雪月花 季節を感じて

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美へのまなざし 千利休と青山二郎

2006年09月28日 | 雪月花のつぼ ‥美との邂逅
 
 風に木犀の香を聞く候となりました。桜がちらほら色づき始めています。
 夜長にゆっくりと本をひらくのが楽しみです。秋なので、手にとるのは文化・芸術の本ばかり。この夏、松涛美術館(東京渋谷)で開催されていた「骨董誕生」展を鑑賞して以来、稀代の目利き・青山二郎という人物のことを知りたくなり、しばらく関連の書にあたっていました。ところが、読みすすむうちに話は利休の茶のことにまで及んでゆきます。これまでつねづね「利休の茶とは何だろう?」と考えてきたので、理解を深めるよい機会になりました。


千利休と青山二郎
 小林秀雄と白洲正子を骨董の世界に引きずりこんだ天才的目利き・青山二郎を知るには、白洲さんの『いまなぜ青山二郎なのか』(新潮文庫)が良著です。「骨董とは、美とは何か」を知る前に、一生をかけて自ら選んだモノと人にトコトン付き合ってゆくとはどういうことなのか‥というのがこの本の眼目で、青山二郎の生きざま─彼がいなくなったいまでは、それが彼の思想だったといえるのですが─には、深い「愛」がありました。
 また、青山二郎が、それまで誰も目もくれなかったシロモノに独自の眼力で「美を発見し、創作した」人物であったという点で、千利休とまったく重なります。利休にとって、それは高麗の民器(美術品でなく、ふだんの暮らしに使ったうつわ)であった井戸茶碗や楽茶碗であったし、青山にとっては桃山陶(志野や唐津のやきもの。こちらも民器)でした。青山は茶の湯のことは知らなかったけれども、利休の茶のこころは十全に理解していたでしょう。
 ところが、生前、利休も青山も多くのことを語らなかったし、利休は自分の創作した美の世界を懐に抱いたまま「自分が死ねば茶は廃れる」と言い残し、秀吉の命を容れて死んでゆきましたし、青山はこの世の美を呑み尽くした末に、所有品のほとんどを手放してこの世を去ってしまったので、残されたわたしたちは、いったい利休とは、青山二郎とは何者だったのか、その実態をつかめないでいるのが実情です。

自分が死ねば茶は廃れる」の意味
 『いまなぜ青山二郎なのか』の中で白洲さんがすすめている本が、画家で作家の赤瀬川原平氏の『千利休 無言の前衛』(岩波新書)です。赤瀬川氏は映画『秀吉と利休』(原作は同題の野上彌生子の小説)の脚本を書いたことで知られていますけれども、当時の草月流三代目家元・勅使河原宏氏から脚本を書いてみないかと依頼されたとき、赤瀬川氏自身は茶の湯のことはまったく無知だったそうです。もちろん、引き受けた後は利休のことを調べ尽くして脚本が成ったのだし、彼も青山二郎と同じように茶の湯を知らずとも利休の茶のこころを理解して、そういった意味で、かえって新鮮な目で利休を見つめてなおしており、実に興味深い利休研究の書になっています。

 赤瀬川氏は、利休は前衛作家だといいます。形を構築しながら、つねに新しいひらめきの中に生き、創作しつづけていた人物だからです。「閃きは、言葉で追うことはできても、閃きを言葉が追い抜くことはできない」という直感的世界。そんな微妙なところに生きた利休は、秀吉という時代の権力をもつきぬけていた危険な人物でもありました。
 さらに、利休は「人と同じことをなぞるな」とも言っており、それは文字どおり「あなたは利休ではない、あなただけのことをやれ、新しいことをしなさい」という意味ですが、赤瀬川氏はこれを「芸術の本来の姿、前衛芸術への扇動である。‥‥前衛としてある表現の輝きは、常に一回限りのものである」と喝破します。また、そんな一回限りの輝きを求めるこころを、「別の言葉では『一期一会』ともいう」という氏の言葉に、はっとさせられました。
 そうすると、利休や青山がなぜ黙して語らなかった(いえ、語ることのできない世界に生きていた)のかが理解できます。彼らは一回性の、一瞬の輝きの継続などありえないことを、知っていたからです。

 利休の死後、彼の遺した言葉や形をなぞってみたところで、その輝きを再現することはもうできません。その結果、茶は形骸化がすすむばかり‥ というのが、「自分が死ねば茶は廃れる」の意味だったのです。

