和清の天からしたたる新緑にさそわれて、どこまでも、どこまでも歩いてゆきたくなる季節になりました。天候は不順で、ときおりにわか雨や雷雨になるけれど、ひと雨ごとに色を深める木々の緑に、あぁ夏が来るな、と思います。
この春はたびたび寒のもどりがありましたね。お彼岸のころに手がけるはずだった更衣(ころもがえ)がずぅっと先延ばしになっていたのですが、先日ようやく済ませました。クリーニングしたコートにカバーをかけ、ニットを数枚ずつ薄紙につつみ、中に防虫剤をしのばせた後、半年間押入れに眠っていた綿や麻の衣服を取り出すのは、こころの浮き立つ楽しい作業です。
風踏んであそぶこころや更衣 (中條 明)
軽く肌ざわりの良い綿麻の衣服を身につけて遊ぶ気持ちは、「風踏んで」よりも「薫風まとい」と表現したくなります。
京都を歩くのも、八重桜の散り始めからこの季節がいちばん好きです。若楓、緑さす水縁、さながら絵巻物のような葵祭の麗色、光琳の描いた燕子花(かきつばた)、うるおう苔の緑。春から秋の、ときに天候に嫌われる祭事や、花にあふれる人の波、暖冬に色褪せる紅葉には落胆しますが、この季節の、生まれかわったような古都のみずみずしさはけして裏切りません。
中で、水ぎわの楓の新緑ほど美しいものはありません。糺(ただす)の森や清滝の清流、龍安寺や勧修寺の古池に映る木々の緑‥、水面に新樹の冷ゆるを見るのは涼しいものです。悠久の都に、美しい水は欠かせない要素にちがいありません。
水涼し木があれば木の影を容れ (大串 章)
水面近くを錦鯉がゆらゆらと波紋を描きながら泳ぐのを見れば、和菓子職人でなくても、すきとおった寒天に若楓の葉や錦鯉、鮎などを封じ込めた夏の涼菓子を作りたくなります。その菓子に、わたしなら(勝手な造語だけれど)「水楓」と名づけましょう。
でも、なぜでしょう。この清涼感を称えた秀歌が見当たりません。涼しげな「夏衣」を詠んだ歌にあふれる光と緑を想像するくらいでしょうか。光がみち、生命力あふれる若葉時は、「無常」や「もののあはれ」などから無縁だからなのでしょうか。
五月は若いものだけに許された季節のようだ、と鏑木清方は書いています。母親に見守られながら、元気いっぱいに青草を踏んでかけまわる子どもたちの姿を追うわたしも、緑蔭にやすらうひとときにほっとする年ごろのようです。
そうそう、そろそろ新茶を買いにゆきましょう。
みなさまも、どうぞよいゴールデンウィークをおすごしくださいね。