雪月花 季節を感じて

2005年~2019年
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からいた

2011年04月25日 | 京都 ‥こころのふるさと
 
 京都へお花見に出かけた友だちが「からいた」というお菓子を送ってくれました。

 「からいた」は「唐板煎餅」のこと。
 貞観のむかし(9世紀)に神泉苑で疫病除けのため行われた御霊会。このとき、煎餅をつくり神前に奉納後、庶民に下賜されたのが「唐板煎餅」の始まりだそうです。

 京の町の一角で、数百年以上もの間ひっそりと変わらぬ製法を守りつくられてきたお菓子は、芳ばしく素朴な味わいです。

 お墨で丁寧にしたためられた手紙が添えられていて、送り主のあたたかな心づかいが何よりうれしかった‥ 有難う、ごちそうさまでした ^^


 

遊洛とはずがたり 四 『平家物語』 をたずねて

2008年08月15日 | 京都 ‥こころのふるさと
 
 四 『平家物語』 をたずねて

 『平家物語』が好き。八年前の五月、放火による大原寂光院の本堂焼失という衝撃的なニュースは忘れない。再建されたお堂を拝するべく、旅のおわりに平家滅亡後の建礼門院の隠棲地を訪ねることにした。


 三尾は京の町からそう離れていず、「京に田舎あり」の感がつよいが、大原はいまなお「かくれ里」の趣きがある。車道がなければ、黒木をかついだ大原女が歩いていてもおかしくないようにおもわれる。

 乗客のほとんどはバスを降りるといっせいに三千院をめざす。が、わたしたちは反対方向の寂光院へ。谷川づたいにみやげ物店のつらなる三千院の参道とちがい、青田も清々しい田舎道をすすむと、「宮内庁管轄」と大きく書かれた建礼門院大原西陵の入口にたどり着く。まずは建礼門院の御陵に一礼。そして、緑陰をもとめるように寂光院へ向かう。

 『平家物語』灌頂の巻に描かれた寂光院は初夏だ。「庭の若草茂り合ひ、青柳糸を乱りつつ、池の浮き草波にただよひ、錦をさらすかとあやまたる‥」の名文は、冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり‥」と呼応するように無常観をただよわせるが、庭の草木は八百年前の当時とさほど変わっていないのではないか。無常とは、人の世のことにすぎないのだろう。
 後白河法皇の大原御幸は史実であるかどうかさだかではないようだが、“日本一の大天狗”といわれた後白河法皇こそ、平家を滅亡させた張本人ともいえるのだから、この侘びずまいに法皇をお迎えしたときの女院のお気持ちを考えると、こころが痛む。

 青苔のゆたかさにすぎた歳月をおもいつつ、いったん寂光院を出、そこからさらにいくらか道をのぼったところに今回の目的地はあった。イノシシよけとおもわれる金網扉を開けて山道に入り、すぐ左手の石段をのぼりきったところに、薄幸の女院を支えた侍女たちのささやかな墓石が四基、肩をならべるように立っているのである。
 それはもうちいさな墓石で、すっかり風化しており、いったい四つのどれが阿波内侍(あわのないし)・大納言典侍(だいなごんのすけ、平重衡の妻)・右京太夫(うきょうだいぶ、平資盛の恋人)・治部卿局(じぶきょうのつぼね、平知盛の妻)のものなのかさえ分からない。杉木立につつまれ、あたりは晴れた日の昼間でもうす暗い場所で、手入れのゆきとどいた寂光院の境内とは対照的。それだけになおあわれで、自然手を合わせ、しずかに冥福を祈る気持ちになる。

