風に木犀の香を聞く候となりました。桜がちらほら色づき始めています。
夜長にゆっくりと本をひらくのが楽しみです。秋なので、手にとるのは文化・芸術の本ばかり。この夏、松涛美術館(東京渋谷)で開催されていた「骨董誕生」展を鑑賞して以来、稀代の目利き・青山二郎という人物のことを知りたくなり、しばらく関連の書にあたっていました。ところが、読みすすむうちに話は利休の茶のことにまで及んでゆきます。これまでつねづね「利休の茶とは何だろう?」と考えてきたので、理解を深めるよい機会になりました。
◆ 千利休と青山二郎
小林秀雄と白洲正子を骨董の世界に引きずりこんだ天才的目利き・青山二郎を知るには、白洲さんの『いまなぜ青山二郎なのか』(新潮文庫)が良著です。「骨董とは、美とは何か」を知る前に、一生をかけて自ら選んだモノと人にトコトン付き合ってゆくとはどういうことなのか‥というのがこの本の眼目で、青山二郎の生きざま─彼がいなくなったいまでは、それが彼の思想だったといえるのですが─には、深い「愛」がありました。
また、青山二郎が、それまで誰も目もくれなかったシロモノに独自の眼力で「美を発見し、創作した」人物であったという点で、千利休とまったく重なります。利休にとって、それは高麗の民器(美術品でなく、ふだんの暮らしに使ったうつわ)であった井戸茶碗や楽茶碗であったし、青山にとっては桃山陶(志野や唐津のやきもの。こちらも民器)でした。青山は茶の湯のことは知らなかったけれども、利休の茶のこころは十全に理解していたでしょう。
ところが、生前、利休も青山も多くのことを語らなかったし、利休は自分の創作した美の世界を懐に抱いたまま「自分が死ねば茶は廃れる」と言い残し、秀吉の命を容れて死んでゆきましたし、青山はこの世の美を呑み尽くした末に、所有品のほとんどを手放してこの世を去ってしまったので、残されたわたしたちは、いったい利休とは、青山二郎とは何者だったのか、その実態をつかめないでいるのが実情です。
◆ 「自分が死ねば茶は廃れる」の意味
『いまなぜ青山二郎なのか』の中で白洲さんがすすめている本が、画家で作家の赤瀬川原平氏の『千利休 無言の前衛』(岩波新書)です。赤瀬川氏は映画『秀吉と利休』(原作は同題の野上彌生子の小説)の脚本を書いたことで知られていますけれども、当時の草月流三代目家元・勅使河原宏氏から脚本を書いてみないかと依頼されたとき、赤瀬川氏自身は茶の湯のことはまったく無知だったそうです。もちろん、引き受けた後は利休のことを調べ尽くして脚本が成ったのだし、彼も青山二郎と同じように茶の湯を知らずとも利休の茶のこころを理解して、そういった意味で、かえって新鮮な目で利休を見つめてなおしており、実に興味深い利休研究の書になっています。
赤瀬川氏は、利休は前衛作家だといいます。形を構築しながら、つねに新しいひらめきの中に生き、創作しつづけていた人物だからです。「閃きは、言葉で追うことはできても、閃きを言葉が追い抜くことはできない」という直感的世界。そんな微妙なところに生きた利休は、秀吉という時代の権力をもつきぬけていた危険な人物でもありました。
さらに、利休は「人と同じことをなぞるな」とも言っており、それは文字どおり「あなたは利休ではない、あなただけのことをやれ、新しいことをしなさい」という意味ですが、赤瀬川氏はこれを「芸術の本来の姿、前衛芸術への扇動である。‥‥前衛としてある表現の輝きは、常に一回限りのものである」と喝破します。また、そんな一回限りの輝きを求めるこころを、「別の言葉では『一期一会』ともいう」という氏の言葉に、はっとさせられました。
