雪月花 季節を感じて

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卵焼きの王子さま

2006年08月24日 | たまゆら ‥日々是好日(随筆)
 
 毎日の夫のお弁当に入れる卵焼き。毎朝、卵二個分を焼きますが、きれいに焼けた日は気分がいいものです。家族のために数十年間ずっと卵焼きを作ってこられた方もいらっしゃるでしょう。今回は、わたしの幼いころの夏休みの思い出と結びついている卵焼きの話です。


 小学生のころ、夏休みはきまって家族で愛媛の祖父母の家ですごしました。瀬戸大橋もないころのことで、岡山の宇野から連絡船で高松まで一時間、そこから国鉄予讃線で二時間の旅でした。
 昔の祖父母の家は、玄関と台所は土間で、壁は藁をまぜた土壁でした。お風呂は薪をくべて焚きましたし、鶏の産みたて卵と畑でとれた野菜が毎朝の食卓にのぼりました。ハエとり紙も天井からぶらさがっていましたっけ。そんな田舎の暮らしでしたが、庭に祖父の丹精した松や草花が生い茂り、池に錦鯉が泳ぎ、猫は納屋の軒下で涼みながらゴロゴロしていました。シジミやカワニナのすむ庭前の川で、お米も野菜も洗いました。
 田舎の夏休みにすることといったら、遊びと昼寝だけ。朝食を済ませたら、弟と一緒に向かいのスーパーマーケットの次男「お店のショウちゃん」を誘いに出ます。ショウちゃんは川魚を捕まえるのがうまく、弟とわたしはショウちゃんの手下でした。ショウちゃんが浅瀬に追い込んだ魚を、弟とわたしがまわりこんで網に入れる。ショウちゃんの「行ったぞ!」の声がかかったら、魚と勝負!なのですが、相手は魚。水中はお手のもの、すぃすいっとふたりの足もとをすり抜けてゆきました。
 昼寝の後は、裏山のお寺へ遊びにゆきます。家から境内への階段の最上段まで、「グリコのおまけ」をしてすすみます。ジャンケンは弟より強かったみたいで、わたしのほうが境内で弟を待つことが多かったようです。
 お店のショウちゃんがいないときは、畑の向こうに住むヤッちゃんを誘います。ヤッちゃんのお母さんは、ご自慢のブラザー編機で色鮮やかなセーターやカーディガンを編んでくれました。ヤッちゃんもいないとき、しかたなく弟とわたしは別々に遊ぶこともあって、ある日、わたし自身は迷子のつもりはなかったのに、家族みんなでわたしを探しまわり、大騒ぎになったことがありました。何のことはない、わたしは他所さまのお宅に上がりこんで、ちゃっかりご飯をごちそうになっていたのです。血相を変えて訊ねてきた母と祖母の前でわたしがきょとんとしていたので、ふたりともすっかりあきれてしまったようでした。

 迷子事件を起こしたり、捨て猫をこっそり拾ってきて家内で飼おうとして祖母に見つかってひどく叱られたこともあり、わたしはよく泣きました。お盆が近くなると、たくさんいるいとこたちがあちこちから三々五々集まってくるのですが、そんなころ、またわたしは何かをやらかして、叱られて台所でひとりメソメソ泣いていました。すると、数日前から来ていたいちばん年長の従兄「ショウゾウ兄ちゃん」が、台所の土間にきて、おもむろに冷蔵庫から卵をいくつか取り出して卵焼きを作り始めたのです。
 「くぅちゃん、待っとってや。いま、おいしい卵焼きを作るけんのぅ」
 わたしは訳が分からず、指図されるまま水屋から皿と箸と醤油を出して待ちました。まもなく、お皿にショウゾウ兄ちゃんの焼いた黄色い卵焼きがのりました。そのアツアツの卵焼きのおいしかったこと‥、わたしはウサギの目で卵をほおばりながら、さっきまで泣いていたことなどもう忘れていました。その日から、ショウゾウ兄ちゃんは、わたしの「卵焼きの王子さま」になったのです。
 いま考えると、何故「くぅちゃんをなぐさめる=卵焼きを作って食べさせる」だったのか解せないけれど、ショウゾウ兄ちゃんのとっさの思いやりは、じぃんと胸にしみました。

 ショウゾウ兄ちゃんも、いまはもう白髪まじりのお父さんかしら。お店のショウちゃんはお兄さんと一緒に店を継いで、スポーツカーを乗りまわしているらしい。ヤッちゃんのその後は知らないけれど、お嫁にいって、もうあの町にいないでしょう。愛媛では電車にさえ乗ったこともなかったいとこたちは、ほとんどみな進学を機に東京に出てきました。

 川の両岸にコンクリートが打たれて、シジミやカワニナがいなくなり、蛍火も消えました。納屋は閉ざされて猫も去りました。祖父の桃の木は、高速道路建設のため切り倒されました。お寺はまだあります。天の川はまだ見えるかしらん。祖父は逝き、祖母はもう母の顔すら判別できません。でも、夏の朝に卵焼きを作るわたしのこころに、楽しかったあのときはいまも生きています。弟とショウちゃんは川遊びでまっ黒に日焼けしているし、猫はわたしが目を離したすきにおやつを盗み食いします。祖母は幼いわたしをおぶって散歩に出て、道端のお地蔵さんに手を合わせて一緒に「あん」と拝みます。帰宅後は山でとれたヨモギで草もちをついてくれます。そして、卵焼きの上手なショウゾウ兄ちゃんは、ずっとわたしのヒーローです。


