雪月花 季節を感じて

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梅暦

2008年01月31日 | 季節を感じて ‥一期一会
 
 もうすぐ立春。春の戸を開けて外に飛び出し、体いっぱいに光を浴びたい気持ちになります。わが家はいま壁の塗装替えの最中で、足場を組んだ壁に薄い幕がかけられていて(時折、窓の外の足場を人影が横切ったりする‥)、終日家の中が薄暗いのですね。作業の済む二月末まで、これをがまんしなければなりません。ちらほら梅のたよりなども聞きますから、お天気のよい日は散歩がてら外へ出たほうがよさそうです。

 奈良にお住まいのしをんさんに、東大寺二月堂の「福壽豆」を送っていただきました。丁寧に梱包された小包には「若草山山焼き」の切手が数枚貼ってあり、春どなりの古都のようすが伝わります。
 二月堂では、二月三日に「節分」と「星祭り」が行われます。最近は人出が多く、豆まきの当日に「福壽豆」をいただくことがむつかしくなり、事前に販売されるようになったのだそうです。いまは同封されていた(しをんさんのお宅の庭の)月桂樹の葉とともに飾っていますが、三日になったら袋を開いて、豆まきをしながら春を呼ぶつもりです ^^ しをんさん、有難うございました。


 寒明け・立春をむかえる如月は、冬のさなかに春のきざしを探す月。「梅見月」ともいいますけれども、どの花にも先がけて春の訪れを知らせてくれるのが梅の花ですね。梅花を詠みこんだ雪月花の歌です。

 わがやどの梅の初花 昼は雪夜は月とも見えまがふかな
 (『後撰集』 よみ人知らず?)

 平安時代の代表的な薫香「六種の薫物(むくさのたきもの)」のひとつに、春の香「梅花」があります。『源氏物語』「梅枝(うめがえ)」の帖で、光源氏は、ひとり娘である明石の姫君が春宮(とうぐう)のもとに入内する折に持参させる薫物の調合を近しい女性たちに命じます。そして、「このころの風にたぐへむには、さらにこれにまさる匂ひあらじ」(今ごろの春風に薫らせるには、これほどふさわしい香りはありません)と絶賛された「梅花」を調合したのが、最愛の妻・紫の上でした。春まだ浅い六条院に、梅花の香がただよう‥ 紫の上にとって、それはのちに源氏が正妻として女三宮を迎えるまでの一瞬の春の夢でした。「梅花」は、はかない花の命を象徴するかのようにこの帖を流れてゆきます。

 花の香は散りにし枝にとまらねど うつらむ袖に浅くしめまや
 (『源氏物語』「梅枝」より)

 今年は『源氏物語』が書かれたことが確認できるときからちょうど千年となる「源氏物語千年紀」です。千年‥という時の流れと重みを思いつつ、久しぶりにお気に入りの梅花香を使ってみました。ふわりとひろがる香につつまれてしばし夢ごこち‥。かの日、華やかで当世風な梅の香に秘めた紫の上の気持ちとは、どんなものだったのでしょうか。


梅花香

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覚ます

2008年01月24日 | くらしの和
 
 23日は朝から雪になりました。
 さらさらと降り始めた雪が、やがてぼた雪となり冷たい雨となって、うすく雪化粧した街をところどころ土色に変えてゆくのを、こたつで縮みながら眺めていました。こんな日は、みかんと猫がほしくなります。

 古炬燵母の苦労を思ひけり (雪月花)

 雨になってしまう前にと、あわててダウンジャケットを羽織って中庭に飛び出し、綿ぼうしをのせた水仙の花を写真におさめました。思わぬ重荷に耐えかねて花はみなうつむいていて、花の下にカメラをまわりこませて撮影するのに苦労しました。雪の中にしばらくいますと、花の香、草木のにおい、雪のふる音、こぼれ落ちるしずくの音まで、五感があらゆるものをとらえるようになったようです。


 前回お話した「空」と「無」について、ささ舟さんからさらに詳しいお話をいただきました。とても分かりやすいので、そのまま次に載せますね。

 (『般若心経』に)「無」は21回、「空」は7回出てきます。
 この世のものはいつかなくなる。ゼロになります。これが「無」の状態。けれど何もないわけではない。一見何もないように見える空気の中に、目には見えないあらゆる元素がつまっています。このことを「空」といいます。「空」は打ち出の小槌みたいなもので、森羅万象を表し、「無」でも「空」なのです。つまり「空」は何でもあるという意味で、「空」を思えば、すべてが生まれてくると考えられるでしょう。(大栗道榮師の法話より)

