染織家のN先生に学ぶ紬織講座の第二回と三回目に、幸田文さんの『きもの』と青木玉(幸田文のひとり娘)さんの『幸田文きもの帖』を読んだ感想や意見を交わす時間があります。『きもの』の主人公・るつ子さながら、独特の感性と視点から鋭くきものを語る幸田文さんに深い感銘を受けたという先生につられるように、両書に描かれた当時のきものや風俗についてじっくりとみなで語り合うひとときは、さまざまな切り口からあらためてきものを見つめなおす機会になっています。
わたしにとって九年ぶりの再読となった『きもの』ですが、きものに興味を持ち始めたばかりの九年前は、描かれている大正期の風俗が理解できず、読むのにたいそう苦労したのですが、頻繁にきものを着るようになったいま、さらに二度読み返して、ようやく著者の意図がつかめた気がします。
『きもの』というタイトルのとおり、主人公のるつ子の成長とともにその折々のきもののあり様が描かれてゆくのですが、大震災で焼き出され、家族ともども衣食住の底の底を身をもって知ったるつ子が、次のように考えておもわず吹き出してしまうという場面から、きものというものの原点を思い知らされます。
肌をかくせればそれでいい、寒さをしのげればそれでいい、なおその上に洗い替えの予備がひと揃いあればこの上ないのである。ここが着るものの一番はじめの出発点ともいうべきところ、これ以下では苦になり、これ以上なら楽と考えなければちがう。やっと、着るということの底がじかにわかった思いだが‥(中略) ‥しかしまた逆に考えると、それほどのひどい目に逢わなければ、着物の出発点は掴むことが出来ないくらい、女は着るものへの妄執をもっている、といことでもある、‥(中略) ‥結局追いつめられれば人と衣料とは、どうでも必要という一点にしぼられ、そこが本当の掛値なしの出発点なのだった。‥
きものとは着る物、体をつつむ、身を守るという必要最低限から生まれたものであること。この衣生活の原点は、満ち足りてなお必要以上にもとめてやまない現代のくらしからはとうてい思いつかないことですし、先人たちが苦労してつけてくれた衣生活の道筋を、後世の者が感謝のきもちも持たず踏みにじってゆくことへの、著者の憤懣まで聞こえるようです。
お稽古ごとやお洒落のためであり、“必要”からきものを着ることのなくなった有難い時代に生きるわたしたち。せめて、引き受けたきものだけはとことん面倒をみるつもりでなければ、バチがあたりそうです。
最後に、もっとカジュアルな感想を。
“必要”の代表が主人公のるつ子やるつ子の母と祖母、対して“欲望”の権現がるつ子のふたりの姉だとしたら‥、震災によって姉たちにふりかかった恐ろしい不幸は、欲望の行きつくところとして著者が与えた罰のようにおもえ、うすら寒いきもちになってしまう。幸田文さんの文はつよくきびしく、じつはあまり好きではありません。