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MIHO MUSEUMでいよいよ「特別展 青山二郎の眼」が1日から始まりました。
図録が送られてきたからと、昨日、弟が持ってきてくれました。
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> まず、その外箱を見て驚きました。本阿弥光悦の、大きな満月が山の稜線にかかる山月蒔絵文庫の鷹ヶ峰図が使われています。
箱の爪の中央には、青山二郎の正方形の落款があしらわれた瀟洒なものです。
仕掛けはこれだけではありません。そっと開けてみて、また驚きがありました。なんと、厚さ2.5センチほどのケースの内側は、表のつや消しと違って、漆を思わせる漆黒に蒔絵文庫の蓋裏niに描かれている図柄、三本の杉の幹のもとに佇む鹿が、片面には底面の見込に描かれている槍梅があしらわれた凝ったものです。
うっかりすると気付かない控えめな演出です。青山が、生涯手許に愛蔵したという山月蒔絵文庫の図柄を、こういう形で使われた、この展覧会を企画された方の深い思い入れが伝わります。この外箱からして、特別展の中身の程も十分察せられるというものです。400冊を超す装幀も行った青山二郎に相応しいものでしょう。
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10月9日の奈良豆比古神社(万葉の歌人志貴皇子が祭神・猿楽発祥の地で、土地の人は「奈良坂の氏神さん」と呼んでいます。)での薪能にあわせてMIHOに出かけるつもりでしたが、あるじの入院で如何なりますか。12月17日までの会期中にはなんとか、と思っています。
果たせなかった時は、来年、夏の東京展でと思いをめぐらせています。
うぅ、光悦ですね、垂涎ものです~、さっそく取り寄せます! うれしい、ワクワクします ^^ boa!さんと青山二郎のことを語り合えるよう、青山関連の本を読み漁って(?)おります。話は利休の茶のこころにまで及び、楽しみは尽きません。
ご主人さまのことご心配ですね。夏の疲れが出たのでしょうか、十分に静養されますように‥ わたしは来年の夏までだって、boa!さんのことを待っております。世田谷は2007年6月からでしたね。
と好奇心が沸くのです。
本稿を読んで。
遠く、ウイーンの劇場でウイーンフイル演奏会を聴きにでかけたり・ミラノの劇場でオペラ鑑賞する・・・
近所のご隠居さんの奥様もそんな一人。
ゴッホ展でもある作品の前でじっと動かず眺めている御仁がいましたね。
図鑑や図録では我慢できずに現物を・・・、
これですね。
anyway、ご主人様の入院中は図録で我慢しましょうよ。ご退院後、落ち着いた気持ちで鑑賞するのが
ベストでしょう。
残暑の日々でしたが、昨日あたりから急に涼しくなりました。
図録から収録してUPしたかったのですが、人の楽しみを奪うことになってはと、遠慮しました。
青山二郎は、私は白州正子からの紹介で辿りつきました。
はじめは、小林秀雄や白州正子に骨董を教えた人で、その周辺に集まる芸術家たちと「青山学院」を形成し、芸術論を戦わせていた人ぐらいの知識でした。
人間の幅の豊かさ、ものを見る眼の確かさは、小林秀雄に「あいつだけは天才だ」と言わしめ、稀代の目利きと評され、絵を、装幀をこなしながら、どれもを「余技」として、純粋に美の世界に生きることのできた怪物と思えます。
光琳の生き方をもっと徹底することが出来た環境を持ちえた見事な生涯ですね。
思わせぶりに、外箱のチラリズムで雪月花さんに油を掛けることになりました。
お見舞いありがとうございました。
図録の最後に「日本の陶器」から青山の言葉が引用されています。
優れた画家が、美を描いた事はない。
優れた詩人が、美を歌ったことはない。
それは描くものではなく、
歌ひ得るものでもない。
美とは、それを観た者の発見である。
創作である。
愛弟子の白州正子がいう「青山さんが偉いのは、「写真で見れば解る」観賞陶器から、「写真で見ても解らない」陶器の真髄、いわば形の中にある魂を求めたことにある」(いまなぜ青山二郎なのか)
と同じ世界だと思います
“憎まれっ子世に憚る”といいますが、我が儘、憎まれ口を言っている病人は治ります。ただ、ある時期から(ほんの短い時間の場合もあり、長い年月の人もいるようです)天使のように穏やかで素直な人間になることがあります。恐らく本人さえ気付かずに“人に接するときは仏様のように振舞おう”とするのではないかと思います。この場合の“人”は、万物自然全てのものと言っていいでしょう。こうなると、憎まれっ子に戻るのは難しそうです。どうか、ご主人様が我が儘いっぱい、手の掛かる“お元気な病人”でありますよう、お祈りいたします。ブログが間遠になるのは、やむを得ません。精々じっくりとお二人の時間をお楽しみください。
もう15年前の平成3年に出版された白州正子女史の
本の題名です(新潮社)。
いつもチェックする古書店のhpで検索すると
この本が1冊1000円で在庫。
骨董の世界は狭く、極一部の好事家の自己満足なんて申し上げると叱られますかね?