 建礼門院徳子とその侍女たちは、人生の絶頂と地獄をわずか数年の間に経験した。建礼門院だけではない。当時を生きた者たちは、みな平家の栄枯盛衰を目の当たりにし、この世の闇を実体験したのである。それをおもえば、平忠度や女院が遺した和歌だけでなく、『新古今和歌集』、西行の足跡、『方丈記』に『徒然草』など、すべてその根底を『平家物語』と同じ無常観が流れていることにあらためて気づく。かれらは、たんにおもうに任せない世をはかなんで歌の道にすすんだり、美の世界に没頭したのではない。そこには、この世の地獄を生き抜くための命がけともいえる「諦観」があり、闇をつけぬけた一種の明るささえ感じられるのである。このことを忘れては、中世という時代の本質を見誤るとおもう。死を見すえ、なお生を謳歌する諦観。これが、その後もずっと日本の文化の底流となっているのではなかろうか。


 大原の里は、しば漬け用の茄子の仕込みに忙しそうであった。
 三千院にてお写経を納め、大原の里をあとにした。
 

 <追記>
 帰京後、寂光院の略縁起に目をとおしていたら、「翠黛山(すいたいさん)には、阿波内侍をはじめとする五人の侍女の墓地群が所在する」とあるのに目がとまった。はて、五人? 四人ではなかったの? と不思議におもい、すぐに寂光院に問い合わせてみた。すると、寺の縁起によれば、五人とは、阿波内侍・大納言典侍・師典侍(そちのすけ、平時忠の妻)とその娘(名は不明)・治部卿局だという。つまり、右京大夫の代わりに、師典侍とその娘が加わっているのだ。墓石もちゃんと五つあるそうで、師典侍の娘の墓石はほかの墓石の前か後ろにあって、ちょっと分かりにくいらしい。気づかなくて残念だった。
 じつは、五人のうち、女院に最後まで仕えたのは阿波内侍と大納言典侍の二名だけだったと、奈良本辰也氏はその著書 『京都百話』(角川ソフィア文庫 ※)に書いているし、女院は晩年になって大原の里を出られ、京にもどって崩御されたという説もある。謎は深いが、謎は謎のままにしておこうとおもう。



北観音山 @ 河原町通り
 後祭の先陣を切る曳山・北観音山。御神体は楊柳観音と韋駄天像、鳴滝産の真松をいただき、後部に柳の枝をつけ、山の装飾品も繊細かつ華麗で見ごたえがあります。浴衣と小物の意匠、お囃子と音頭の息のピッタリ合った調子もたいへん美しいです。曳き子さんたちが草鞋で足を傷めないよう、足袋型のストッキング?を用意していたことに感心しました。
 毎年祇園会についてご教示くださるまさおさんが、新町六角に通うようになってから来年で十年?でしょうか。記念年に向け、すでに六角会では新年会が行われたそうです。宵山の日、日和神楽を待つ祇園囃子の中で、「わたしたちが死んでも、祇園祭はずっと生きつづけるんですよね」というまさおさんの奥さまのお言葉が印象的でした。
 今年も有難うございました ^^



※ 『京都百話』 は さくら書房 で紹介しています。
 

遊洛とはずがたり 三 文化都市の条件

2008年08月12日 | 京都 ‥こころのふるさと
 
 三 文化都市の条件

 東京好きの京都人が、「東京は日本の経済都市、京都は日本の文化都市である」という。少々腹立たしくはあるが、京都好きの東京者としては肯定せざるをえない。最近の京都に失望することはすくなくないが、京都を焼き尽くした先の戦い(京都人にとって、五百年以上前の応仁の乱のこと)以降も、京都人はしたたかに生きつづけ、禁裏が東京に遷ったのは一時的なできことであり、王城の地はいまもここであると信じる人たちが、遷都後の京を支え、根こそぎ文化を失うことを防いだ。「信じる」ということは、存続と文化継承のためにとても大事なことである。


 話は変わるが、わたしは「京都のどこが好きか(おすすめか)」と問われると、「御苑と鴨川。」と答える。そう言うと、たいていの人は「?」という顔をする。きっと、もっと別の、分かりやすい名所を期待していたのだろうとおもいながら、もう一度「ぎょえんと、かもがわ。」と言う。こんなに京都らしい場所はないもの、とおもっているから。

