雪月花 季節を感じて

2005年~2019年
2019年~Instagramへ移行しました 

夏に入る

2006年04月28日 | 季節を感じて ‥一期一会
 
 和清の天からしたたる新緑にさそわれて、どこまでも、どこまでも歩いてゆきたくなる季節になりました。天候は不順で、ときおりにわか雨や雷雨になるけれど、ひと雨ごとに色を深める木々の緑に、あぁ夏が来るな、と思います。

 この春はたびたび寒のもどりがありましたね。お彼岸のころに手がけるはずだった更衣(ころもがえ)がずぅっと先延ばしになっていたのですが、先日ようやく済ませました。クリーニングしたコートにカバーをかけ、ニットを数枚ずつ薄紙につつみ、中に防虫剤をしのばせた後、半年間押入れに眠っていた綿や麻の衣服を取り出すのは、こころの浮き立つ楽しい作業です。

 風踏んであそぶこころや更衣 (中條 明)

軽く肌ざわりの良い綿麻の衣服を身につけて遊ぶ気持ちは、「風踏んで」よりも「薫風まとい」と表現したくなります。


 京都を歩くのも、八重桜の散り始めからこの季節がいちばん好きです。若楓、緑さす水縁、さながら絵巻物のような葵祭の麗色、光琳の描いた燕子花(かきつばた)、うるおう苔の緑。春から秋の、ときに天候に嫌われる祭事や、花にあふれる人の波、暖冬に色褪せる紅葉には落胆しますが、この季節の、生まれかわったような古都のみずみずしさはけして裏切りません。
 中で、水ぎわの楓の新緑ほど美しいものはありません。糺(ただす)の森や清滝の清流、龍安寺や勧修寺の古池に映る木々の緑‥、水面に新樹の冷ゆるを見るのは涼しいものです。悠久の都に、美しい水は欠かせない要素にちがいありません。

  水涼し木があれば木の影を容れ (大串 章)

水面近くを錦鯉がゆらゆらと波紋を描きながら泳ぐのを見れば、和菓子職人でなくても、すきとおった寒天に若楓の葉や錦鯉、鮎などを封じ込めた夏の涼菓子を作りたくなります。その菓子に、わたしなら(勝手な造語だけれど)「水楓」と名づけましょう。
 でも、なぜでしょう。この清涼感を称えた秀歌が見当たりません。涼しげな「夏衣」を詠んだ歌にあふれる光と緑を想像するくらいでしょうか。光がみち、生命力あふれる若葉時は、「無常」や「もののあはれ」などから無縁だからなのでしょうか。

 五月は若いものだけに許された季節のようだ、と鏑木清方は書いています。母親に見守られながら、元気いっぱいに青草を踏んでかけまわる子どもたちの姿を追うわたしも、緑蔭にやすらうひとときにほっとする年ごろのようです。


 そうそう、そろそろ新茶を買いにゆきましょう。
 みなさまも、どうぞよいゴールデンウィークをおすごしくださいね。
 
コメント (18)

花送り

2006年04月21日 | くらしの和
 
 人のこころを春にして桜前線は北上をつづけています。いま、どのあたりでしょう。そろそろ岩手、青森に達したでしょうか。

 先日、母とふたりで初夏の予感を告げる花々が咲きそろう都立庭園を訪ねました。八重桜、山吹、二輪草、錨草、花桃、石楠花、藤‥ 幽邃の森をそぞろ歩き、竹の小径に分け入ると、さらさら、さらさらと風に舞う竹葉。そう、いまは竹の秋です。竹林に敷きつめられた枯色の絨毯から力強く伸びるたくさんの筍に、強靭な生命力といのちの生まれかわりの不思議を思います。そのまま崖線を谷づたいに下りてゆけば、楓の新緑を映す湧水の泉が森をうるおしていました。芽吹きの季節にもかかわらず、森の空気は冷ややかでやさしいのです。
 あたりはすっかり若葉色なのに、どこからともなく桜の花びらが数片舞いこんできて、忘れつつある花の歌をよびさまします。そして、ついその花弁の先の、花の在りかを探してしまうのです。「葉桜」‥ この祈りのような、美しい言の葉にこめられた日本人の花への思いは、いつまでも尽きないことでしょう。

