雪月花 季節を感じて

2005年~2019年
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夏鮎

2006年06月30日 | うす匂い ‥水彩画
 
 雨とモーツァルトをききながら、ぼんやり窓の外をながめていましたら、いつのまにか一年の半分がすぎていました。この半年の間、わたしは何をしていたかしら。みなさまは、いかがですか。

 陰暦六月晦日は夏越の祓(なごしのはらえ)です。
 この日、京都では氷室の氷を象った三角形の「水無月」という外郎製のお菓子を食すそうですが、わが家は先日のおやつに「夏鮎」をいただきました。どらやきのようなうすい皮に求肥(ぎゅうひ)をはさんだ夏の和菓子です。お店によってすこしずつ意匠がちがうようですが、基本は上の絵のかたちで、中は餡でなくやはり求肥ですね。頭から食べるのはちょっとかわいそう。でも、淡い甘みと求肥のもちもち感がたまりません ^^


 ふるさとの川に鮎が遡上します。「清流の貴婦人」の異名をもつ鮎。50~70cmのジャンプ力でちいさな堰を飛び越えて、秒速1~1.5メートルの速さで川上をめざします。産卵の時期を迎えて落ち鮎、錆鮎(さびあゆ)となるまで、天敵(わたしたち人間?)に捕えられてしまう危険をいくどもすりぬけながら‥

 松浦川(まつらがわ)川の瀬早み くれなゐの裳の裾濡れて鮎か釣るらむ
 (『万葉集』 作者不詳)
 松浦川の流れは早くて、娘たちは紅の裾を濡らしながら鮎を釣っているだろうか

 紅の裾が濡れることもかまわず釣りをする娘たちの健康な笑顔と姿が、銀色に光る背を見せて早瀬を遡上してゆく香魚の勢いのよさと重なります。水面をわたる風が涼しそう。夏越の禊(なごしのみそぎ)にふさわしい季節の歌でしょうか。


 鮎は、夏の膳の楽しみのひとつでもあります。京都の料理屋さんで、天然の鮎の、カリッと焼き上がった塩焼きを頭からそのままいただいたことがありますが、ほんとうにおいしかった。忘れられない夏の味です。

 鮎季(あゆどき)の山の重なる京都かな (長谷川 櫂)

 まもなく本格的な夏を迎えます。鮎もよいけれど、鱧(はも)も食べたい‥
 
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とれたて野菜のおかず

2006年06月26日 | 季節の膳 ‥旬をいただく
 
 義父母の畑から、朝とれの野菜たちが大集合です。
 ひと月ごとに北関東の義父母の家に出かけていますが、毎回畑の収穫を山ほどお土産に持たせてくれるので、その翌日から毎晩の食卓にのせています。

 流水で土をきれいに落としてやると、どれもみずみずしくて色もとっても鮮やか。「旬の素材を食すには、距離と時間は短いほどよい」の法則に従って、このまますぐに調理するのが理想だけれど、食べ盛りの子どものないわたしたち夫婦だけではそうもゆきません。いただいた量の半分は実家に届けました。


 辛味噌の香に立ち初めぬ焼茄子(やきなすび) (石塚友二)

 真竹と、なす、きゅうり、いんげん、ピーマン、じゃがいもなどの夏野菜+だいこんとかぶです。旬のものより小ぶりでかわいいだいこんは、ちくわ、干しえびといっしょに煮込み、おだしを十分に含ませてうま煮に。なすとピーマンは、色どりを整えるためににんじんを加えて鍋しぎにし、アツアツをいただきました。真竹といんげんは前回好評だった混ぜご飯にして、かぶは鶏だんごといっしょにくず煮にすると味がよくしみて美味。じゃがいもは残った真竹と天ぷらにして、サクサクサク、と歯ごたえを楽しみました ^^ じゃがいもはまだたくさん残っているけれど、りんごと一緒に保存しておけば発芽を抑えてくれます。

 このところ蒸し暑い日が続くので、根菜類も油断しないでどんどん使うよう工夫しながら、毎夕の献立を考えるのが楽しみです。いま店頭にならぶ野菜の値が不安定ですから、家計も助かっています。
 お義父さん、お義母さん、いつも有難うございます。お野菜をたっぷりとって、じめじめの梅雨と蒸し暑~い夏を乗り切ります!
 