 京都御苑は、なんといっても京都のセントラル・パークである。いまでこそ市民の憩いの場といわれるが、むかしからそうだったわけではない。かつてそこに、紫宸殿を中心とした禁裏を守護するように、宮家や公家の邸宅が所狭しと建ち並んでいたことを忘れてはいけない。「近衛邸跡の糸桜」とか、「一条邸跡の大銀杏」が話題になるようになったのは、明治の遷都後のことであり、京都人にとってはごく最近のことなのだ。
 光源氏さながらの公達も、出入りの陰陽師、御用絵師や庭師もここを歩いた。夜になれば、怨霊や魑魅魍魎が暗躍したろう。そんなことを想像しながら御苑を歩けば、「洛中洛外図」」さながら広大な空から俯瞰した花の都がまざまざと目に浮かんでくる。御苑は歴史的時空のエア・ポケットであり、タイム・トラベルだって可能にしてくれるのだ。夏雲や公達どもが夢のあと。ここにいれば、市街の喧噪はもう聞こえてこない。


 祇園会の交通規制のため、予定外の川端通りでバスを降ろされたわたしたちは、暑さをしのぐため鴨川縁の遊歩道を歩くことにした。車道の騒音が気にならないし、草叢に青鷺が羽を休めていたり、白鷺がじっと獲物をねらっている姿などを楽しめる。犬は水浴びに夢中だし、飼い主は膝から下を水につけて涼んでいる。四条大橋付近の川床の桟敷は夕刻の客を静かに待っている‥。そう、ここには京都の日常がある。
 もちろん、こちらもむかしはこんなにおとなしい川ではなかった。ひんぱんに氾濫し、京の人々を長年悩ませてきた。疫病や兵火にたおれた人の亡骸が累々と積み重ねられ、それらがそのまま流されていたこともある。六条河原や三条大橋のたもとには、数知れない首がさらされた。鴨川の水は、京都の人々にとって生きる糧である以上に、死ととなり合わせのものだったのだ。だからこそ、この地に文化が育ち、花ひらいた。なぜなら、文化とは、多かれすくなかれ“禊(みそぎ)”と“鎮魂(たましずめ)”という意味をもつものだから。


 過去(あるいは霊界)と現在を行き来できる場所がある。長い間、人の生死に関わってきた水の流れがある。御苑と鴨川が、京の文化を育て、根づかせたのである。そういった意味で、京都に匹敵するほどの文化は(一部を除いて)東京にはないし、育たない。‥とおもっている。




お榊と「蘇民将来子孫也」
 祇園会の主役といえば、八坂神社(祇園社)の祀る牛頭天王(スサノオ)ですが、山の神さまも関わっていることを今回初めて知りました。宵山の日に行われる「採燈大護摩供」では、聖護院門跡の修験僧が山伏姿で山町をめぐりつつ奉経し、最後に役行者山において山伏問答および護摩修法を行って御神体を勧請します。山伏と役行者、つまり山岳信仰と結びついているのですね。これは、北観音山の作事方をつとめるまさおさんから伺った話で、わたしは見たことがないのですが、聖護院は天台宗系の修験道寺院であることから、修験僧が一時比叡山を下り、山町に神を勧請して巡行の無事を祈願くださるのでしょう。
 ほかにもたくさんの祭神さまがいらっしゃる祇園祭。まだまだ興味は尽きません。

 

遊洛とはずがたり 二 ひと目惚れ

2008年08月08日 | 京都 ‥こころのふるさと
 
 二 ひとめ惚れ

 時折訪ねるうつわのお店のご主人は、買い付けのためにしばしば京都へゆかれる。ある日「初めて東寺へ行ってみたのですが、よかったですよ」と目を細め、まだならぜひ行ってごらんなさい、とすすめていただいた。

