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椿に育てられ、桜を課題とし、竹に支えられて今日あります」と語った花道家が亡くなって二週間がすぎた。椿への長い長い旅路に終止符が打たれたのは平成十八年三月十日午前七時八分。奇しくも、わたしが
椿の「散華」の記事をアップロードした日時と重なった。このことがどうしても偶然とは思われず、惜しまれつつあまりにも早く散った花に誘われるように、近くの小高い山懐にある椿苑まで車を走らせた。平日の公苑は人影もなく、去りゆく季節と来るべき季節のゆきかう空のもと、わが世の春とばかりに咲き誇る薄桃色の花をいっぱいにつけた有楽椿の木がわたしを迎えてくれた。その先には公営のフォト・サロンがあり、毎年この時期に椿の花と写真を展示している。わたしは有楽椿のそばを軽く会釈して通りすぎ、そのちいさな写真館に入った。
手狭な会場に陳列された椿の花は、いったい何種類あったろうか。大輪のもの、筒咲きのもの、一重の八重の、絞りや斑入り、有香のもの、絵巻や屏風に描かれたものまで、まさに椿の百花繚乱。まだ訪れる人より会場を運営している裏方の人たちのほうが多い午前中だったにもかかわらず、会場は華やいでいた。ひとつひとつの花と語らい、笑みを交わすうち、いつしかわたしは花追人になったようだった。展示をひとまわりしたころ、ふと時間を持て余しているらしい人たちの話し声が聞こえてきた。話題はどうやらあの花道家のことらしく、いけばなに添えられていた江戸期の『百椿図』の写を見ているふりをしつつ話に耳を傾けているうちに、とうとう「ねぇ、あなた」と声をかけられてしまった。花道家から直接花芸の手ほどきを受け、名に花道家の一字をもらっていた女性だった。
昭和二十二年、花道家の父が家族と焼跡の銀座を歩いていて、通りすがりの骨董屋で偶然見つけた『百椿図』の写本から、花道家の椿への旅が始まった。
巨勢山(こせやま)のつらつら椿
つらつらに見つつ思(しの)はな巨勢の春野を
(『万葉集』 坂門人足)
日本は(北海道を除いて)太古から全土が椿に覆われた国だったというから、古歌に詠われたのはこの国の原風景といえる。花は原種の薮椿である。室町のころは茶花として育てられた“京椿”の時代、江戸期になると将軍家が愛好し奨励したこともあって、桜花を駆逐するほどの勢いで庶民にまで園芸ブームが広まり、この“江戸椿”の時代に椿は文化となった。いまでは亜種を含めると6,000種あるという。
『百椿図』の原図を見ぬまま昭和四十四年に花道家の父は逝き、娘が遺志を継ぐことになる。のちに原本(伝 狩野山楽筆 『百椿図』、1663年頃)は旧家から東京青山の根津美術館に寄贈されていたことが分かり、ついに江戸時代前期、三百数十年前の椿物語がひもとかれることとなる。
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桜が精神文化を語るとすれば、椿は生活文化を誇り続けている」という花道家の言葉どおり、『百椿図』には、茶碗や竹で編んだ籠などの生活道具への花あしらいや、三方や水指、扇などに添えたり懐紙に包んでみたりという楽しみ方が、ひとつひとつ、皇族や僧侶、武士、当時の文化人の賛を添えて紹介されており、なんとも雅びな絵巻物となっている。これはまた、このころの世の中がいかに平和であったかを物語っている。そして平成十五年、花道家は養女とともに、この『百椿図』をもとにした花芸作品を披露して「椿物語展」を展開し、歴史に育まれ多様な文化を形成してきた椿を顕彰したのである。
日本を北限にアジアからはじまり、十七世紀以降にポルトガルやイギリスに渡って、十九世紀にはアレクサンドル・デュマ・フィスのオペラ『椿姫』が欧州を風靡する。アメリカにいたって椿ブームに拍車がかかり、西へ西へと伸びていった椿ロードは四百年の歳月を経て戦後の日本に帰ってきた。いまでは世界中に「国際ツバキ協会」が誕生しているという。欧米人の好む華麗な大輪咲きも、そのほとんどが日本の薮椿を母にもっている。そのせいか、日本人はどうしてもこの退紅色で一重咲きの花から逃れられないようである。もちろんわたしも例外ではない。しかし、と花道家は言う。「
華麗に変身した洋種椿にも目を開く時が来ています。400年前海を渡り、地球をひと廻りした『カメリア・ロード椿の道』を振り返る今、日本文化の主体性が世界的な評価を持つに到る民族の自覚を問われている気がしてならないからです」。
「先生は完璧主義の方でした。たくさんの花の中からよい花を数本だけ、選んでゆくような。 ‥いけばなの各流派とは目指すものが違うからと言って交わることもなく、最後までご自分の流儀を貫かれました。それをわたしたちが守ってゆかなくては。 ‥先生は豪華な八重咲きよりも、一重の清楚な花を好まれました」。椿展の会場でうかがった偉大な花道家の人柄は、薮蔭に人知れず凛と咲く一輪の椿の花を思わせた。
みちとせをやちよにそへてももといふ つはきそ花のかきりしられぬ
(『百椿図』本の巻より「桃椿」の歌 松花堂昭乗)
玉椿見れともあかすさくはなに 八千よの春をなとや契らん
(『百椿図』末の巻より「桑名椿」の歌 北村湖春)
桜がこの国の春を荘厳するまで、もうしばらく、この花とともにすごそうと思う。
【参考文献】 『安達瞳子の世界の名花 椿物語展』 図録 (2003年3月)