あの小林秀雄も人の好き嫌いがキツク、司馬遼太郎の文章を読んで”あれが日本語か?”なんてボロクソに
くさした男。仲間内の青山を褒めるのは分かるが、
腐した方の司馬遼太郎の名前は読書好きでない者にも
広く知られている。
図書館にもデーンと司馬の本が棚に・・。
鎌倉の小林邸宅も既に転売され・・・、
時代は過ぎています。
優れた観賞者は、ときに作者を超えて、高いものを創作することがあるようです。複製のよさもその一つでしょうね。
確かな眼でものを観る者の持ちうる特権でしょうね。しかも、時を隔てて繰り返される発見があることに気付かされました。
まだ不幸にして、「人が見たら蛙になれ」というほど執着するものに巡り会えません。あるいは、巡り会っていても、その真価を「発見」できないで通り過ぎているせいでしょう。
しばらく落ち着かない日が続きます。
河上徹太郎、永井龍男、大岡昇平、中原中也ら、「青山学院」のメンバーと酒を飲み、議論を戦わせ、
小林秀雄に「僕たちは秀才だが、あいつだけは天才だ」といわしめ、小林が議論に負けて涙をながした相手が青山です。
白州正子は、どうけなされても青山を「畸人」とは思わなかったし、「何物にもとらわれず、自由に生き」「純粋な眼で本物を直視」(いまなぜ青山二郎なのか)するジィチャンに引き寄せられていました。
友人たちの本のために、時間もお金も度外視して装幀したジィチャンのいう「美なんていうのは、狐つきみたいなものだ。空中をふわふわ浮いている夢に過ぎない。ただ、美しい「もの」があるだけだ」という言葉に凝縮した青山二郎の眼は、生涯濁ることなく、「美の放浪者」であり、「美の発見」に費やした一生だったようです。
かくて、いまも青山二郎なのです。
。古今集に「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」と詠われ、紫草は武蔵野の代表花に成っております、居宅が武蔵野にあり、あやかって上記の銘と致しました。宜しくお願いいたします。
「いまなぜ青山二郎なのか」白洲正子著はコメントされた方々の見識ある読後感に感銘致しております。
青山二郎は武原はんと結婚生活10年程で離婚しておりますが、今は故人となった武原はんの舞姿を思い出さずには居られません。日本女性の美しい姿、青山二郎が武原はんを造ったのか
または逆なのかは解りませんが「雪」の舞を思い出すことに往時が偲ばれます。
「花も雪も払えば清き袂かな、ほんに昔の昔の事よ。我が待つ人も我れを待ちけん、あし雄鳥に物思い羽の凍るふすまに鳴く音も、さぞなさなきだに心も遠き夜半の鐘、聞くもさびしき一人寝の枕に響く、霰の音ももしやと、いっそせきかねて、落ちる涙のつららより、つらき命は惜しからねども恋しき人は罪深く思わぬことの悲しさに、捨てた憂き棄てた浮世の山かずら」恋する思慕の思いに駆られて舞姿は、美しすぎる。
ぼんやりしていて、コメントいただいていたのに気づかず、ご挨拶が遅くなってしまいました。お許しください。
伊勢物語からのお名前とは、ゆかしくも美しい「紫のゆかり」ですね。江戸紫の色を思い浮かべています。
武原はんの舞姿は、映像でしか観たことがありませんが、一面のまっ白の世界に舞う姿は、見たものに忘れられない印象を残します。地唄の詞章もしみじみとして、まさに動く絵でした。
宋の磁州窯の持つ独特の乳白色の地肌に、のびやかに描かれた牡丹の花の気品を重ねて、均整の取れた高貴な姿に溜息して見とれていました。
青山二郎29歳、33歳で別れたのは、お互いに追い求める妥協のない美の世界が厳しすぎたからでしょうか。
武蔵野の季節の移ろい、折にふれてお伝えいただけると幸せです。
こちらこそ、よろしくお願いします。