 東寺(教王護国寺、世界遺産)。といえば、京都を舞台にしたテレビ番組にかならず映るあの五重塔。新幹線の車窓に五重塔が見えると、「また京都に来た」と期待感はいっそう高まる。ところが、それですっかり東寺を見た気になっているのは、きっとわたしだけではないとおもう。東寺のことは、五重塔とその大まかな歴史以外、ほとんど何も知らないことに気づいた。

 祇園社に詣でて古札を納め、そこから循環バスに乗って東寺へ向かった。九条通りにバスが入ると五重塔が見え始め、徐々に迫ってくる。門前でバスを降りると、目前に広々とした境内がひらける。手入れのゆきとどいた庭。大きなつぼみをたくさんつけた蓮池は、まもなく花の盛りというころ。その先に、五重塔がそびえる。蓮華の咲きそろうころ、桃色の花のうてなに五重塔が浮かんで見えるさまは、まさに極楽浄土であろうと想像されたし、また境内には意外なほどたくさんの桜が植わっていたから、春は春で満開の桜が堂塔伽藍を荘厳するのであろう。ふと、御室桜が見ごろのころの仁和寺を思い出す。
 それにしても、三代将軍・家光の権力の象徴ともいえる建造物とは、どうしてこうも重々しいのだろうか。荘重といえば聞こえはいいが、東寺・仁和寺の五重塔も、日光東照宮も、近寄ると押しつぶされそうになる。どれも、そばで見上げるべきものではない。

 が、東寺は仏像がすごい。(← ガイドブックの謳い文句にもある) なるほど、国宝・重文級の平安期の力づよい仏像がずらりと並んでいるさまは壮観だ。ところが、そんな歴々の仏さまがみないっぺんに色褪せてしまうほど、容姿端麗な仏像に出逢ってしまったのである。講堂内の守護神、帝釈天半跏像(国宝)である。切れ長の目は半眼、真一文字にひき結ばれた唇に意志のつよさがうかがわれ、沈思黙考の表情であられる。白像に乗り、半跏趺坐したお姿はほれぼれするほど。頭部のみ後補らしいが、どう見ても、当時モデルになった超二枚目の男性がいたことは疑いない。あまり人間くさいからである。

 これほど目の保養になる仏さまは初めてだ。そばにいた主人のことはしばし忘れた。ひと目惚れである。さすがは「日本一端麗な仏像」。“東寺の王子”、帝釈天さまである。


 帝釈天さまに浮かれて、評判の門前菓子屋で“東寺餅”を買いそびれてしまった。


 こちらは祇園会の王子、長刀鉾のお稚児さん。下京区の建築設計会社社長・岡澤浩一氏のご長男・一規くん(9歳)で、長刀鉾の地元の小学校から選ばれたのは、じつに34年ぶりとか。
 巡行直前の長刀鉾を見るため四条通りを歩いていて、「あっ」と驚きました。通りに面して海外有名ブランドの大きなビルが建っているではありませんか。一瞬、自分が(東京の)銀座中央通りにいる錯覚におちいり、ついに京都にも‥と愕然。あと何年かしたら、銀座のように海外ブランドビルが建ち並ぶ四条通りを、32基の山鉾が練り歩くようになるのかしらと、暗澹たる気持ちです。

 

遊洛とはずがたり 一 山寺もうで

2008年08月06日 | 京都 ‥こころのふるさと
一 山寺もうで

 この夏は、知人友人、あるいはそのご両親に心配ごとが多い。温暖化は、すくなからず人体にも影響を及ぼしているのかもしれない。そんな中、ご自身の体調すら不確かなのに、病ともいえない理由で入院したわたしを気遣い、わざわざお寺へ足を運び、観音さまやお薬師さまに手を合わせて回復を祈り、励ましてくださった方たちがいる。頭が下がるおもいでいっぱいである。