一個の茶碗は茶人その人である」(青山二郎の言葉より)
 茶の湯も骨董の世界も、この世の一握りの人たちだけによって運営される閉鎖的なものになってしまった現代、それでは美をもとめるこころや眼の力を養う機会は失われたかといえば、そんなことはないと信じたいのです。
 道を知ることは大事だけれど、いったん知ってしまったら、そこからなかなか抜けられません。日ごろから柔軟な思考と知識を離れた眼を養わなければとうていむつかしいでしょうが、素人であるわたしたちは、ついふだんの暮らしをおろそかにして、生活を成しているモノ(道具)の重要性を見失いがちです。青山の言うとおり、一個の茶碗がすなわち茶人を、骨董がそれを使う人のこころを映し出す、とすれば、毎日わたし(あなた)が使っているモノや、常にそばに置いているモノこそ、わたし(あなた)自身ということになります。そのことをまったく意識せず暮らして、日本の文化を生きているとはいえない─ ということを、わたしたちは考えてみる必要がありそうです。


 花と花器の関係を「道具が先で、花は従なのだ」と喝破した白洲さんの言です。

 それにしても、この頃の展覧会の混雑ぶりは異様で、ちょっと近よれない感じがするが、日本人の生活力と好奇心の現れと思えば、喜ぶべきことなのだろう。柳宗悦氏は、しきりに「じかに物を見る」ことを説いたが、そこではじかに見ることが、未だ充分に行われているとは思えない。‥知識を持つのはむろんいいことだ。が、物がなくて知識だけあるのは恐ろしいことである。箱書だけ尊重するのと同じように、自分で見たり、考えたりする力をなくし、いつも外の力に頼る。いつの間にか生活のすべてに亙ってそれが習慣と化すからだ。
 鑑賞という言葉も、昔はなかった。鑑賞とは、‥生活の中で、物と一緒に暮らすことを指し、長い間暮らしてみれば、人間と同じように、‥何かしらはっきりつかむものがある。‥知識とか理論とか、間に何も交えない直接な鑑賞法を、柳さんは「じかに物を見る」といったのである。

(白洲正子著 『美は匠にあり』より)

 わたしも、偉人の後ばかり追わずに、一度じっくりと自分の身のまわりを観察してみようと思います。そこから何もかも始まっているのですから。利休のいう六感(=直感、ひらめき)というものは、日ごろから五感を鍛えなければ得られないものであることを、忘れてはいけません。


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【おすすめ展示会情報】
? 滋賀のMIHO MUSEUMで、特別展「青山二郎の眼」を開催中。(2006年12月17日まで)
  図録は青山二郎が所蔵していた本阿弥光悦作「山月蒔絵文庫」をデザインした函に
  入っています。boa!さんのブログに写真が掲載されています。
? 東京日本橋の三井記念美術館で、開館一周年記念特別展「赤と黒の芸術 楽茶碗」
  開催中。(2006年11月12日まで)

※ 『いまなぜ青山二郎なのか』、『千利休 無言の前衛』、『美は匠にあり』は、
  雪月花のWeb書店 で紹介しています。
  今回の絵「紅志野香炉」は、青山二郎から白洲正子へとわたった「This is 桃山」という名品。
  裏にはすすきの絵が描かれていて、形も線も色の味わいも美しい。

 
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琳派への恋文

2006年09月21日 | 雪月花のつぼ ‥美との邂逅
 
 秋彼岸となり、日の出の時刻もだいぶ遅くなりました。曼珠沙華の花はきちんとこの季節に咲きますね。そろそろ衣更えをしなくてはいけません。
 子どものころは母の手づくりのおはぎが楽しみでした。おはぎは、萩の花の大きさに合わせて、春彼岸の牡丹餅(ぼたもち)よりも小さめにつくるのだそうです。すこし手間をかけて、今年は餡をつくってみましょうか ^^

 
 毎年「秋は琳派」と決めこんで、展示会に出かけたり、関連の書を読んでいます。いま話題の東京・出光美術館の「国宝 風神雷神図屏風 宗達・光琳・抱一 琳派芸術の継承と創造」展(10月1日まで)にも、さっそく行ってまいりました。琳派を代表する三者の「風神雷神図」を同時に観る機会に、この世に在るうちに恵まれたことはほんとうに幸せなことです。