そうすると、利休や青山がなぜ黙して語らなかった(いえ、語ることのできない世界に生きていた)のかが理解できます。彼らは一回性の、一瞬の輝きの継続などありえないことを、知っていたからです。
利休の死後、彼の遺した言葉や形をなぞってみたところで、その輝きを再現することはもうできません。その結果、茶は形骸化がすすむばかり‥ というのが、「自分が死ねば茶は廃れる」の意味だったのです。
◆ 「一個の茶碗は茶人その人である」(青山二郎の言葉より)
茶の湯も骨董の世界も、この世の一握りの人たちだけによって運営される閉鎖的なものになってしまった現代、それでは美をもとめるこころや眼の力を養う機会は失われたかといえば、そんなことはないと信じたいのです。
道を知ることは大事だけれど、いったん知ってしまったら、そこからなかなか抜けられません。日ごろから柔軟な思考と知識を離れた眼を養わなければとうていむつかしいでしょうが、素人であるわたしたちは、ついふだんの暮らしをおろそかにして、生活を成しているモノ(道具)の重要性を見失いがちです。青山の言うとおり、一個の茶碗がすなわち茶人を、骨董がそれを使う人のこころを映し出す、とすれば、毎日わたし(あなた)が使っているモノや、常にそばに置いているモノこそ、わたし(あなた)自身ということになります。そのことをまったく意識せず暮らして、日本の文化を生きているとはいえない─ ということを、わたしたちは考えてみる必要がありそうです。
花と花器の関係を「道具が先で、花は従なのだ」と喝破した白洲さんの言です。
それにしても、この頃の展覧会の混雑ぶりは異様で、ちょっと近よれない感じがするが、日本人の生活力と好奇心の現れと思えば、喜ぶべきことなのだろう。柳宗悦氏は、しきりに「じかに物を見る」ことを説いたが、そこではじかに見ることが、未だ充分に行われているとは思えない。‥知識を持つのはむろんいいことだ。が、物がなくて知識だけあるのは恐ろしいことである。箱書だけ尊重するのと同じように、自分で見たり、考えたりする力をなくし、いつも外の力に頼る。いつの間にか生活のすべてに亙ってそれが習慣と化すからだ。
鑑賞という言葉も、昔はなかった。鑑賞とは、‥生活の中で、物と一緒に暮らすことを指し、長い間暮らしてみれば、人間と同じように、‥何かしらはっきりつかむものがある。‥知識とか理論とか、間に何も交えない直接な鑑賞法を、柳さんは「じかに物を見る」といったのである。
(白洲正子著 『美は匠にあり』より)
わたしも、偉人の後ばかり追わずに、一度じっくりと自分の身のまわりを観察してみようと思います。そこから何もかも始まっているのですから。利休のいう六感(=直感、ひらめき)というものは、日ごろから五感を鍛えなければ得られないものであることを、忘れてはいけません。
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【おすすめ展示会情報】
? 滋賀のMIHO MUSEUMで、特別展「青山二郎の眼」を開催中。(2006年12月17日まで)
図録は青山二郎が所蔵していた本阿弥光悦作「山月蒔絵文庫」をデザインした函に
入っています。boa!さんのブログに写真が掲載されています。
? 東京日本橋の三井記念美術館で、開館一周年記念特別展「赤と黒の芸術 楽茶碗」を
開催中。(2006年11月12日まで)
※ 『いまなぜ青山二郎なのか』、『千利休 無言の前衛』、『美は匠にあり』は、
雪月花のWeb書店 で紹介しています。
今回の絵「紅志野香炉」は、青山二郎から白洲正子へとわたった「This is 桃山」という名品。
裏にはすすきの絵が描かれていて、形も線も色の味わいも美しい。
例の”老人力”という言葉の発明者?でしたか?
