雪月花 季節を感じて

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春愁 千鳥ヶ淵

2006年03月31日 | 季節を感じて ‥一期一会
 
 花見ればそのいはれとはなけれども こころのうちぞ苦しかりける
 (『山家集』 西行)

春の花は一瞬である
いっせいに花ひらき いっせいに散ってゆく
西行の哀切が しみてくる


桜花爛漫の千鳥ヶ淵
人波にただようて ふと
花のもとでは みな行儀がよいと気づく
話し声をたてるひとも 花盗人もいない
ふせ目がちに歩き しずかに花を愛でている

ひとは 美しいものにふれるとき
無意識なのだろうが
美にひざまずくような 敬虔な気持ちになるのかもしれない
それとも もうふたたび
この花に会うことはないと知っていて
ひそやかに 花と交感しているのだろうか

 やすらい花や
 ゆっくり咲けよ 散りいそぐな‥

一花さえ散らぬ今を惜しむ逍遥に
待ちわびた花への思いが いつしか
鎮花の祈りへと 変わってゆく

 花ざかり梢をさそふ風なくて のどかに散らす春にあはばや
 (同)


毎春 千鳥ヶ淵の桜と美を競い合う美術館を訪う(※)
石田武の千鳥ヶ淵の桜(写真上)
古径の清姫入相桜
土牛の極美 醍醐の桜
明治の朝陽桜
大観の春暁に匂う山桜
御舟、一穂、又造、千住博、春草‥ 宵闇に浮かぶ桜
魁夷の深山に咲きしずもれる桜
松園の桜狩り
深水の郭(くるわ)に咲く桜
 ・
 ・
桜花の美を留めて
描かれているのは みな画家の春愁と祈りだ


ここは桜の開花がニュースになる国
今年もまた季節が変わらずめぐってゆくことに
この上ない幸せを感じている

いのち、を感じて
生きている

 さくら花 いのち一ぱいに咲くからに
             生命(いのち)をかけてわが眺めたり

 (『浴身』 岡本かの子)

 春ごとに花のさかりはありなめど
               あひ見むことは いのちなりけり

 (『古今集』 よみ人知らず)


山種美術館の「桜さくらサクラ 2006」展は 5月7日 までです。
 
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椿物語

2006年03月24日 | 雪月花のつぼ ‥美との邂逅
 
 「椿に育てられ、桜を課題とし、竹に支えられて今日あります」と語った花道家が亡くなって二週間がすぎた。椿への長い長い旅路に終止符が打たれたのは平成十八年三月十日午前七時八分。奇しくも、わたしが椿の「散華」の記事をアップロードした日時と重なった。このことがどうしても偶然とは思われず、惜しまれつつあまりにも早く散った花に誘われるように、近くの小高い山懐にある椿苑まで車を走らせた。平日の公苑は人影もなく、去りゆく季節と来るべき季節のゆきかう空のもと、わが世の春とばかりに咲き誇る薄桃色の花をいっぱいにつけた有楽椿の木がわたしを迎えてくれた。その先には公営のフォト・サロンがあり、毎年この時期に椿の花と写真を展示している。わたしは有楽椿のそばを軽く会釈して通りすぎ、そのちいさな写真館に入った。
 手狭な会場に陳列された椿の花は、いったい何種類あったろうか。大輪のもの、筒咲きのもの、一重の八重の、絞りや斑入り、有香のもの、絵巻や屏風に描かれたものまで、まさに椿の百花繚乱。まだ訪れる人より会場を運営している裏方の人たちのほうが多い午前中だったにもかかわらず、会場は華やいでいた。ひとつひとつの花と語らい、笑みを交わすうち、いつしかわたしは花追人になったようだった。展示をひとまわりしたころ、ふと時間を持て余しているらしい人たちの話し声が聞こえてきた。話題はどうやらあの花道家のことらしく、いけばなに添えられていた江戸期の『百椿図』の写を見ているふりをしつつ話に耳を傾けているうちに、とうとう「ねぇ、あなた」と声をかけられてしまった。花道家から直接花芸の手ほどきを受け、名に花道家の一字をもらっていた女性だった。

   

 昭和二十二年、花道家の父が家族と焼跡の銀座を歩いていて、通りすがりの骨董屋で偶然見つけた『百椿図』の写本から、花道家の椿への旅が始まった。

 巨勢山(こせやま)のつらつら椿
             つらつらに見つつ思(しの)はな巨勢の春野を

 (『万葉集』 坂門人足)

