先週末、例の「花ごろも」の小紋で主人と世田谷美術館を訪ね、特別展「~みちのくの浄土~ 平泉」を鑑賞しました。「さくら祭」当日の砧公園でしたが、肝心の桜はちらほら咲きで、美術館への道中、北風にあおられほろほろと落ちるやぶ椿の紅がわたしには気にかかるのでした。
平安後期、平泉浄土を荘厳した名宝の数々は、黄金色に輝き、京の都や鎌倉殿から遠く離れた辺境の地とはとうてい思われない豪華さと、それを支えた確かな技術にただ関心しながら眺めていましたところ、ふと背後からご婦人に「すてきなお召しもの‥」と声をかけていただきました。ふり返りますと、声の主は藤色のスーツ姿に手入れのゆきとどいた白髪の美しい老婦人です。目が合うと「おきもの‥ すてきね」とふたたび褒めてくださいました。
着姿に自信がなく、やっとのおもいで「有難うございます」と申し上げたのですが、しきりにお話をされたいごようすなので、「あの‥」と問いかけると同時にご婦人のほうから、自分は(椿と桜の花道家で、三年前の三月に亡くなられた)安達瞳子さんの古い友人で、わたしのきものの好みや背丈がちょうど「瞳子さんに似ていらしたものですから。ずっと気になって後を追っていましたの」とおっしゃるのでした。
「瞳子さんが、瞳子さんが、ここへいらしたんだわ、とおもいましたの」とご婦人。もちろん、わたし自身はあの美しい花道家になどすこしも似ていません。ですが、三年前の三月、「椿物語」と題して安達瞳子氏への追悼文を綴ったことは忘れるべくもなく、折しも椿の花の季節の、この唐突な出会いはけして偶然ではない、いとしい椿と、安達先生のお導きにちがいない‥という熱い思いがこみ上げてきたのでした。でも、館内で大きな声は立てられません。なんとかして、その興奮と感激をご婦人に伝えたいというわたしのきもちは、空まわりするばかりでした。
ご婦人は安達先生と二十歳のころからのおつきあいで、しばしば(当時「椿の家」と呼ばれていた)安達家に遊びにゆかれ、「お庭は椿でいっぱい。お二階へ通されてね、瞳子さんの生け花を見るのが楽しみでした。彼女はね、できるだけ切らない生け花をしましたのよ。どうしても切らねばならない枝には、『ごめんなさいね』と謝って切るの。三十のとき、家を飛び出してからは吉野の桜をすべて見てまわってね。彼女は、あの桜をそのまま生け花に表現したかったのね‥」と、お話は尽きそうにありませんでした。もしあのとき、係員の女性が「ほかのお客さまがいらっしゃるので‥」と、彼女を制することがなかったなら‥。
きものにも、相当の思い入れがおありでした。幼いころから和裁を習い、草履で歩くことが不自由になるお年まで和装でいらしたとか。係員の目を避けながら「きものをつくるたくさんの人たちに感謝してね。どうぞどうぞ、四季折々のおきものを存分に楽しんでください」と、念を押すように二度おっしゃり、その後するりとわたしから離れてゆかれたのでした。
名残惜しく、姿を追いましたものの、どういうわけか、もうお目にかかることはありませんでした。‥‥‥
きものをゆたかに楽しむ秘訣は、きものに物語をつくること。
そう教えていただいたのは、つい最近のこと。
「瞳子さんの、椿の花のきものは忘れません」
わたしの花ごろもも、桜でなく椿です‥と、伝えたいきもちでいっぱいです。