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父からのエアメール

2006年06月22日 | たまゆら ‥日々是好日(随筆)
 
 命日に 父に捧ぐ
 
 家を建替えるというので、置いたままになっていた品々を片付けるために久しぶりに実家を訪れた。そのとき母から「懐かしいものが出てきたのよ」と渡されたのが、古ぼけて色褪せた小さな紙袋に入っていた十数通のエアメールだった。みなセピア色に変色して大きさもまちまちで、ところどころ破れかけている。いくつかは外国の珍しい切手でも貼ってあったのか、無理やり剥がしたとみえて、その跡がうす汚れて無残だ。建替えの間は近くの借家に仮住まいをするため、荷造りをしていたら、家具と部屋の壁の隙間に落ちていたこの紙袋を見つけたらしい。それは、わたしがまだ幼な子で、弟が母のお腹の中にいたころ、会社の研修旅行で長期にわたりアメリカを旅していた父から、母とわたしに宛てたエアメールの束だった。

 高校の入学試験が控えていて、そろそろ本腰を入れて受験勉強を始めなければならなかった歳の夏。雨の季節特有の重苦しい鈍色の雲が空を覆っていた日の早朝に、その電話は鳴った。電話と母に起こされたわたしと弟は、身支度もそこそこに自宅からそう離れていない病院の一室に駆けつけた。が、すでに病室の壁もベッドも傍らの椅子も父を覆う布団も、一切が白く空しくなっていて、そこには痩せて穏やかな顔をした父が静かに横たえ、まだいくらか生気の残るくぼんだ目は、もう二度と開くことはなかった。父の母が泣きながら「こんなことになるなら生まなければよかった」と言った言葉に、わたしは何故かとても腹が立って、余計に悲しくなって泣いた。父はわたしに多くのものを遺して逝ったが、わたしはそんなことに少しも気づかずに、連れ合いを亡くした母の気持ちさえ理解しようとしないまま、病床の父に対して思いやりのなかった自分のことばかり悔いていた。

 エアメールを消印の日付順に並べると、父はほとんど毎日のように、訪れた街の様子やその地の出来事をこと細かに絵葉書に書いている。よく見ると、ひとつ書いて投函し、その後すぐに、別の地へ移る飛行機の中で新たにしたためたものなどもあって、父が筆まめであったことに驚く。ちょっと神経質そうな父の手をこんなにじっくりと眺めるのも、初めてのことかもしれない。それにしても、身重の母と祖父母に預けたわたしのことなどすっかり忘れたような楽しげな文面だ。

 「明日はバスで2晩ニューヨークへ行きます。
  道で日本娘の可愛い子に逢って色々話しました」

 「各都市の電気業者の内容は合理化されている点のみ素晴らしい。
  技術は日本の方が上」

 「今夕日本料理店でさしみと茶ワンむしの日本食を食べ、
  ブロードウェイを歩いてきました」

 「昨夜(サンフラン)シスコ名物の路面電車に乗り、
  終点で方向転換の時、電車を客が押して廻します。
  僕も手伝って押してやりました。愉快な電車です!!」

 「ホノルル迄の飛行機の中で書いています。眼下に太平洋。
  アメリカ大陸を離れました。天候は晴。空と海のブルー」

けれども、ほとんどの手紙の末尾には、出産を間近に控えた母と幼いわたしへの気遣いのひとことが添えられている。

 「君は元気か。K子(わたしの名)は? 体を大事に」

 母に言わせれば「半分はお遊びの旅行だったのよ」ということになるが、母が弟を無事に出産した日と同じ日付の消印の葉書には、偶然にも「この手紙が着く頃出産かな」と書かれていたりするのを見ると、当時の父母の仲睦まじさが不意に伝わってきて、ちょっと感動する。

 三十路を迎えたころから、何かの拍子に父の残してくれたものに気づくようになった。読書をしているときには読書好きだった父の言葉を、カフェに流れる古き良きハリウッド映画のテーマ音楽を耳にするときは、映画好きだった父がすすめてくれた映画のワンシーンを。母は「お母さん」なのに、父のことは「パパ」と呼んでいたわたしは、母がしばしば父を叱るほど父に甘やかされて育ったのだった。