温故知新の奇蹟
 せっかく66年ぶりに宗達、光琳、抱一という琳派のビッグスリーがそろったのですから、三つの「風神雷神図」の比較に終始してはつまらないことです。企画展の意図が三者の比較にないことは、図録の巻末、内藤正人・出光美術館主任学芸員による論文にも記されています。
 光琳も抱一も、「風神雷神図」においてはそれぞれの師(光琳にとっては宗達、抱一にとっては光琳)を越えていません。オリジナルの宗達がいちばんであることは当然だし、「風神雷神図」が宗達にとって到達点であっても、光琳と抱一にとっては出発点にすぎませんでした。むしろ、光琳が縁ある寺で偶然に落款も印もない宗達の「風神雷神図」を見出したこと、そして、抱一にいたっては宗達の「風神雷神図」の存在すら知らず、光琳のものこそオリジナルだと思いこんでいたことのほうが重要で、かれらの先達の画境への煮えたぎるような情熱と思慕が、同じ「風神雷神図」でつながったことの奇蹟(!)を思うべきでしょう。今回の企画展は、世阿弥の『花伝書』の教えを地でいったようなかれらの作画態度を目の当たりにする機会にもなりました。

 個性なんてものは、最初からあるものではありません。師に学び、無心に肉薄しようとする気概をもちつづけ、ついに独自の画境に至ったかれらの結論は、「紅白梅図」(光琳)と「夏秋草図」(抱一)でした。今回の出光美術館の会場に、このふたつの絵が無いことが残念でなりません。後世「琳派」といわれた絵師たちの中に、これほどの思いを抱いて私淑し、研鑚を積み、やがて師を越えた人物があったでしょうか。自ら「保守的な立場」とおっしゃる内藤氏と同様に、わたしも「琳派」の拡大解釈には慎重にならざるをえません。

 先達への傾倒と元禄文化の華やかさが光琳なら、抱一にとっては文化文政期のデカダンス(頽廃)が大きく影響したことでしょう。また、「自然を主(あるじ)とし、人間を客とせる」姿勢、さらにかれらが古典文学、古典芸能に通暁していたことも忘れてはなりません。そしてもうひとつ、宗達も光琳も抱一も、権力におもねる絵を描いたことはありませんでした。それが琳派です。


琳派の物語
 おかげさまで、雪月花のWeb書店からぽつぽつ本が売れています。琳派関連の書を購入してくださる方もあり、店長冥利につきます。

 ひとつは『嵯峨野明月記』(辻邦生著、中公文庫)です。本阿弥光悦と俵屋宗達ぬきに語れない琳派ですが、幕府から京都鷹ヶ峰の所領をもらい受け、そこで芸術村を営んだ光悦と宗達は、幕府の庇護下にありながら、いっさい権力にへつらうことなく互いに切磋琢磨して技を鍛えました。当時の幕府の御用絵師だった土佐派や狩野派とちがい、かれらはつねに自然とともにあり、ついに自然と同化した稀にみる芸術家集団だったのです。琳派の源泉は、この小説に凝縮されています。
 昨年の歴史文学賞を受賞した『乾山晩愁』(葉室麟著、新人物往来社)は、天才兄・光琳没後の乾山の苦悩が、やがて晩年の「花籠図」へと昇華されるまでの過程を描いた「乾山晩愁」のほかに、狩野派に直接的・間接的に関わった絵師たち(狩野永徳、長谷川等伯、久隅守景、清原雪信、英一蝶ら)の物語が四編収められています。五編をとおして読めば、琳派と御用絵師たちの生きた世界のちがいは明白で、琳派の純粋芸術に対して、「狩野派」という派閥を背負い、時代の権力と生死をともにせざるをえなかった絵師たちの艱苦をうかがい知る好著になっています。読後はかれらの絵を見る眼も変わるでしょう。また、史実かどうかはともかく、歴史小説ならではのロマンが織りこまれていて存分に楽しめます。光琳が赤穂浪士の討入りを演出したこと、一蝶が「朝廷 対 幕府」という大奥の陰謀に加担していたことなど、歴史の空白への興味はつきません。


 * * * * * * *

 晩年、江戸から下野(現在の栃木県)の佐野に下向した乾山は、亡き兄・光琳への追慕を、自分のやきものにこめてゆきました。
 京都・鳴滝窯でたくさんの職人たちを抱えて絶頂期にあった弟・乾山に宛てた光琳の手紙に、こんな言葉があります。

