雪月花 季節を感じて

2005年~2019年
2019年~Instagramへ移行しました 

兜の童子

2010年04月30日 | 筆すさび ‥俳画
 
 みなさま、よい連休をおすごしください ^^
 

神々の音楽

2010年04月23日 | たまゆら ‥日々是好日(随筆)
 
 年に数回、コントラバス奏者の知人が所属する交響楽団の定期演奏会へ主人と出かけます。今回は、シューベルトの交響曲第7番「未完成」に、ブルックナーの未完の大作・第9番という構成も楽しみなプログラムでした。


 バブル全盛期に海外からたくさんの著名な交響楽団が次々に来日し、都内に新設されたばかりのすぐれた音楽ホール(サントリーホールやオーチャードホール、東京芸術劇場など)ですばらしい西洋の音楽をたくさん披露してくれたことは、いまでは懐かしい思い出ですが、当時一緒に出かけることの多かった友人が、興奮しながら「交響楽って、音楽家の叡智をきわめた傑作よ」と語ったことが忘れられません。

 叡智をきわめた音楽‥それは、音楽的天才のみのなせるわざでしょうけど、神々の声を音符にしたといわれるモーツァルトやベートーベン、宗教色のつよい今回のブルックナーなど、天才は神との交感によって、生みの苦しみと闘いながら芸術を創出してきたのでしょう。


 ベートーベンが「時に(作曲中に)神が降りてくる」と言っていますが、ベートーベンにして「時に‥」なのだから、たいていの作曲家が交響曲第9番どまりのところ、35年の短い生涯に41もの交響曲を含め700余りもの楽曲をつくり、「わたしの中で曲はもうできている。あとは楽譜にするのみ」と豪語したモーツァルトなら、「しばしば神との交感を楽しんだ」と言うでしょうか。

 ところで、「時に神が降りてくる」とは、一種の悟り、ひらめきの状態?でしょうか。ひらめき、と言ったのは、わたしは悟りは一瞬のものだから、その瞬間をのがさずとらえ、確実な体験とするために修行があるのであって、いったん悟入するとその状態がずっとつづくものとはおもっていないからです。ただ、継続的な訓練によって悟りの回数がだんだんと増えてゆき、「点」でしかなかった体験が、やがて「点線」になり、ついに「直線」になったとき、それが神あるいは仏ということではなかろうか、と考えるのです。‥とまぁ、なにやら神の話から仏の話へと都合よく転換したような具合ですけど、そこは神と仏との間を自由に行き来できる日本人として、大目にみてくださいね。

 えてして神とは気まぐれで、いたずらしたり大暴れしたり、人間に過酷な試練を与えるやっかいな存在なので、時につきあうならまぁ我慢できても、頻繁なつきあいとなると、これは相当ふりまわされて疲労困憊することまちがいなしでしょう。だから、ベートーベンの神経性の病気、モーツァルトの素行の悪さと短命、そしてブルックナーの神経衰弱や奇怪な行動も、当然かもしれない‥ などとくだらないことを考えるうちに、コンサートはフィナーレをむかえていました。

 天才とは、偉大な神とつきあうだけの体力と精神力を備えた超努力家であることはたしかでしょうね。


 すてきな音楽会に案内してくれる友人に、感謝です。

モダンアートや音楽鑑賞の折にしめてゆく染め名古屋帯です。ダチョウのような、色とりどりのふっくりとした鳥たちが列をなして描かれ、まるで軽快な音楽にのって行進しているよう。「鳥の楽隊」帯と名づけて、楽しんでいます ^^

 

紬を学ぶ

2010年04月12日 | きもの日和
 
 今月から、同じ市内にお住まいの染織作家・N先生のお宅にて、紬のきものについて学んでいます。紬縞織・絣織の人間国宝・宗廣力三氏に師事したN先生の紬織は、ふうわりと空気をまとうような、あたたかくやわらかな織物です。

 きものをとおして、ひろく日本の文化に深いおもいをお持ちのN先生のお話をうかがうだけでも至福の時間なのですが、その紬織に触れ、袖を通させていただくことができるなんて、夢のようです。


 徹底して糸にこだわり、自ら草木染めをし、色数を抑えて風合いよく織られた着尺は、それだけで完成することのないよう綿密に計算されているため、コーディネートもしやすい。あらゆる意味で、使い手に負担のない織物を目指されているようにおもえます。

 花にたとえれば、薔薇や大輪の花のもつ華やかさでなく、野に咲く花の美しさといえましょうか。
 わたしは、いわゆる「真・行・草」の草であるものを真のレベルにまで高めたところに、日本の文化の真骨頂があるとおもうのですが、このことは、かつてくらしに「ハレとケ」の明確な区別があったころ、あくまでケの衣服にすぎなかった紬に美を見出し(これには、民藝運動を推進した柳宗悦氏の功労があるとおもいますが)、長い歴史の中でたくさんの美しい織物が日本各地でつくられてきたことにも通じましょう。そして、N先生の紬織を美しい、あるいは癒される、とおもうわたしたちの体の中にも、そんな日本文化の底流があることを実感するのです。


 本来の紬らしい紬に、出合いたい。そんなおもいで参加したお教室から、期待以上のたくさんのことを学べそうです。今後も、N先生のお話から何か気づきがあるとき、こちらにご紹介したいとおもいます。