 「空」からすべてが生まれる。そこに、“み仏の御はたらき”があるのかな、と思います。
 そこで、仏教について、もうすこし考えをすすめてみることにしました。


● 「ありのまま」
 いつのころからか、仏教のことを考え、仏語(仏教に関する言葉、み仏の教え)にふれるようになりました。主人の家は曹洞宗、実家は日蓮宗で、最近は禅の教えに惹かれていますが、とくに帰依したり信仰する宗派はありませんし、団体にも属していません。ただ、古典や和歌を学べば中国の漢詩・文献にゆきあたるように、日本人のこころについて考えを深めると仏教にたどりつく‥という、自然のなりゆきです。
 「宗教は信じない、頼るつもりはない」「神仏に帰依して救われたい、大願を成就したい」と聞きますけれども、(ほかの宗教はどうあれ)仏教は、信じる・頼る・すがるためにわざわざ意識するものではないようです。さまざま悩み、病に侵され、逆縁や不幸に襲われたとき、人はその苦しみを表情に出さず、耐え忍び、こころをなんとか落ち着かせようとするものですが、そういった行為こそが、そのまま仏の教えと結びつくように思えるのです。とすれば、誰もが日々仏教的体験をしている、といえるかもしれません。これは言いすぎでしょうか。

 禅の本などを読んでいますと、“意識”というものは仏の教えにそぐわないものだと気づきます。人は頭で考え意識して物事に取り組みますが、その意識があるばかりに煩悩に悩まされるというのですね。このことは分かります。幸せになりたい、ゆたかになりたいと願うばかりに、不幸であること、お金が無いことをつらく思うわけですから。では、次のように換言します。「幸せになりたい、ゆたかになりたいと願わなければ、つらい思いをしない」‥つまり、何も求めない、現状を受けとめる。これが仏教のいう「ありのまま」「知足」ということのようです。


● 即心是仏
 ところが、その「ありのまま」がむつかしい。仏教では、そのことを「水に月が宿るように」といっていますが、水に月が宿るのはどんなときかを考えれば、たやすいことではないと分かります。月の姿をそのまま映すには、水面は鏡のようでなくてはなりません。わずかでも風がたてばさざなみが広がり、月の姿はゆがんでしまうからです。2500年前に、この世で初めてこころの状態をつねに鏡のように保つことができたのが、仏陀でしょうか。
 仏陀を「覚者」といい、真理を体得した人といいます。真理とはまさに「ありのまま」をいうのだと思いますが、この世は真理であふれているのに、わたしたちは煩悩にふりまわされているため、こころはいつもゆれていて真理を映すことができません。では、「ありのまま」受けとめるにはどうしたらよいか。

 ここで、仏陀を表す「覚者」の「覚」ということに注目します。「覚ます(醒ます)」は、辞書に「眠っている状態から意識のはっきりした状態にもどす」とあるのですが、ここではちょっとちがう。「頭のはたらき(意識)を抑えて、眠っている五感を覚ます」といいましょうか。わたしたちが、忙しいときにふと手を休めて目を閉じたり、空を仰いで背伸びをしたり、焦る気持ちを抑えて深呼吸をしてみたり‥そうしたときに、ふとよみがえる感覚のようなもの。日の光、雨のにおい、ここちよい風を感じて気分がさっぱりしたり、呼吸をととのえて落ち着きを取りもどす。そうすることで、忙しい社会に生きるわたしたちはなんとかバランスを保ち、正しく生きていけるような気がします。ですから、もしこの「覚ます」という行為をもうすこしうまくできるようになったら、あらゆる事態にも冷静に向き合え、いまよりも安らかにくらせるのではないかしら。

 月を月ととらえるのは、自分自身のこころであって、それ以外のものによるのではない。仏の智慧とは、そんな卑近なことなのかもしれません。


 先日、「インターネットテレビ ともいき」というサイトを見つけまして、時折見ています。見るだけでなく、目を閉じて耳をすませたり、感じるものをつかもうとします。考えることはしません。といって、受け身でなく、五感を覚ますことに努めることがたいせつ。これは、自然を離れて都市にくらす者の哀しさではありますけれども‥。映像も音もきれいなので、ご興味がありましたらみなさまもアクセスしてみてくださいね。そのときは、パソコンの音声を「ON」にするのをお忘れなく。みなさまのこころに、月が宿りますように。