 今回は、京都に着いたらまず山寺参りと決めていた。朝早い新幹線で入洛し、荷物を預けてすぐに山行きのバスに乗る。できれば大原野の里や花背くらいまでゆきたかったが、余裕がなく断念、市街からそう離れていない三尾の山々をめざした。
 お祭さわぎの街を逃れたのでなく、最初に訪ねるのが山寺でなければならなかった。温かな心遣いにいくらかでもむくいるため、一歩一歩山道をすすみ、石段をのぼり、山の神仏に近づいてゆきたい。それなら、できるだけ参道は長いほうがよい。ふだんから信心篤く神社仏閣とのおつきあいがあるならいざしらず、残念ながらそうした暮らしではないので、その分をせめて足であがないたいとの、虫のいい考えもあったろう。高雄のバス停を乗り越して終点の栂尾で降り、そこから高雄の神護寺をめざす。

 前日の大雨のせいか、全山水を打ったようにしっとりとしていた。栂尾の石水院を拝観後、槙尾・西明寺をすぎ、草木の香を楽しみながら多少のアップダウンを繰り返して、途中清滝川の瀬音や河鹿の声に涼みながら、神護寺への山道に入る。眼前をふさぐ長い石段を見上げれば、自然気持ちが引き締まる。そこから古色蒼然たるたたずまいの山門までは、ずっと上り坂であるのがよい。深緑の楓に洗われた楼門にたどりつき、森閑とした境内に足を踏み入れるとき、疲れと暑さを忘れてすっかり爽快な気分になるのが、さらによい。そして、薬師如来のまします金堂に達するまで、この霊刹の過酷な歴史をおもうのである。

 頭を垂れ手を合わせ、お世話になった方々の息災を願う。金堂へのきざはしを下りつつ、ふと、これまで幾度も京都に足を運びながら、ついぞこうした謙虚な気持ちで京の寺社を訪れたことがなかったことに気づく。本来そうあるべきなのに、いつも旅行者の目線であったことばかりおもいかえされて悔やまれる。講和に耳を傾け、庭を鑑賞し、お茶をいただいて、季節に彩られた歴史的建造物や宝物を拝んだりするのは、それはそれで感性が鍛えられて有難く結構なことではある。だがしかし、そんなことは、みな“自分のこと”にすぎないではないか。弘法大師や文覚、明恵上人らが、このように社会から隔絶した地を選び、荒廃した寺を再興し、み仏を勧請したのは、何のためだったか。そのことに、およそ十年もの歳月を経てようやくおもい至ったことが、ほんとうに恥ずかしかった。


 不徳者が、有徳者に導かれて山寺に参拝し、ものの見方を大きく変えたのである。何にもまさる収穫だった。これは、旅の効用ではない。わたしのような愚者に一心を捧げてくれた方たちのおかげである。

 今日6日は広島の日。八月は平和への祈りの月である。


 祇園会宵山の風物詩のひとつ、駒形提灯。白熱灯だったものが今年から蛍光灯にかわり、消費電力と二酸化炭素排出量は半分以下に。明るすぎて風情がない‥と不評でも、ことは千年の歴史を誇る祭事も例外ではないようです。
 でも、環境対策なら、もっとほかにすべきことがたくさんあるようにおもう。そう考えるのはわたしだけでしょうか。「地球にやさしく」と主張されれば、何も言えなくなってしまうけれど。

 宵山は昨年より6万人も(!)多い44万人の人出だったとか。一方通行になってしまった筋が多く、今年は日和神楽についてゆけませんでした。

 

祇園囃子

2007年07月20日 | 京都 ‥こころのふるさと
 
 十六日宵山、午後九時三十分。新町通りに面した北観音山の会所二階座敷から、囃子方の男衆たちが一斉にばらばらと通りに出てくる。向かいの逓信病院の敷地に、かれらよりわずかに丈の高い台車が用意され、木瓜・三つ巴・六角会の紋入り赤提灯を吊るし、鉦太鼓を積みこむ。「ほな、そろそろ行きまひょか」の合図とともに、太鼓方・鉦方、その後ろを笛方がつき、慣れた手つきで祇園囃子を奏でつつ、夜更けてもなお人通りの減らない新町通りを南へと下ってゆく。日和神楽(ひよりかぐら)の出発である。