話題は専ら、老人専科。
今年亡くなられた中野孝次氏は忘却力の薦めで有名でしたが、同様なポジテイブ志向で老後を過ごす処方箋。
ところで、
映画館ではシルバー割引が一般的なってきましたが、
美術館では未だ・・。
ボチボチとシルバー割引制度を導入してくれませんかね?安部さんに期待しましょうか。
今、草月の稽古をして帰宅したところです。
まったく雪月花様のお書きになった通り、
一度だけのその時を至上の至福の時間と感じられるのは、その人の感性にだけ、許されるものだと思うようになってきました。
お茶の言葉の一期一会を使えるような人間になるには、現代は厳しい環境なのかもしれません。
でもでも、我が眼を信じ、我が心をかき立てて行かずして、何のことか、と利休や、青山二郎に教えられているようです。
来年、青山二郎展が世田谷美術館に回ってくるので、図録はその時に求めようと思いますが、さぞ美しいのでしょうね。
情報ありがとうございます。
私の方にもTBさせて頂きます。
雪月花様の立派な記事を読ませていただきました。
己の浅はかさに、顔から火が出て燃え尽きて、その灰がはらはらと散っていく思いがいたします。
このような稚拙な記事をこれからも懲りずに書いていくと思いますので、時々戒めていただければ幸いです。
既にMIHOで開催されている「青山二郎の眼」を見に行く準備として、遅ればせながら「いまなぜ青山二郎なのか」を先日読み終えたところなのです。まさに利休との共通点「美を発見することはすなわち美を創作すること」という小林秀雄の言葉に感じ入っておりました。
「一期一会」というお茶に際し使われる常套句を赤瀬川氏の本から解説されている下りは、とても新鮮な発見でした。瞬間にとらえる美、その直感は鍛え上げられた運動能力にも似ていますね。日頃の鍛錬のみならず、生まれ持った感覚(センス)も重要なのでしょう。
わたしも、日々自分の直感に磨きをかけていきたいと思います。
本日、あべまつ行脚さんから教えていただいた岡本太郎の『日本の伝統』を読了しました。岡本氏の辛口な芸術論にかなりショックを受けて自省を促されたのですけれども、意外なほど、千利休、青山二郎との共通点や、赤瀬川氏と同じことを岡本氏が繰り返し述べていることに気づきました。そのひとつに、こんな岡本氏の言葉があります。
「さて過去のやりきれない形式の中には、まったく箸にも棒にもかからない、不毛なしろものが多いのです。しかし中には、それ自体なんの輝きもないが、ラジカルに視点を転換させ、新しい光をあてると現在的に生きてくる、そういう可能性をはらんだものがある。それを見分け発見することが大事です。過去は死んだものです。しかしまたわれわれによって新鮮に生かしうるものでもあるからです。
なま身でぶつかって、そこから引き出せるもののすべて、今日の生活が、そこから取りあげてゆけるもののすべてを正しく生かし、再生してゆくべきです。形骸としての過去を容赦なく否定する。そのような創造的ないとなみこそ、じつは本質的に過去と結びつき、正しく伝統を受けつぐ方法です」
岡本氏の「(過去のものの中から)輝きを発見して現在に生かす」とは、まさに千利休と青山二郎が成してきたことですし、「なま身でぶつかって、そこから引き出す」とは、白洲正子のいう、知識や理論を排して「じかに物を見る」と異口同音でしょう。赤瀬川氏が指摘した利休と同じように、岡本太郎氏も、「前衛作家であれ!」とわたしたちを扇動しているのです。
> 香HILLさん、こんにちは。
「雪月花」への初コメント、有難うございます。赤瀬川さんはNHKの番組「知るを楽しむ」にレギュラー出演していますね。一時流行語にもなった「老人力」が彼の造語だったことは、わたしも昨夜初めて認識しました。
上にも書いたのですが、赤瀬川氏は『千利休 無言の前衛』において、岡本太郎氏の『日本の伝統』の提言を忠実に受け継いで実践しているように感じられます。面白い発見でした。
はてさて、安倍新政権のスローガンは「美しい国、日本」。ところで、何を美しいとするのか、はなはだ疑問ですね。『国家の品格』にもありましたけれども、美しく掲げられたスローガンに騙されてはいけません。これまでこの国をつくり、社会に貢献してきたご年配の方々が、ゆたかな文化生活を享受できる世の中になりますよう祈ります‥
> あべまつさん、
