写真は、まさおさんからいただいた今年の奈良・東大寺のお水取りのようすです。千数百年つづくこの行事にはあまたの“決まりごと”があり、修二会はその“決まりごと”の積み重ねといえるでしょう。けれども、それぞれの行いにどのような意味があるのか、いまも解明されていないものがあるそうです。無常を生きるわたしたちにとって、このようにいつまでも変わらないものがやすらぎとなるのです。
3月20日、全国に先がけて東京の桜(ソメイヨシノ)が開花しました。さぁ、春本番ですね。わたしの住む町の桜はまだつぼみが小さいので実感がわきませんけれども、今日からぽかぽか陽気がつづくそうですから、来週末には見頃を迎えることでしょう。みなさまはどちらへお花見にゆかれますか。
さて、
出光美術館の「志野と織部 風流なるうつわ」展(2007年4月22日まで)にはもうお出かけになりましたでしょうか。わたしは、この展観からある示唆を与えられ、その後しばらくあれこれと考えをめぐらせておりました。今回の「かたち」は日本文化ならではの魅力あるテーマですから、考えは広範に及びました。
● 織部のかたち
出光美術館では、志野か織部かにかかわらず、うつわの絵柄によってグルーピングされた展示がありました。当時のうつわの絵は、吊し(干し柿のような図柄)、車輪、籠(籠目)、架け橋、風になびく草花、千鳥や鷺などの鳥、柴垣、網干、笠などが大半なのですが、それらはみな「結界」あるいは「神の影向(ようごう)」を意味しており、うつわに邪気が入ることを防ぐためのものであろう、と解説されていました。とすれば、
うつわは神との交感の場であったと考えられます。やきものは、すべて焼成の段階で人の手から離れてしまうことを考えますと、さもありなん、と思われます。
俗に「へうげもの(ひょうげもの、と読みます)」と呼ばれる織部焼は、戦国の武将・古田織部が、茶の師であった千利休亡き後、師の伝えた侘び茶から脱却し、歴史の潮流に乗って明るく自由奔放な茶を提案したことに始まると一般的には考えられています。ですが、織部の絵付けを見ていますと、織部は利休の茶の「かたち」をその茶碗に凝縮させたのではないか‥そう思えてきます。それはなぜか、をいう前に、
織部の茶はあくまで「型破り」なのであって、もとから「かたち」の無いもの(つまり「型無し」)ではないということを、わたしたちは意識しておくべきでしょう。
● なぜ「かたち」を重視するのか
日本の文化は型の文化である、といわれます。伝統芸能や「○○道」というものにはきまって型がありますし、歳時記やふだんの暮らしにも、より良く生きるための細かな決まりごとがたくさん存在します。その理由が、最近になってようやく分かりかけてきました。それは、
かたちを忠実に守り習慣化することで、集中力が鍛えられて余計なことを考えなくなるから、です。この「余計なことを考えなくなる」ことが重要で、そうなることで自己といううつわが空になり、そこに神が入りこむ隙(すき)が生まれるのではないか。もしそうならば、
茶に専念することで「己(おのれ)を空(むな)しくする」ことを容易に実践することのできた利休が、神の手引きによって数多くの美の発見をしたのは当然のことだったといえますでしょう。
また、人はつい邪(よこしま)なことを考えて、道をはずれたり罪を犯してしまいがちです。良識に沿った決まりごとというのは、それに従うことで、あらゆる罪業から逃れることができると考えた先人の知恵でしょう。
● 禅の「無念無想」
鎌倉期の禅僧・栄西(ようさい、1141~1215年)が、禅の教えとともに茶を日本に輸入したことから禅と茶の関係は深いと考えることはできますが、わたしは「かたち」に専心することによって「己を空しくする」茶の実践が、不立文字を貫き、偶像や教義をもたず、実体験を重視する禅の「無念無想」と結びつくのは容易なことだろうと考えます。とすれば、
「無念無想」とは、ひとつのことに専心することで得られる「空」の状態ではないか。このような状態は、わたしたちが「ちょっと禅寺へ行って坐禅をしてくる」というような、生半可な“プチ修行”ではとうてい得られないものですけれども、もしその
「空」の状態が常態になったとき、ようやく人はすべてのしがらみから解放されて自由になる。それを、「悟り」というのではないでしょうか。
では、禅門あるいは茶門をくぐらなければ、わたしたちは一生悟達できないのでしょうか。
先日、
uragojpさんが「直心是道場」という維摩経の言葉を教えてくださいました。つまり、どこに居ようと何をしようとも専心することは可能だということ。朝起きて顔を洗い、朝ごはんをつくって食べ、満員の通勤電車に乗って出勤する‥、この毎日の繰り返しこそ修行であり、よそ見をせず、直ぐなるこころでひとつひとつを行いすますことこそ修行である、ということでしょう。 ‥とはいえ、これは凡夫のわたしにはまったく容易なことではありませんけれども。
● 美の発見、そのとき
わたしたちの祖先が数百年という長い歳月をかけ、試行錯誤を繰り返しながら、無駄のない洗練された美しい「かたち」や、より良く生きるための知恵を作り上げてきました。なぜ「かたち」や「しきたり」にこだわるのか、それは上に述べましたとおり、集中力を高め、余計な考えをしりぞけるためです。ひとつのことに専心し、無念無想になったとき─そのとき、わたしたちは神の祝福を受けて、神のみぞ知る美と同化することができるのかもしれません。
最後に、織部の茶碗の話にもどります。茶碗を結界として、邪気を妨げてうつわを空虚にする。それが古田織部の茶であり、茶の「かたち」はその茶碗にきわまるのではないでしょうか。一個の茶碗で神の影向を予祝していればよかったのであり、織部にとって茶碗以外のものなど自由自在だったのでしょう。
一筆箋