 日本は(北海道を除いて)太古から全土が椿に覆われた国だったというから、古歌に詠われたのはこの国の原風景といえる。花は原種の薮椿である。室町のころは茶花として育てられた“京椿”の時代、江戸期になると将軍家が愛好し奨励したこともあって、桜花を駆逐するほどの勢いで庶民にまで園芸ブームが広まり、この“江戸椿”の時代に椿は文化となった。いまでは亜種を含めると6,000種あるという。
 『百椿図』の原図を見ぬまま昭和四十四年に花道家の父は逝き、娘が遺志を継ぐことになる。のちに原本(伝 狩野山楽筆 『百椿図』、1663年頃)は旧家から東京青山の根津美術館に寄贈されていたことが分かり、ついに江戸時代前期、三百数十年前の椿物語がひもとかれることとなる。
 「桜が精神文化を語るとすれば、椿は生活文化を誇り続けている」という花道家の言葉どおり、『百椿図』には、茶碗や竹で編んだ籠などの生活道具への花あしらいや、三方や水指、扇などに添えたり懐紙に包んでみたりという楽しみ方が、ひとつひとつ、皇族や僧侶、武士、当時の文化人の賛を添えて紹介されており、なんとも雅びな絵巻物となっている。これはまた、このころの世の中がいかに平和であったかを物語っている。そして平成十五年、花道家は養女とともに、この『百椿図』をもとにした花芸作品を披露して「椿物語展」を展開し、歴史に育まれ多様な文化を形成してきた椿を顕彰したのである。

 日本を北限にアジアからはじまり、十七世紀以降にポルトガルやイギリスに渡って、十九世紀にはアレクサンドル・デュマ・フィスのオペラ『椿姫』が欧州を風靡する。アメリカにいたって椿ブームに拍車がかかり、西へ西へと伸びていった椿ロードは四百年の歳月を経て戦後の日本に帰ってきた。いまでは世界中に「国際ツバキ協会」が誕生しているという。欧米人の好む華麗な大輪咲きも、そのほとんどが日本の薮椿を母にもっている。そのせいか、日本人はどうしてもこの退紅色で一重咲きの花から逃れられないようである。もちろんわたしも例外ではない。しかし、と花道家は言う。「華麗に変身した洋種椿にも目を開く時が来ています。400年前海を渡り、地球をひと廻りした『カメリア・ロード椿の道』を振り返る今、日本文化の主体性が世界的な評価を持つに到る民族の自覚を問われている気がしてならないからです」。

   

 「先生は完璧主義の方でした。たくさんの花の中からよい花を数本だけ、選んでゆくような。 ‥いけばなの各流派とは目指すものが違うからと言って交わることもなく、最後までご自分の流儀を貫かれました。それをわたしたちが守ってゆかなくては。 ‥先生は豪華な八重咲きよりも、一重の清楚な花を好まれました」。椿展の会場でうかがった偉大な花道家の人柄は、薮蔭に人知れず凛と咲く一輪の椿の花を思わせた。

 みちとせをやちよにそへてももといふ つはきそ花のかきりしられぬ
 (『百椿図』本の巻より「桃椿」の歌 松花堂昭乗)

 玉椿見れともあかすさくはなに 八千よの春をなとや契らん
 (『百椿図』末の巻より「桑名椿」の歌 北村湖春)


 桜がこの国の春を荘厳するまで、もうしばらく、この花とともにすごそうと思う。


 【参考文献】 『安達瞳子の世界の名花 椿物語展』 図録 (2003年3月)
 
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日本のちから

2006年03月17日 | 本の森
 「日本の『ち・から』」というブログの企画に実践者として参加しています。先日、ブログの作者・むろぴいさんから同タイトルの本『日本の「ち・から」』(大和古流廿一世当主・友常貴仁 著、三五館)を送っていただき、企画の主旨の理解を深めました。副題に「歴史とは、人、如何に生きるべきか、の秘伝である」とあり、日本史上最強の人物たち(おもに戦国~江戸時代 ─ 沢庵禅師、千利休、宮本武蔵、織田信長、徳川家康、細川幽斎、能因法師、良寛)の生きざまに触れ、「日本とは何か」、そして「いま、われわれは何をすべきか」を観照するよい機会になりました。なかでも、第三章の「『文』は最強である」に紹介されている細川幽斎のエピソードはこころに響きました。

