骨と皮だけのようなカラダで胸を動かせ呼吸をしている。何がそこにあるのか、胸を熱くする。そして、その場を離れ、涙を流す。思い直す。感じ直す。祈り直す。何度も神に話しかける。散らばった自分を取り戻す。
周りを見渡し、空を見上げて呼吸をする。何かを何度も確認していく。
今日はプレンダムに女性を一人運んだ。