‥およそ工人として心がけるべき大切なことは、筆の走りが良いかどうかを批評の対象にするのは間違いで、絵を描く人のこころがいちばん大切なのです。描く人のこころがしっかりしていないと、筆は走るものではない。ただ見た目が美しいというだけでは駄目で、絵は生きていない。それはちょうど女の衣装が美しいと言っているようなものです。工人は色をさまざまに使っているのを綺麗だといって褒められることは本当は恥かしいことと思わねばなりません。‥‥自分のこころで美しいと思ったものを絵付してください。‥‥念のため、一言注意いたします
(『光琳乾山兄弟秘話』より 住友慎一著、里文出版)

 大胆にデフォルメされた装飾的な絵画イコール琳派ではありません。かれらの作品には、古典の世界と自然への畏敬の念、そして、「たましひ」が宿っているのです。
 
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俳画 はじめの一歩

2006年09月14日 | 筆すさび ‥俳画
 
 新涼の季節になったら始めようと計画していたことを実行にうつしました。かな書、俳画、テーブル茶道。こんなにいっぺんに始めてしまって大丈夫なの、という心配はご無用。俳画とテーブル茶道はひと月に一回(十月から六ヶ月間)のお稽古ですし、かな書はNHK教育テレビの趣味講座ですから、のんびり屋のわたしにはぴったり。

 俳画は、鈴木紅鴎先生(※)の画風が好きで、いつか始めたいと思っていました。まずは見学をさせていただこうと思い、さっそく今月のお教室へうかがったところ、「描いてみませんか」と先生にすすめられて、いきなり筆をもつことに。その日の画題は「酔芙蓉」。半紙とはがき用の、二種のサイズのお手本を写しました。
 はがき用のもの(上の絵)は、まず花の輪郭を墨で描いて、あとから淡い紅色と蘂(しべ)の黄をのせる勾勒(こうろく)法です。対照的に、葉や茎は太く力強く。わたしは筆に水を含ませすぎて、きれいに筆の跡が残りませんでした。


 墨をする音、筆の感触、文鎮の重み、和紙の手ざわり、墨の香‥ なつかしいような、すてきな時間です。筆をもつと、自然と背筋が伸びます。先生のおっしゃることも、すなおに耳に入ってくるのです。

 おひとり年配の方で、長時間立ったり座ったりするのがつらい‥ とおっしゃる方がありました。どなたかが「無理をなさってはいけないわ」とやさしく声をかけると、「無理をしなければ、描けないもの」と、毅然とした答えが返ってきました。東京の別の教室には、酸素吸入器を傍らに置いて稽古に励んでいる方もおられるそうです。そんな、諸先輩がたの稽古への並々ならぬ姿勢に敬服します。


 近所に、毎朝みごとな花をたくさんつける酔芙蓉を玄関先に植えているお宅があり、毎日の散歩や買物の折に楽しませていただいています。早朝に雪色の花弁を空に向けてひらき、昼のころから(そばで見ないと分からないくらい)うっすらと色づき始めて、夕刻には酔いもまわって薄紅色に染まり、眠そうにもう花弁を閉じています。翌朝は、落花が路地を染めるでしょう。はかない一日花です。そうした一重(ひとえ)の芙蓉花の、きちんと身仕舞をしてからひっそりと落ちてゆく姿に、「願はくはわが身も」と思わずにはいられません。

 最初の画題が身近な花であったことは幸運でした。
 ここ数日のつめたい秋雨に、酔芙蓉の花はふるえています。


※ 鈴木紅鴎先生のテキスト『俳画講座 はじめて筆をとる人に』(NHK出版)は、雪月花のWeb書店で紹介しています。
 
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和火

2006年09月09日 | うす匂い ‥水彩画
 
 先月、よくうかがうサイトのトップページに「大江戸牡丹」という名のきれいな線香花火の写真が掲載されていたので、「線香花火にも種々あるのですね」とコメントしたところ、サイトの管理者さんが気をきかせて三種の線香花火を送ってくださいました。
 赤、青、黄の紙袋に十本ずつ入っていて、赤い袋には「三河伝承 大江戸牡丹」、青は「九州三池・筒井時正の 不知火牡丹」、黄には「火の国熊本産 有明の牡丹桜」と書かれています。火薬をつつんでいる和紙の色も、それぞれちょっとずつちがっています。