トラックバックを有難うございました。あべまつさんから教えていただいた岡本太郎氏の本を読み終えました。かなりショックでした‥ これまでの自分を否定されたような気持ちにさえなりましたが、利休や青山二郎、そして赤瀬川氏が、岡本氏と同じ前衛芸術というライン上で結ばれていると気づいたことは大収穫でした。
草月流のいけばなを学んでいらっしゃるのですね。いけばなもまた、一期一会の輝きをもとめる道のひとつですね。わたしは「~流」のいけばなについては門外漢ですけれども、自称「花人」という川瀬敏郎さんの花が好きです。
「青山二郎の眼」展は、来年の夏に東京世田谷にくるのでしたね。わたしも、年末に信楽で観て、おそらく来年、東京でもう一度観ることになるのではないかしら、と思います ^^
> おじいさん亀さん、はじめまして。
お立ち寄りくださり有難うございました。おじいさん亀さんのおっしゃるとおり、利休は死をもって「わび茶」を完成させた、というのはほんとうでしょう。それまで創造を繰り返して時代の最先端を突っ走っていた茶は、利休自らの手で閉じられ完結してしまったのですから、残されたわたしたちは戸惑うばかりです。でも、現在茶の道を学ばれている方の中から、利休のような前衛作家がとつぜん出現して、古いものを超えた新しい伝統が構築されるかもしれません。そのように考えますと、楽しみです。現代を否定ばかりしていては、前へすすむことはできませんから。
> 雪月花_westさん、
やはり信楽へゆかれますか。わたしも師走初旬に夫とまいります。今回の記事も、その準備にほかなりません。お互いに展示を観た後、またお話ができそうですね。楽しみです。
まったく、今回はこれまで見えていなかった「一期一会」という言葉の深淵をのぞいたような、恐ろしい気持ちになりました。
> 瞬間にとらえる美、その直感は鍛え上げられた
> 運動能力にも似ていますね。
なるほど、運動能力ですか。言い得て妙です。鍛えなければ得られない能力だし、得た後もつねに磨きつづけなければならないのが茶道なのだとしたら、まことにきびしい道です。
雪月花_westさんは、美しいうつわに囲まれた暮らしの中で感性を磨いていらっしゃる。わたしも、まず身近な暮らしの道具から見つめなおしてみます。
「閃きは、言葉で追うことはできても、閃きを言葉が追い抜くことはできない」というのは、この頃特に強く実感していることの一つでした。民芸の祖、柳氏が打ち立てた「民芸学」ともいえる哲学は現在、言葉に頼りすぎて直感が捕らえる真の美しさから遠ざかっているような気がします。白洲さんの著書にも同様の意見が記してありましたが、当時からそうだったのかと残念に思います。或る意味、茶道にも通じることなのでしょう。
雪月花さんは、日常をとても丁寧に過ごしていらっしゃると思いますので、身の回りのものに関しても吟味していらっしゃるのでしょう。普段のお気に入りの道具も、ぜひご紹介くださいね。
素敵なお話と、そしてコメントを拝読させていただいております。
ありがとうございます。
まったく、モノを見るということは生半可でできることではありませんね。身に染みます。
よいお話しをありがとうございました。
日々、自分自身の人生を歩いていくことが大切だと
再認識致しました(^^)
利休の実行した「見立て」には制限など無い。たとえば、釣瓶を水差しに、魚籠を花活けに利用したり、日頃に使っている茶碗を茶の湯に使うのも「見立て」である。私達の身の回りにある物を幾らでも「見立て」ることが可能である。
つまり雪月花さんの言われる、「毎日わたし(あなた)が使っているモノや、常にそばに置いているモノこそ、わたし(あなた)自身ということになります。そのことをまったく意識せず暮らして、日本の文化を生きているとはいえない─ ということを、わたしたちは考えてみる必要がありそうです。」ということなのでしょうか。そう指摘されれば、私など日々反省することばかりです。
話は少しずれますが、小説の世界でも、現実とはほとんど無縁の世界を描きながら、読者が今生きている世界を想起させる。赤瀬川原平が尾辻克彦名で芥川賞を受賞した「父が消えた」なども、現実世界と対抗する世界を描いて、却って強烈に現実世界を意識させる、そんな感想を持ったものでした。これからは尚いっそう大いに五感を鍛えながら、「老人力」を強めたいと思います。