 写真は、千鳥ヶ淵に無数の花筏が浮かぶころ、新聞の一隅に紹介されていた桜の意匠のブックカバーです。(上が本にかけたときの状態、下はカバー全体のデザインです) 「3種の桜が、優美に咲き競う」という一文に魅せられて取り寄せました。3種の桜は、「こむらさきさくら」「黄金桜」「にほひさく良」と文字が織りこまれています。めずらしい桜ばかりですね。
 これは、日本画家・跡見玉枝の絵と、桐生織の伝統と最新の技術「絵画織」が生んだ逸品。「絵画織」は、伝統的な手工芸品にとどまらず、桐生織の可能性を広げるため、桐生生まれの伝統工芸士が十年の歳月を費やして完成させた技術だそうです。光沢のある繊細な布に織り出された桜花は、実物に近い立体感と色合い。しかも、布地はまるで絹のようにしなやかなのに、実は洗濯も可能なポリエステルです。これは工芸品ではなく、立派な実用品です。思いのほか安価でしたし、今年の花の形見に最適の品。みなさまもいかがでしょうか ^^ 
 東京国立近代美術館の近代美術協会(03-3214-2561)に問い合わせれば、代金先払いで郵送してくれます。(文庫サイズは1,680円、新書サイズは1,890円、送料別。桜以外の意匠のものもあるそうです)


 宇野千代さんの小説『薄墨の桜』(集英社文庫※)にこのカバーをかけています。もう読んでしまった本だけれど、しばらくこのままそばに置いておくつもりです。

 あかなくに 散りぬる花のおもかげや 風に知られぬ桜なるらむ
 (『千載集』 覚盛法師)
 ─まだ物足りないというのだろうか‥ 散ってしまった花の面影なら
  風さえも散らすことはできないであろう

散ることのない花を夢みた、いにしえ人の愛惜の情を偲んで。


※ 宇野千代さんの『薄墨の桜』は雪月花のWeb書店で紹介しています
 
コメント (15)

無常といふこと

2006年04月14日 | 雪月花のつぼ ‥美との邂逅
 
 花の雨 吾がかたはらに病む夫(つま)の寝息のごとにひと日暮れゆく

 霖雨の一日、風邪をひいて仕事を休み、薬の作用のせいか、床の中でぐっすりと眠る主人の傍らで本とすごした。街路樹の桜も、この雨ですっかり花を落としてしまうだろうと思いながら、『桜と日本人』(小川和佑著、新潮選書)を読み、さらにその中に紹介されていた小林秀雄の随筆『さくら』を、どうしてももう一度読まなくてはという気持ちになって、久しぶりに小林の随筆集『真贋(しんがん)』(世界文化社※)を本棚から取り出して、『さくら』の項を探した。

 § 審美家の桜
 無類の桜愛者だった小林は、桜花のことは書いても、桜美については多くを語らない人だった。桜の美しさを語ってみても、後でむなしくなるだけだと考えていたものか、『さくら』にも、「さくら さくら 弥生の空は 見わたすかぎり 霞か雲か‥」は「これはよい歌だ」、どんな桜でも「咲けばやっぱり桜であって、きれいである」と語っているだけである。『桜と日本人』の著者・小川氏は、そんな小林の桜観を「審美家の桜観・桜愛」と言っている。
 わたしは、何年か前に、小林の審美眼から何かを得ようという一心で読んだこの随筆集が急に懐かしくなり、ついでに『さくら』の前後の随筆も開いてみると、そこに『無常という事』があった。これは『真贋』の中の、わずか三頁だけを満たす一随筆だが、今回再読してみて大きなショックを受けてしまった。わたしはこの短い随筆で小林のいわんとしていることを、これまですこしも理解できていなかったからだ。いや、いまも完全に分かったと言う自信はないが、前回よりは今回のほうが上手に読めたという気がしているだけである。