 【インターネットテレビ ともいき】
 ● ともいき 二十四節気日本
 ● ともいき 二十四節気・定点観測
 ● ともいき かえで二十四節気日本
 ● ともいき 雪月花

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書初めは『般若心経』

2008年01月17日 | くらしの和
 
 まもなく大寒の候。厳しい寒さのつづく東京に、昨夜初雪が舞いました。はかないもので、今朝はもう雪のあとなど微塵もないのですけど、今日のような雪もよいの日は冬ごもりときめて、午前のうちに家の片づけを済ませ、午後は温かなお茶をいれて読みかけの本を開いたりしながらすごします。


 昨年の奈良旅行では、奈良筆と奈良墨のお店をのぞくのが楽しみでした。筆もお墨も足りていて購入しなかったのですが、奈良らしくどのお店にも写経用紙が置かれていたのが気になって、帰京後に取り寄せました。書初めに『般若心経』を写経して、九州旅行の折に太宰府天満宮に納経するつもりでお願いごとをひとつ書き添えました。ただし、写経はその行為に対する結果を期待するもの(因果律)ではなく、写経そのものが功徳(因果一如)ですから、写経をさせていただくという感謝の気持ちと、経典の文字や意味にふれながら書写する行為そのものを楽しむこと(遊戯 ゆげ)が大事なのですね。

 写経の前に、塗香(ずこう)で身を浄めます。(写真左の塗香は、京都にお住まいのささ舟さんからいただいたものです。塗香がない場合は、好きなお香をくゆらせれば、清々しい気持ちで写経に向かえます) 直径5cmほどの桜材の塗香入れは金襴の袋に入れて携帯し、寺社をおとなう際にも用います。お数珠(これは婚前に母がくれたもの)を両手に掛けて合掌し、左手首に掛けます。筆をとり、無理のない自然な姿勢で写経を始めます‥


 釈迦の死後五百年ごろに大乗仏教が興り、出家者だけでなく在家の人々にも仏の教えを弘通するため、写経はさかんに行われました。この国では奈良時代に国家事業として始まりますが、印刷技術の発達後は庶民の信仰や趣味の対象となって普及し、現代まで続いています。
 『般若心経』では、観自在菩薩が弟子の舎利子に仏の智慧を説きます。「舎利子よ。存在とは空であり、空は存在にほかならない。存在すなわち空であり、空すなわち存在である。感じたり、知識を得たり、欲したり、判断するこころのはたらきもまた空である」と。大乗仏教の根本である「空」の思想を説いた経典『大般若経』はなんと六百巻、約500万字にのぼる長い経典ですが、その真髄をわずか262字に凝縮したのが『般若心経』です。すべての事物は「空」であると照見することによって、いっさいの苦厄から救われるといいます。『般若心経』が「空」と「無」の教えであるといわれる由縁です。実際に数えてみましたところ、262字のうち「空」の字が7つ、「無(无)」が21ありまして、このふたつの文字が全文の一割以上を占めるのですね。
 ここで思い出すのは、かつて達磨大師が、こころの悩みを取り去りたいと願う高弟の慧可(えか)に「それでは、お前のこころを見せてみよ」と言い、慧可が「どこにもありません」と答えたところ、大師が「お前の悩みを取り去った」と言ったと伝わるお話。無を知れば迷いは消える、ということでしょうか。このエピソードにも、「空」の思想が表れているような気がします。


 み仏の智慧とは、尊くて、凡人のわたしにはあまりに遠いものです。でも、筆先に意識を傾けて写経をしながら、こころが安まってゆくのは有難いことです。これは、もしかすると坐禅をすることと同じなのではないかしら。
 祖母が生前毎朝欠かさず仏前に正座し、お数珠を手に掛け、目を閉じて誦経していた姿を思い出します。「掲諦掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆呵 般若心経(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか はんにゃしんぎょう)」。み仏の智慧の真言をこころの中で唱えながら、写経をつづけます。敷き写しに慣れたら、臨書(お手本を脇に置いて見ながら書く方法)に切り替えるつもりです。

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※ 写経の手引書『はじめての写経 般若心経を書く』(日本放送出版協会)を
  さくら書房 で紹介しています。

 