 今ごろになってどうしてこのようなエアメールがわたしのもとに届いたのだろう。もしかすると父は、家族四人で暮らしたこの小さな家が、まもなく他人の手で壊されて消えてゆくのが耐えられなくて、こんな手段を使って意見してきたのだろうか。そういえば、母がわたしに荷物を取りに来なさいと電話をしてきたのは、父の命日から数えていくらもたっていない雨の週末だった。


 パパへ。
 わたしは元気に暮らしています。ようやくあなたの深い愛情に気づいた親不孝なわたしです。いつかわたしがあなたのそばに行ったら、あなたの好きな本や映画の話をゆっくりしましょう。そして、いずれまた家族四人がそろうときがくるでしょう。

 そんな日が来るのを楽しみに思った夏のひと日の昼下がりだった。
  
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和菓子の日

2006年06月15日 | 季節の膳 ‥旬をいただく
 
 二日前の早朝、ほととぎすの声を聞きました。紫陽花が輝き、未央柳はほろほろと黄の花弁を散らし、足もとの蛍袋は露をのせてうつむいています。これから東海から西の地方は降雨量が多くなりそうですね。お気をつけておすごしくださいますよう。

 
 六月十六日は和菓子の日です。
 平安時代(848年頃)に疫病が蔓延しました。時の帝、仁明天皇が元号を「嘉祥」と改め、六月十六日に日にちと同じ数の十六個の菓子と餅を神に供え、疫病除け、健康招福を祈り、それを食しました。これを「嘉祥喰(かじょうぐい)」といいました。時を経て、室町時代には年中行事として同日に行われるようになり、さらにくだって江戸時代には、朝廷や公家の屋敷で祝宴が催され、また庶民の間では、この日に十六文で十六個の菓子を買い求めて食べたそうです。この「嘉祥祭」にちなんで、昭和五十四年(1979年)に全国和菓子協会が六月十六日を和菓子の日と定めました。

 「厄除招福」
 今年も和菓子の老舗・とらやさんに、写真の嘉祥饅頭(かじょうまんじゅう)を予約しておきました。とらやさんが東京の日枝神社でお祓いをした「厄除招福」のお札付きです。桃色の薯蕷饅頭には「招福」、黄の新饅には「嘉定通宝(※)」、茶の利休饅には和菓子協会のマークが焼印されています。
 みなさまも、この日にお近くの和菓子店をのぞいてみてください。たいていこんな形のお饅頭があるでしょう。以前は五色(青、朱、白、黒、黄。中国の五行思想につながっている)あったのですが、とらやさんでは数年前から三色のものしか扱わなくなってしまいました。残念です。

 四季折々の美しい情景を映した和菓子の姿、雅びな菓銘、ほのかな香、手にしたときのふうわり、やわらかな感触とまろやかな味わい。和菓子は、この国の歴史や伝統をいまに伝える五感の総合芸術ですね。


 それでは、みなさまのご健康とご多幸をお祈りしつつ、自然の恵みに感謝して─
 「いただきまぁす」 ^^


※ 「定(祥)宝」の「嘉通」が「勝つ」につながるので縁起が良いそうです。
  とらやさんの嘉祥菓子のページは こちら です。
 
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ブラジリエの青

2006年06月08日 | 雪月花のつぼ ‥美との邂逅
 
 青水無月の風光に響き合う美しい絵画のお話です。
 アンドレ・ブラジリエ(1929年~)というフランスの画家がいます。この画家の絵との出合いはいつだったのか、もう忘れてしまったけれど、ずいぶん前から好んで鑑賞しています。
 特徴はご覧のとおり、大胆な構図にやわらかなフォルム、鮮やかなブルーとグリーン、草原の風を感じる詩的な作風です。題材は馬(あるいは乗馬)、音楽、そして奥さまのシャンタル夫人を描いたものが多く、わたしは馬と夫人を描いた絵が好きです。