 § 無常とは何か
 「無常」─ この言葉は、いまや日本文化の核のようなものと考えられているけれど、では「無常」とは何か。和歌に詠まれ、茶の湯、古典文学、伝統芸能等々に表現されるもの、はかなさ‥ というだけではまったく説明になっていない。辞書に頼れば「この世の中の一切のものは常に生滅流転(しょうめつるてん)して、永遠不変のものはないということ。特に、人生のはかないこと。云々」(大辞泉)とあるが、なるほどこれで無常を理解できたとは言いがたい。『源氏物語』や『平家物語』、雪月花に代表されるこの国の美しい自然、歴史を動かした人物の生きざまなどにふれるたび、わたしたち日本人が感じる無常とは、いったい何なのだろう。『無常という事』の中で、小林は歴史や傾倒していた本居宣長からこの「無常」を語っている。

 小林は、事物への新しい見方や解釈というものをあまり信じない。理屈ぬき、解釈など拒絶して、ゆるぎないものだけを美とする。たとえば歴史がそうだ、と言う。死んでしまっている人間は、その人間が遺したものさえ見ていれば分かる。明確で、見つめるほど彼らはますますしっかりとしてくる。だから歴史は美しい。歴史は多少のことではゆるがない。それにひきかえ、われわれ生きている人間はどうだ。考えも言うことも行動も、常に定まらない、他人の事どころか自分のことすらちっとも解っていない、仕方のない代物じゃないか─ 小林のこんな言葉から、ようやくわたしはハタと気づいた。「無常」とは、ここに在るわたし自身のことだ。散る花が、月が、季節のうつろいが、時の流れが、盛者必滅が、無常なのではない。

 歴史には死人だけしか現れて来ない。従って退(の)っ引(ぴ)きならぬ
 人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、
 みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。
 僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いを
 させないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物である事から
 救うのだ。記憶するだけではけないのだろう。思い出さなくては
 いけないのだろう。

 (『無常という事』より)

 心を虚しくして見つめ、何かをうまく思い出せたとき、それこそが美しい。そしてその瞬間は、人間は無常から逃れることができる。そう小林は言っているのではないか。

 このことに、わたしがようやくの思いでたどりついたとき、突然、数百年の時を超えて、俳聖がわたしの前に現れた。

 さまざまの事おもひ出す桜かな (松尾芭蕉)

─あぁ、だから、桜は美しいのだ。


 わたしにも、無常ということがいくらか理解できたのだろうか。だから、この句をうまく思い出せたのかもしれない‥ と、いまではすこし、ほっとしている。これからは小林のように、桜を観ることができるだろうか。

 色見えでうつろふものは 世の中の人のこころの花にぞありける
 (『古今集』 小野小町)


 ─「なんだ、そんなことも分からずに、いままで『雪月花』を綴っていたのか」というみなさまからのお叱りは、甘んじてお受けいたします‥


※ 小林秀雄の『真贋』は雪月花のWeb書店で紹介しています
 
コメント (21)

さくら ちる

2006年04月07日 | 季節を感じて ‥一期一会
 
つかのまの花の歌
花の梢をすぎる風に 歌は遠のく

 はながちる               
 はながちる               
 ちるちるおちるまひおちるおちるまひおちる
 光と影がいりまじり           
 雪よりも                
 死よりもしずかにまひおちる       
 まひおちるおちるまひおちる       

 光と夢といりまじり           
 ガスライト色のちらちら影が       
 生まれては消え             

 はながちる               
 はながちる               
 東洋の時間のなかで           
 夢をおこし               
 夢をちらし               

 はながちる               
 はながちる               
 はながちるちる             
 ちるちるおちるまひおちるおちるまひおちる

 (『さくら散る』 草野心平)

憎くとも ゆるすべきは 花の風‥


花に会い 花に別れて 春はゆく

散りいそぐ 花のむこう
木々の若葉が まぶしくゆれる
 
コメント (19)