 日和神楽は、全山鉾三十二基のうち、お囃子のある町内の囃子方が山鉾を降り、各町から四条寺町の御旅所まで、祇園囃子を奏でつつ町中を練り歩くもので、翌日の巡行の好天と無事を祈る行事である。各町で往路(町~御旅所)、復路(御旅所~町)のルートは異なるが、四条通りへ出てから目的地の御旅所までは同じ道をゆくわけだから、当然、他の町の神楽とゆきかうこともあれば、四条通りに建つ鉾のお囃子と重なることもある。詳しいことは分からないが、通りで複数の神楽が出合うとき、互いにお囃子で挨拶を交わしたり、相手にゆずったり、あるいは負けじと競い合うかのように聞こえるときもあり、どうやら暗黙の決まりのようなものがあるらしかった。四条烏丸の辻先に建つ長刀鉾のわきを抜けるときであったが、北観音山の神楽を鼓舞するように、頭上から長刀鉾の囃子が滝のように降ってきて、わが身の四方を囃子でつつまれたような感覚とともに、そのとき初めて、祇園囃子というものをわたしは全身で理解したような気がしたのである。何かが、わたしに憑いたのだ。すくなくとも、そこから数百メートル先の御旅所の神前でお祓いを受けるまでは。

 北観音山の神楽は、神前でお囃子を奉納後、寺町のアーケードの中へと消えてゆく。深夜の寺町商店街は閑散としているが、ときに哀調を帯び、ときに高潮する囃子が二重三重にこだまして別世界と化す。寺町を貫くトンネルは異界への入口‥ いや、異界そのものとなるのだ。北観音山にとって、そこは神と交感する場のひとつなのかもしれない。

 こうして、巡行を目前にひかえた京の町が祇園囃子で充たされてゆくのである。各山鉾に天降る神々を歓待し、どうか明日の巡行をおとなしく見ていてほしいと願う。京の町衆は、疫病や戦乱の絶えなかった歴史の中で、つねに荒ぶる神々をなだめすかして生き長らえてきた。都大路を我がものにしようと試みたあまたの輩のことなど、じつは何とも思っていなかったのではないか。そんな愚者たちを相手にするよりも、遺恨を抱きつつ世を去った者たちや神々との交感のほうがよほど大事だったろう。そのことを忘れたとき、京都は京都でなくなる。そう思えてならない。

 祇園囃子は文月だけのものではない。一年中、町衆のこころに絶え間なく鳴り響いているといっても、過言ではなかろう。
 山鉾全三十二基の案内図は こちら をご覧ください。


 * * * * * * * * * *

 われわれ外部の人間は「祇園祭」というが、各山鉾町では「祇園会(ぎおんえ)」と呼び、「祇園祭」とがんこに言わない人があるという。「会(え)」とは、一年に一度、人びとが思いを一つに合わせて寄りつどうことを表す。つまり、「祇園会」とは、山鉾町に住む者の誇りであり、心意気なのである。このことは、現存する最大規模の京町家・杉本家住宅のご当主である杉本秀太郎氏の『京都 夢幻記』(新潮社 ※)に見えているが、山鉾町に住む人間が一歩町の外で暮らすようになれば、たちまち会の一員でなくなり、その逆もまたしかりなのだそうである。しかしながら、現在の祇園会が、もう町の住人だけでは支えきれなくなっていることは周知の事実であろう。幸い、この会にはつよい求心力があるために、毎年巴紋を描くように町の外からも人が大勢集ってくるのである。仲間に入れてほしいなどと図々しい気持ちは微塵もないのだ。ただ、「祇園会」を支えているそういう人たちのいることを、ここに申し添えておきたかった。
 

 今回の旅に導いてくださったUさま、そして「祇園会」を惜しみなく披露してくださった六角会のみなさまと I さまへ、この場からあらためて謝意を表します。

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 一筆箋


※ 『京都 夢幻記』 は、さくら書房 で紹介しています。
 
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祭鱧 (まつりはも)