美を語る

2008年01月09日 | 雪月花のつぼ ‥美との邂逅
 
 松がとれて、朝の五時すぎに起床して主人のお弁当をつくることから始まる日常にもどりました。この冬は、朝の冷えこみのきつい日がすくないのでずいぶん楽です。朝のニュースが、四国や関西で例年より数十日も早く梅やたんぽぽが開花したことを伝えていました。年明けていち早く蝋梅が咲きますと、厳寒にも春の訪れを約束してくれるような気がするものですけど、このまま温暖化がすすめば、春を待つ楽しみはなくなってしまいそうです。


 二年前のことでしたか、「夏の在処」というすてきなタイトルのブログに出逢いました。色味を抑えたテンプレートがとてもシックだったことと、記事は文字だけで画像はいっさい無いのが印象的でした。ブログの管理者は女性のKさん。縁あって数回だけコメント欄でお話をする機会があったのですが、しばらくしてKさんは体調を崩され、記事の更新も滞っていたので、「どうしたのかしら」と見守っているうちに、突然そのブログが消えてなくなってしまいました。以来、思い出すたびに「夏の在処」を検索してみるのですけど、見つかりません。Kさん、どうしていらっしゃるのでしょうか。
 そんな、わずかなおつきあいだったにもかかわらず、いまも忘れられないでいるのは、ブログにうかがうたびに、そこに綴られたKさんの無駄のない簡潔な文章に、まるで金しばりにあったように惹きつけられたから。いえ、二年前にそこに書かれていた文章を覚えているわけはなく、正直忘れてしまっているのだから、文章‥というより、Kさんの感性に惹かれていたのでしょう。その感性は、まったくわたしの憧れであり、またわたしが努力してもおそらく得られない純粋で貴いものだったために、文章は忘れてしまっても、こころのどこか奥深くにその輝きが失われずに残っているのです。そのことを、とても不思議に思います。

 朝日新聞の水曜の夕刊に載る「彩・美・風」というコラムを欠かさず読んでいます。各界で活躍する著名人が一ヶ月にわたって「美」について語るというもので、昨年十月の担当は女優の中谷美紀さんでした。ミキティ(中谷さんの愛称)は女優業だけでなく“物書き”としてもよく知られた方とか。(主人はとっくに知っていて、彼女の本をすでに数冊読んでいるらしい) ミキティのコラムを読みましたとき、どういうわけか、久しぶりにKさんに再会したような、とっても高揚した気分になりましたのです。自分の得た感動を、こんなに素直に語り、伝えることができたら‥と、つくづく思わずにいられない簡潔な文章、こころにまっすぐに届く言の葉。日本の美に関心のある方にはぜひ読んでいただきたいお話ばかりなので、次にご紹介するリンク先にアクセスして読んでみてくださいね。

 中谷美紀さんの「彩・美・風」
 ・「大樋焼きと『美即用』の心
 ・「心を映し 神宿る花
 ・「手漉きの紙に託した信念
 ・「抑えた表現、栗の絵に学ぶ
 ・「たどり着いた作品は『自然』

 ─いかがでしたか。「彩・美・風」のバックナンバーで、ミキティ以外の方々のコラムと読み比べますと、ミキティの文章は何かがちがう‥とつよく感じるのです。

 ミキティとKさんの文章にかぎりなく相通じるものを見出したわたしは、とても興奮していました。言葉で、美を語ることはできるのだ‥ そう思えたとき、言葉という、目に見えない、不安定でいかにも怪しげなものに“信頼”が生まれましたのです。まっすぐで、澄んでいて、思いのこもった言葉には、人のこころを動かす何かがある。むかしの人がたいせつにした「言霊(ことだま)」というものを、あらためて考えさせられた貴重な体験でした。


 あらゆるブログやホームページを見るとき、あるいは自分もブロガーのひとりとして、(わたし自身を含めて)書く側も読む側も、画像や大げさな表現に頼りすぎていないだろうかといつも自分に問いかけます。画像などに多くのことをゆだねてしまって、たいせつな自分の言葉を失っていないだろうかと。Kさんのブログに出逢ってからというもの、画像に頼らず、信頼に足る言葉で綴るブログをめざしたいという願いがつよくなりました。Kさんやミキティのようにはゆかなくても、不特定多数の人に向けた言葉というものをつねに意識しつつ、今後も書いてゆきたいと思うのです。

 Kさんがお元気でいてくださったら─ いつかまたブログを再開してくださいね。

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新年のごあいさつ

2008年01月01日 | 筆すさび ‥俳画
 

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