● 合戦前 ─ 東軍勝利のひみつ
 細川幽斎(1534~1610)は、信長~秀吉~家康とともに生きた戦国時代の武将でありながら、三条西実枝(さんじょうにしさねき)に和歌を、千利休に茶の湯を学び(子の細川三斎は利休七哲のひとり)、その奥義まで極めた文字どおり文武両道の士で、その才を認められて一般人として初めて、『古今伝授』(中世以降、『古今集』の難解な語句の解釈などを秘伝として師から弟子に伝授したこと)の預り役(伝承者)を任されました。
 関ヶ原の合戦直前、家康側の幽斎は田辺城において豊臣方の石田三成に包囲され、落城も時間の問題となったとき、中途であった八条宮智仁(としひと)親王(一時秀吉の猶子となりましたが、秀吉の実子誕生後に猶子から外される人物。京都・桂離宮を造営)への『古今伝授』を命がけで完遂しようとしました。それを知った後陽成天皇が『古今伝授』の細い糸が切れることを懸念し、ついに三成方に対し城の包囲を解くよう勅命を下します。このいきさつの間に天下分け目の合戦は火蓋を切り、幽斎のたてこもっていた田辺城に釘付けにされていた軍の戦力を失った三成軍は敗退。家康は幽斎の功績をたたえ、細川家は多大な恩賞を受けることになります。(のちに『古今伝授』は、智仁親王から後水尾天皇に伝わって御所伝授が成立する) これは、「武」よりも「文」のほうが優ることを示す注目すべき史実のひとつです。幽斎の「文」が天皇を動かし、「武」をしりぞけました。

 いにしえも今もかはらぬ世の中の 心の種を残すことの葉

 田辺城籠城中に死を悟った幽斎が、古今相伝の密書に添えて智仁親王へおくった和歌です。三成方も、皇族への使者には手を出せなかったのです。こうして、それからおよそ三百年続く泰平の世の扉が開かれました。

● 言葉のちから
 ここでわたしは、輸入物の真名(漢字)でなく、初めて自分たちの言葉、やまと言葉で勅撰和歌集を編むという悦びにあふれた『古今集』の紀貫之の序文を思わずにはいられませんでした。「やまとうたは、人のこゝろをたねとして、よろづの言の葉とぞなれりける。‥力をもいれずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれとおもはせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士(ものゝふ)のこころをもなぐさむるは、うたなり」。西行も能因法師も、この世のすべてをつつみこむ美しいものに「あくがれ」るこころを貫いて一生を孤独に生きぬき、ついにはこのやまと歌のめざす歌境にたどりつきました。やまと言葉には、自然(あめつち)の声を聞きつつ自ら行動しこの世を切り拓いてゆく力─ 島国特有の自然災害や地震に遭遇する不幸や、この世のどんな不条理、不公平をも乗り越え笑い飛ばすたくましさ、さらには世俗を天上から俯瞰しやわらかくその手につつみこむ慈愛が備わっており、その言葉で日本人は考え行動してきました。著者の述べるとおり、それがこの国を創ってきた原動力であり、これからの日本を創ってゆくちからなのだとしたら、「日本のちから」は力であって力ではない、力をいれずして民を治め、国を治め、ついには世界の規範となりうるものなのでしょう。

 今年、これまでの「ゆとりの教育」方針に基づいた学校教育・指導要領が十年ぶりに全面改訂され、必要な基本的な考え方として「言葉の力」を据えることになりました。言葉は「他者を理解し、自分を表現し、社会と対話するための手段で、知的活動や感性・情緒の基盤」(指導要領原案)とあり、今後の日本の義務教育にも注目してゆきたいところです。

● 日本の「ち・から」
 崇高な精神の宿る文化の継承を担う国士、品格のある真のエリートがいなくなれば、日本は日本でなくなる、この国は消えてしまう。グローバル化、国際協調という美しいスローガンに惑わされず、長い歳月をかけて先人たちの築いた大地にいま立っているわたしたちの、足もとをしっかりと見つめなおせ。そんな著者の熱いメッセージが伝わってきますが、『国家の品格』をお読みになられた方は、藤原正彦氏がまったく同じことを述べていたことに気づくでしょう。藤原氏は(ほかの著書『祖国とは国語』『世にも美しい日本語入門』などからも分かるように)「言葉のたいせつさ」を説き、友常氏は本書で毎日の挨拶や食事、掃除、行動、他人との関わり方、礼節等々、日常の行動ひとつひとつが修行であると言っています。