 国産の線香花火には悲しい歴史がありました。
 国内の線香花火工場が次々と閉鎖に追いこまれる中、ただひとつ「九州八女の長手牡丹」を製造していた工場だけが残っていましたが、存続の努力もむなしく、1999年に廃業となりました。のちに、「はかなく繊細で、芯が強く潔く、そして華麗な和火を消してはならない」と、東京下町の問屋が立ち上がります。試行錯誤を繰り返し、およそ八年の歳月をかけてついに純国産の線香花火を復活させ、「大江戸牡丹」の製作に成功したのでした。(東京蔵前の花火問屋「山縣商店」のホームページより)
 花火を送ってくださったのも、こんな花火悲話を知ってのことなのだろうと、送り主さまのさりげない心遣いに感謝しています。


 先週末、夫が遅い夏休みをとって一緒に義父母の家ですごしたので、家族みんなでこの線香花火を楽しめるかしら、と思って出かけたのに、なんやかやと夜をすごすうちに花火をする間もなくすぎてしまい、そのまま持ち帰ることに。(残念‥) 今週末こそ、どんな花をつけるのか見てみたいのですけれども‥。名まえにすべて「牡丹」とあるので、さぞかし大きく華やかな和火なのだろうな、と想像しています。すこし遅い夏送りでしょうか。

 手花火の珠をかばひて闇忘る (文挾夫佐恵)

 線香花火って、うまく火球を大きくすることができて、菊の花弁のような火花をチッ、チッと散らしている間はとても華やかなのに、とつぜん玉が落ちて闇になってしまう‥と同時に、「夏休みが終わっちゃうんだ」と、子どもごころに思ったものです。楽しくて、やがてさみしい散り菊の花‥ でした。


 白露の候になりました。東京は長月に入ってから蒸し暑い日がつづき、時折どんよりした曇り空から雨露が落ちてきます。
 
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光琳の櫛

2006年09月04日 | 雪月花のつぼ ‥美との邂逅
 
 先月末、関東地方は夏から秋へ大気が入れ替わりました。日中はまだ30℃を越える毎日ですが、風がちがうのです。さらりとしていて、木蔭に入りますととても涼しいのです。すすきの穂も顔を出して、さやさやと風にゆれています。


 九月四日は「くし(櫛)の日」です。古くから、櫛は女性の大切な持ちものでした。

 君なくばなぞ身装はむ櫛笥(くしげ)なる
              黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)も取らむとも思はず

 あなたがいないのに、どうして装う必要がありましょうか。黄楊の櫛をとる気にもなれません。
 (『万葉集』 播磨娘子)

 母から折あるごとに黄楊の櫛をもらいました。「櫛を粗末にしてはいけない」と聞かされて、子どもごころにうす気味の悪い思いがしたものです。といって、櫛は「苦死」を想像させますからなおざりにできなくて、なおさら厄介なもののように思われました。ところが、光琳の櫛(上の絵)に出合った日から、わたしは長い間日本女性の黒髪を飾ってきた櫛というものを見つめなおしました。


 江戸元禄期に活躍した京琳派の代表、尾形光琳の「鷺文様蒔絵櫛(さぎもんようまきえぐし)」は、東京青梅(おうめ)市にある「櫛かんざし美術館(※)」の所蔵品です。これまで光琳の印籠(いんろう)は数点見つかっているそうですが、櫛は現在のところこの一点だけではないでしょうか。この櫛のことを知ったのは、知人のIさんから紹介していただいた小説がきっかけでした。

芝木好子著 『光琳の櫛』 (新潮社刊、絶版)
 江戸時代から現代までに製作された櫛、笄(こうがい)、かんざしばかり、一時はおよそ二万点も所有していたという経歴と美しい黒髪をもつ料亭の女将、園(その)が主人公です。物語に登場するひとつひとつの櫛の卓越した意匠や美しさのみならず、それらにこもる、かつての持ち主だった女性たちの情念にとり憑かれている園は、ある日知人を介して光琳の蒔絵櫛と出合います。園は、自分の人生そのものである櫛やかんざしのコレクションを一冊の図録にまとめるために奔走しながら、図録の巻頭をその光琳の櫛で飾ることを決意します。そのときから、それまで他人のものだった光琳の櫛は、女性蒐集家の底知れない執念のからんだ糸に手繰り寄せられるかのように、園のもとへやってきます。

 園のモデルは、岡崎智代さんという、若いころは京都の舞妓さんだったという女性です。女史が蒐集した約三千点に及ぶ櫛やかんざしは、すべて青梅の美術館に収められていますが、中でも江戸期のもの(羊遊斎、酒井抱一、梶川、古満など)に多く佳品があります。著者の芝木好子と女史は交流があったらしく、小説はあながち虚構ではないと思われます。