2006年07月13日 | 京都 ‥こころのふるさと
 
 シャッ、シャッ、シャッ、シャッ、シャッ、‥

 鱧の骨切りの音から、わたしの夏が始まった。
 祇園の花見小路を一筋、西に入った割烹店「川上」のご主人の年季の入った包丁さばきから、歯切れの良い、涼感あふれる音がうまれる。手もとには、上洛してまず訪れた祇園社の「蘇民将来之子孫也(そみんしょうらいのしそんなり)」の護符付きの厄除ちまき。これだけでもう十分、身もこころも夏本番なのだが、鱧の落しに白味噌の熱いお碗、鮎の塩焼き、夏野菜の冷製炊き合わせ、賀茂茄子の田楽、‥と、気取りのない佳い器に盛られた景色もみごとな夏料理の数々を堪能する。打ち水のされた路地の先にゆれる涼しげな麻のれんをくぐり、すこしばかり緊張してのぞむハレの日の店とはちがい、からりと引き戸をあけ、「ただいま」と言いたくなるような素朴さがこの店にはある。客も常連さんばかりだ。もちろん料理も美味いが、主張せず、でしゃばったところが微塵もない。食事の合間に先代と奥さまが傍らに来られ、「ようこそ、おいでやす」「おぉきに、有難うございます」と腰低く挨拶をされてゆく姿こそ、この店の真情なのだろう。わたしの尊敬する染色家、吉岡幸雄先生の店はこの近くで縄手にあるが、食べものにうるさい先生の行きつけの店だというのもうなづけた。

 この日の夜、四条大橋で祇園祭の行事のひとつ、神輿洗(みこしあらい)が行われた。飾りをつける以前の、男たちの「まわせぃ、まわせぃ」のかけ声で橋上をひきまわされる神輿はまだ町衆のもののようだが、鴨川の神水で浄められた神輿はとつぜんに神々しくなる。そうなると、もうたれのものでもない。神幸祭、還幸祭をへて、もういちど神輿が洗われて祭を終えるまで、それは神そのものなのだ。コンコンチキチン、コンチキチン。鉦の音が消えるのを合図に、神は、夜の夏を照らす南座と花街の灯のむこう、東山のふところへと消えていった。


 山鉾町では、釘一本使わない「縄がらみ」という伝統的な技法による鉾建てが始まっていた。いまはガテン系の汚れた作業服とねじり鉢巻姿で汗を流す男たちが、千年の重みを背負い、誇らしげに山鉾紋入りの浴衣をつけて、荒ぶる神とともに都大路を練りあるく日も近い。わたしはうだるような熱気につつまれた四条通りをぬけ、神宮神苑の栖鳳池の涼風に憩いながら、梅雨空の果てに白雲の峰のたつ都の空を仰いだ。どこからか、「エーン、ヤァラァヤアー」の勇ましいかけ声が聞こえたような気がした。


 夏座敷 鱧 川床(ゆか) ちまきにコンチキチン 油照り日の京の楽しみ

 祭はまもなくクライマックスを迎える。
 京都の夏は、熱い。


 * * * * * * *
 一年二ヶ月ぶりに京都へ行ってまいりました。
 絵は、毎年「あとの巡行」で先頭をゆく“くじ取らず”の曳山、北観音山のちまき。
 山の作事方「六角会」に所属する方から分けていただいたものです。

 
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桔梗 夏の記憶

2006年07月06日 | 京都 ‥こころのふるさと
 季節はずれの台風が去り、京の町の空に雲が流れてさわやかな夏の一日になった。遠くに祭の鉦の音が響く。約束の夕刻まで間があったので、禅寺とは思えないやさしい枯山水の庭をながめながらお薄をいただき、なかば時間つぶしのための時をすごした。
 拝観者はわたしたちふたりだけの、閑かな週末の昼下りだった。雨に洗われたみずみずしい苔緑。ゆったりと横たわる鶴亀の石組。風が流れるたび、さらさらと音をたてて表情を変えてゆく竹林。わたしたちは長い時間そこに座したまま、あまり多くを語ることもなくすごしたが、その時間はわたしにとっては空白ではなかったし、東京の忙しい日々を離れ、ゆるやかな時空に気持ちを遊ばせる貴重なひとときだった。