 長くなりました。最後に、古く飛鳥のころから永々と伝えられてきた帝王学の秘儀を公開してまで読者に伝えたかった友常氏の思いを、ほんの一部ですがご紹介します。

 目に見えない「力」の宿る国が、日本である。
 ここに暮らす人々が日本人である。
 この目に見えない「力」は、日本の「地」から沸き上がる勢いであり、
 ひとたび放たれれば、地に張った根<こころ根>となり、
 あまねく響きわたる。‥‥
 二十一世紀、「ち」は、人類の「血」であり、地球人としての
 「智」であり、地球人が暮らす「地」である。
 このような現代に通じる「ち」から生まれる「ち・から」を総合して
 「日本の力」にしようではないか。

 (著者のあとがきより)


※ 著者の友常氏は定期的に東京などで講演会を行われるようです。詳しくは「日本文化継承研究会 大和しうるわし」をご覧ください。
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散華

2006年03月10日 | 京都 ‥こころのふるさと
 
 
 薮かげのとある小路に落椿 思ひあまりて春の地を染む
 (高安やす子)


椿の散華(※)
淡雪の舞う小路を紅に染める落花
それは 生とひきかえの永遠の美
花の残した思いを そっと掬いとってやりたい

椿の谷の静謐 早朝の法然院本堂の
あめ色の須弥壇に横たわる二十五の花は
二十五菩薩の象徴
その寂とした美に こころ静かに向きあう

ふる雪のかすかな音に耳をすまし
ゆるやかな時空の中に
身もこころも雪と花とともにとけてゆく


春の花々に思いをゆずり
早々に落ちてゆく はかないいのちの花を
哀しいほど いとしくおもう


※ 散華(さんげ)‥ 仏を供養するために花をまき散らすこと。法然院本堂では、毎朝二十五菩薩の供養に二十五の季節の生花が散華されます。法然院の散華については こちら へ。
 
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樹下美人

2006年03月03日 | 季節を感じて ‥一期一会
 
 桃の節句に天の国から来たお菓子、「三千歳(みちとせ)」をどうぞ召し上がれ ^^ 京菓子では桃の花の意匠菓子を「三千歳」、桃の実を象ったお菓子を「西王母(せいおうぼ)」とよぶそうです。

 それは紀元前百数十年前、中国は漢の武帝のころのお話。当時は中国史上栄光の時代とされ、平和な治世がつづいていました。天の神は西王母を使者として天降りさせ、武帝に対し賞慶の趣旨を伝えさせます。西王母は中国の伝説上の山・崑崙山(こんろんさん)にすむという美しい仙女。白馬の馬車に乗り降下した西王母は、武帝に謁見し、お土産に持参した仙桃を七個(仙桃七顆)を差し出しました。帝はこの桃があまり美味なので、その種を自邸の庭に植えようしたところ、西王母いわく、「それは無駄でありましょう、この桃は三千年に一度だけ実を結ぶのですから」と答えました。以来、その桃を「三千歳」といい、邪気をはらい、長寿をもたらすおめでたい果実とされました。
 
 春の苑 くれなゐにほふ桃の花 下照る道に出でたつ娘子(をとめ)
 (『万葉集』 大伴家持)

 「樹下美人図」をモチーフに詠まれた歌に、樹下にたたずみ桃の花を愛でる西王母の艶やかな容姿、幻の桃源郷に舞う花の精を想像します。いまごろ崑崙山では宴の最中でしょうか。花の苑をながれる管絃の調べにのせて歌合せが催され、客人は桃花香に酔いしれて盃を重ねます。仙女・西王母とその侍女たちの頬もうっすら桃色に染まって。写真の「三千歳」は、ふっくらと美しい西王母のお顔にも見えます。 ‥でも、漢詩に多くみえる桃の花も、和歌にはあまり詠まれなかったようです。


 桃紅復含宿雨 桃は紅にして復(また)宿雨を含む
 柳緑更帯春煙 柳は緑にして更に春煙を帯ぶ
 花落家僮未掃 花落ちて家僮(かどう)未だ掃わず
 鶯啼山客猶眠 鶯啼いて山客(さんかく)猶(なお)眠る
 (六言詩 『田園楽』 王維)

 桃の花は紅に咲き乱れ、夕べの雨露をふくみいっそう鮮やかな色を見せている。柳は緑に萌え春霞を帯びて、あたりはますますおぼろでけだるい風情。庭先に散りしいた花も、召使いは掃わずそのままにしている。しきりにさえずる鶯にさえ気づかず、山荘の主は春の夢の中─ 柳緑花紅(りゅうりょくかこう)も、中国では桃の花だったのですね。

 三日をすぎたら、早々にお雛さまを片付けることをお忘れなく。
 
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