 あるとき、この小説をすすめてくださったIさんから、小説の光琳の蒔絵櫛が東京にあると聞かされてあわてました。光琳の櫛があるなんて初耳だったからです。それも、当時のわたしの住まいから車で一時間もかからない場所にある美術館でしたからなおさらでした。時をおかず、「櫛かんざし美術館」へ車を走らせたことは言うまでもありません。わたしは、光琳の櫛「鷺文様蒔絵櫛」を、この目でしかと確かめました。
 小ぶりのまろやかな半楕円形の櫛全体に、つやの消された金が施され、中央に鋭い眼光と嘴で獲物を狙う姿の鷺が一羽、うるし錆でふっくらと描かれています。小説の一節を借りるなら、「絵師(光琳)と塗師は、一体になっている」みごとな作品です。そして、この鷺の姿は、小説の中でこの櫛を狙う女性蒐集家、園の姿そのものだったのです。

図録 『櫛かんざし』 (紫紅社刊)
 小説と光琳の櫛の存在を教えてくださったIさんは、東京の染司「よしおか」(本店は京都の新門前通)に長い間勤めておられました。江戸の文政年間から続くこの店の五代目が、岡崎女史のコレクションを『櫛かんざし』という図録にまとめており、図録をひらくと、小説の主人公・園の意志そのままに、光琳の櫛が巻頭を飾っています。のちに、芝木好子が、店の先代(四代目)の貴重な染色の仕事の記録にもとづく小説(河出書房新社刊 『貝紫幻想』、絶版)も書いていたことを知ったのですが、そんな染色家と作家の縁からも、五代目が小説にもとづいてこの図録を製作したことは容易に推測できます。

「鷺文様蒔絵櫛」
 「この櫛のよさは形に尽きる。小ぶりだが、まるみが調って、瀟洒で、まさに元禄櫛です。鷺の姿も申分ない。一羽の鷺は一筆描きのように簡潔で、この文様は『光琳百図』に確かにある。箆(へら)を使ってうるし錆を盛り上げた造型のうまさ。光琳自身が気を入れて蒔絵師と一体になって作ったものでしょう。絶品です」(『光琳の櫛』より)
 上記のとおり、光琳にしかできない仕事なのです。ひと目実物を見て雷に打たれたようになったわたしは、東京郊外の、杉木立につつまれた瀟洒な美術館の一室にひっそりと展示されていたこの櫛の前から動けなくなりました。背後には園の亡霊がいる‥、そんな気がしたのは、この櫛に憑かれたわたし自身もまた、園と、この櫛をその黒髪に挿したであろう江戸の豪商・冬木家の妻女や、櫛やかんざしに秘められた多くのむかしの女と同じ業を持っている─ そういうことなのでしょう。

 それ以来、「光琳の櫛」は、わたしから離れないのです。


 * * * * * * *

 「櫛簪(くしかんざし)」 坂東玉三郎

 小さな かわいい櫛簪
 よく見ると
 こまかい細工がほどこしてあって
 このうえもなく
 美しくしあげてある。

 静かにながめていると
 おんなたちの
 せめてもの祈りが
 ささやかな夢が
 せつなくつたわってくる。

 言いたいことも言えず
 したいこともできなかった
 昔の人の
 つらい思いが
 かなしい心が
 そして いつしか うらみごとが
 私の背すじに
 感じられる。

 我が身につける 小さなものに
 あこがれの世界を描き
 たんねんにみがき
 じっと見つめて
 結いあげたばかりの髷にさす時
 小さくて広いはるかなくにが
 頭の上にのっかって
 おんなたちの心は
 春になったのかもしれない。

 昔のおんなたちの
 胸に秘めていた
 はかない夢が
 叶へられなかったのならば
 どうにか叶へられるよう
 舞台のうえで
 私は 身につけてしまう。
 

※ 美術館までお出かけの際は、事前に「光琳の櫛」が展示されているかどうかをお確かめの上、お出かけください。
 
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お知らせ

2006年09月01日 | お知らせ
 
 いつもご訪問有難うございます。

 長月です。
 「扇置く」「虫しぐれ」「萩の雨」‥ むかしのひとたちは
 美しい言葉で暮らしを表現したのですね。


 「雪月花」は 9月3日(日)までおやすみです。
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 すべていったん保留され、公開は 3日 以降になります。

 次回の更新は 9月4日(月)です。
 
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