高橋伴明監督の
映画「禅」を見て、水上勉の『禅とは何か -それは達磨から始まった-』(新潮選書 ※)を読んでいたら、腑に落ちたことがありました。鎌倉の動乱期、栄西や道元が命がけで海を渡り入宋してこの国に将来した禅は、広く武家や庶民の間に伝播して、今日まで永々と伝えられているけれども、そうはいっても「禅は一代のもの」であるのだから、いまどんなにもとめても、道元の禅、あるいは道元の正師である天童如浄、さらにさかのぼって達磨の禅‥というものは、どこを探してもない、ということ。曹洞宗の禅、道元の禅‥というものは存在しないのです。
誤解のないように付け加えれば、たしかに道元の禅(それは「只管打坐(しかんたざ)」、つまりは悟りであり、お釈迦さま以来の正伝の仏法だった)はありました。すくなくとも、道元が生きている間は。もしかすると、道元から直接嗣法した二世・懐奘(えじょう)の時代までは、あったかもしれない。が、それ以降、道元の禅なるものは跡形もなく消えました。
なのに、何故禅を信頼するかといえば、ふとした折に真実が見えたりつながったり、一瞬呼吸が止まるほどの美に出合ったときの、言葉に表せない恍惚感が実際にあり、しかもそれらはみな次の瞬間にはおぼろげになり、消えて失くなってしまうものであるということを体験から知っていて、もともと不立文字、教外別伝という禅そのものが、そのような直覚の世界に全幅の信頼を寄せているらしいと、これまた直感するからです。
‥という具合に、はなはだ抽象的なお話なのですが、つづけます。
不思議なことに、このことをお茶にあてはめてみると、氷解することがすくなくないのです。これまで、京都・大徳寺の山門前に立つたび「利休の茶とは、いったい何か」とおもっていたところ、利休の茶もまた一代かぎりであり、「利休の茶なんてものは、ない」と得心すれば、自由になれる。利休の茶をもとめるような茶、まして茶道具を所有し衒う茶など茶ではない。これはつまり、健康や名声、悟りなどを目的とした坐禅は五味禅であり、本来の禅(一味禅)ではない、ということとつながります。坐禅そのものが悟りなのだから、お茶でいえばその形こそ悟りととらえるべきでしょうか。坐禅もお茶も、無となってはじめて、直覚の世界に入るのでしょう。茶禅一味といいますが、このことは禅と茶にかぎったことでなく、行いのすべてにあてはまりそうです。
道元は「眼横鼻直(がんのうびちょく)」を学び、無手で帰朝しました。本来無一物なのだから、何ものかに固執したり、何かをもとめてする行いは、すべて五味禅に落ちることを、何よりもまず最初に身をもって示したのでしょう。
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すこし前に、小川洋子さんの『博士の愛した数式』という本が話題になり映画化されましたね。つい先日も、テレビで再放映されましたけれども、この物語の底流に禅を感じた人がいたらうれしいな、とおもいます。
※ さくら書房 で 『禅とは何か -それは達磨から始まった-』 を紹介しています。