 現在、東京郊外の美術館にてこのブラジリエ展が開催されており、招待券をいただいて出かけたところ、うれしい発見がありました。故・東山魁夷画伯(1908~1999年)が、生前にこの画家と親交があったというのです。画伯のほうがブラジリエの構図と色に感銘を受け、それからふたりは親しくつきあうようになったようです。そういえば、ブラジリエのブルーとグリーンを通りぬけると、画伯の絵の青と緑に容易にたどりつくではありませんか。タッチや色調は異なるにもかかわらず‥ です。

 若い時分に西洋の絵画を学ぶべくドイツとオーストリアに留学した画伯は、晩年に夫人とふたりでふたたびその地を訪れます。また、画伯はモーツァルトの音楽をこよなく愛しました。64歳の一年間に作成された18枚の連作「白い馬の見える風景」(※)には、中欧の神秘的な湖や森が美しい天上の音楽を奏でるように描かれています。大自然の中を自由に駆ける白馬の姿─ それはきっと、モーツァルトの音楽、そしてブラジリエの絵との出合いがすくなからず影響しているにちがいない。‥

 フランスと日本の画壇を代表するふたりの画家の間に育まれた友情と幸福に、思いをはせています。


※ 東山魁夷の白馬の連作については下記が詳しいのでご覧ください。
  ブラジリエの「川面に映る馬」(当記事上の絵)と画伯の「水辺の朝」を
  あわせて見ると、ブラジリエとの交流が想像されます。
  → 美の巨人たち 「白い馬の見える風景」

 
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ゆきあふ雨色

2006年06月01日 | 季節を感じて ‥一期一会
 
 紫陽草や帷子時の薄浅黄
 (あじさいやかたびらどきのうすあさぎ 松尾芭蕉)

 日本の雨の季節をいろどる紫陽花。「七変化」ともよばれて、その蕾を薄緑、淡黄、白と色を変えつつ成長させ、雨にうたれて浅黄、藍、瑠璃色に染まってゆきます。一方、帷子は、生絹や麻布で仕立てた夏用の単衣(ひとえ)のきもので、「端午より九月朔日に至るまでこれを着る。端午には浅葱色を用ひ、七夕、八朔(=旧暦の八月一日)には白帷子を用ふ。近代士庶人の通例なり」(『和漢三才図会』より)とあるように、青から薄青、さらに白へと、時とともに色を浅くしていったそうです。
 すると、どうでしょう。紫陽花は薄浅葱から瑠璃色へ、帷子は青から浅葱を経て白へ‥

 両者の色がたがいにすれ違いながら同色に出会う時期は、
 これはほんの短い期間のことだろう。陰暦五月、そのつかの間の
 時空を薄い浅葱色に染める印象を、芭蕉は言っている。そこに、
 片や深まってゆく色の、片や浅くなってゆく色の行方を見守っている
 ところが甚だしゃれていて、これは、春の桜狩は端山から奥山へ、
 秋の紅葉狩りは奥山から端山へと必ず考えた日本人の
 伝統的美意識にかなっている。

 (安東次男著 『蕉風俳諧の色』より)

 花ときものの色のゆきかう交差点で、芭蕉の句は詠まれました。梅雨のうっとうしさをひととき忘れさせてくれる涼しげな趣のある句ですが、人が帷子を着る時節に、紫陽花が帷子の色と同じく薄浅葱色(淡青色)の花を咲かせている─ と受けとめるだけでは、一時の色しか見えてこないのです。

 『奥の細道』の冒頭で、「月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也」と、ゆく年とくる年を「行かふ」と表現した俳諧師・芭蕉の非凡さを、『蕉風俳諧の色』の著者・安東氏はこの句をかりて鋭く指摘します。いま、わたしたちは帷子とともに、何か大切なものを失ってしまったのかもしれません。


 「SAMURAI BLUE 2006」とペインティングされた旅客機に乗り、フランクフルト経由で日本 ─ オーストリアを往復しました。日本はこれから秋の白風の吹くまで、ジャパン・ブルーに染まるでしょう。紫陽花は日ごとに花のまりを大きくしながら、雨のふりそそぐのを待っています。


 参考文献/ 大岡信編 『日本の色』 朝日選書139


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