 その後、隣接する寺の庭を訪れた。そこは桔梗の花の時期だけ拝観が許されている。可憐な紫の花は庭をうめつくすほど咲いていたが、庭全体は雑然としていて手入れもゆき届かず、おまけに奇妙な音楽のサービス付きで、わたしたちはすっかり興ざめしてしまい、花とゆっくり向き合うこともなくその場を離れた。

 「でも、この花に出会えたからよかった」
 寺の戸口を出たところの、ふっくらとした苔に沈む敷石のかたわらに咲いていた数輪の桔梗の花。清楚で、庭に咲き乱れていたたくさんの花よりもずっと気品があった。そして、友人のその言葉に、わたしは救われたような気持ちになったのだった。


 桔梗の花を愛する友人と、花に逢うために京の禅寺を訪れた夏の思い出はもう遠い。わたしは凛とした花の姿を思いながら薄茶を点て、梅雨明け前の蒸し暑いひと日をやりすごす。茶の緑を抱いた碗には、いまもあの日の紫の花がゆれている。
 
 桔梗(きちかう)の姿したひて一碗の苔の翠(みどり)をひとりただよふ
 
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散華

2006年03月10日 | 京都 ‥こころのふるさと
 
 
 薮かげのとある小路に落椿 思ひあまりて春の地を染む
 (高安やす子)


椿の散華(※)
淡雪の舞う小路を紅に染める落花
それは 生とひきかえの永遠の美
花の残した思いを そっと掬いとってやりたい

椿の谷の静謐 早朝の法然院本堂の
あめ色の須弥壇に横たわる二十五の花は
二十五菩薩の象徴
その寂とした美に こころ静かに向きあう

ふる雪のかすかな音に耳をすまし
ゆるやかな時空の中に
身もこころも雪と花とともにとけてゆく


春の花々に思いをゆずり
早々に落ちてゆく はかないいのちの花を
哀しいほど いとしくおもう


※ 散華(さんげ)‥ 仏を供養するために花をまき散らすこと。法然院本堂では、毎朝二十五菩薩の供養に二十五の季節の生花が散華されます。法然院の散華については こちら へ。
 
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錦繍

2005年11月13日 | 京都 ‥こころのふるさと
北山時雨が京の紅を呼ぶという
「京都南部の午前中は、時雨雲がとれにくいでしょう」
早朝の予報がそう告げた旅の初日
京都は晴れ、時々、時雨であった


 いやもう紅葉が美しい。見上げれば満点紅葉の幕である。
 眼をおとせば 又 満地紅葉の褥(しとね)である。
 そして今また はらはらと散りつつある。
 (『紅葉の雨に濡れて』より 山口青邨)

粟生(あお)の光明寺
ゆるやかに傾斜した参道の綾錦に抱かれて歩く
大原三千院の紅葉を讃えた
青邨(せいそん)の言葉を思い出す

京都の秋は短い
時雨が紅葉をたたく
紅は枝を離れて地を染める

 全山は燃ゆるくれなゐ 北時雨われもろともに染めて過ぎゆけ


眼前を飛び交う光彩陸離
冷気の満ちた天空の金襴手
永遠につながる一瞬の輝きを
深くまぶたに焼き付ける


千年のいにしえから
あまたの歌人がはかない季節をいとおしみ
その美をたたえ
現世に生きるわたしたちをもひきつけてやまない
飛花落葉の都よ‥

 ゆく秋の形見なるべきもみぢ葉も 明日は時雨と降りやまがはむ
 (『新古今集』 権中納言兼宗)


錦繍の旅をふりかえり
いま 思うこと─

「京都は 美しい」

それだけです
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