 処暑の候となり、今年の夏も終わりですね。明日も明後日の朝も、わたしは卵焼きを作ります。いまの王子さま(?)は、枝豆をよい塩加減でおいしく茹でられるけれど、卵焼きは焼けないみたい。それでもまぁ幸せです。秋になったら、父のお墓参りのため、ふたりで四国へ渡ります。


__________
※ 昨夜(23日)、NHK総合テレビの番組「ためしてガッテン」で、“卵焼きの奥義”を紹介していました。卵焼きを作りつづけて四十年の達人直伝の関東風厚焼き卵の作り方は、「ためしてガッテン」のホームページでご覧いただけます。
 
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二十六夜待

2006年08月17日 | うす匂い ‥水彩画
 
 秋今日立つ。芙蓉咲き、法師蝉鳴く、赫々として日熱するも
 秋思已(すで)に天地に入りぬ。

 (徳富蘆花著 『自然と人生』より)

 精霊送りをすぎ、蝉時雨に「オォシィツクツク‥」と法師蝉の声が混じるようになりました。草叢に耳をすませば、虫の音が聞こえてきませんか。甲子園球場から高校球児が去るころは、頭上はもう、ゆきあいの空です。

 みな月つごもりの日よめる
 夏と秋とゆきかふ空のかよひぢは かたへすずしき風の吹くらむ
 (『古今集』 大河内躬恒)


 日本画家で随筆も一流といわれた鏑木清方の『秋まだ浅き日の記』に、「いつの頃からか、私のすっかり忘れてしまっている年中行事に、秋の二十六夜待(にじゅうろくやまち)がある。 ‥それは、旧暦七月二十六日の夜半、月海上を離れる時、弥陀三尊の御来迎が拝めると言い伝えた(※-1)ので、市内の高い丘や、海沿いのところへ、あっちこっちから夜の更けるのを待ってうちむれては出かけたのであった」とあり、調べましたら、江戸時代に旧暦の正月と七月の二十六夜に月待ちの行事があったようです。江戸では、中秋の名月、後の月とともに、江戸三大月見のひとつに数えられていました。一月は寒いので、七月二十六夜の月待ちがさかんに行われ、当時江戸では高輪や品川の海岸に多くの人が出てちょっとした祭事の様相だったらしく、そのようすを描いた浮世絵ものこっています。

 中秋や十三夜とちがい、二十六夜は月の出が遅いため、本来は、一切衆生を救い、願いを聞き届けてくださるという有難い阿弥陀さまのご来迎を念仏を唱えながら待つ講だったものが、いつしか夕涼みを兼ねた遊興的な行事へと変遷したようです。天保の改革(1841~43年)で倹約・風俗粛正が断行され、この行事が規制されるまで、人々は茶屋や船上で歌舞音曲とともに飲み食いをしながら月の出を待ち、夏の一夜をにぎやかにすごしました。中秋や十三夜のしずかなお月見とは、まったく趣の異なるものだったのですね。「月よりだんご」の二十六夜、といえましょうか。

 今年は旧暦の閏月が七月にあるため、旧暦七月二十六夜は新暦八月十九日と九月十八日の二日(※-2)あります。こんな年は(江戸時代にあったかどうか分かりませんけれども)、きっと陽気でおめでたい江戸の人たちのこと、よろこび勇んで「飲めや唄え」と二度の月待ちへ繰り出したことでしょう。


 月にえ(柄)をさしたらばよき団(うちわ)かな (山崎宗鑑)

 ふだん使いの秋草のうちわですが、涼月(旧暦七月の異称)のお月見にふさわしいと思い、描きました。寝苦しい夜を、お気に入りのうちわを手に晩酌(わたしは下戸なのでおだんごをいただきます)をしながら、二十六夜月を居待ちするのも一興かも。

 ふけにけるわが世の秋ぞあはれなる かたぶく月はまたも出でなん
 (『千載集』 藤原清輔朝臣)

 ちなみに、今年の中秋は十月六日、後の月は十一月三日です。


 青田をわたる風にさそわれて、女郎花や萩の花が咲きそめています。


※-1
二十六夜月は下弦の三日月ですが、当時は空も澄んでいて、地球照という現象により欠けている部分もうっすらと見えたようです。人々は、その欠けた部分に浮かび上がる、いわゆる月うさぎの形を阿弥陀三尊(阿弥陀仏、観音菩薩、勢至菩薩)に見立てて信心しました。

※-2
2006年8月19日の月の出は午前 0:10、同9月18日は午前 1:04 です。(「こよみのページ」より)

 
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夏氷

2006年08月10日 | 季節の膳 ‥旬をいただく
 
 立秋をすぎ、もうすぐ盂蘭盆です。車で帰省をされる方は、安全運転で気をつけてお出かけください。
 東京地方は台風の影響で断続的に雨が降り、このところ気温は30℃を下回っていましたが、東海より西の地方は残暑がきびしいようですね。お見舞いを申し上げますとともに、ひんやり冷たい氷菓子をお届けします ^^

 冷たい食べものが好きなわたしにとって、かき氷は夏の楽しみのひとつ。祭りの屋台や道端の店に、波に千鳥の絵柄に大きく赤い字で「氷」とある氷旗が風にゆれているのを見るだけで、ちょっぴり涼しくなるから不思議です。
 かき氷って、氷を細かく砕いたものに好みのシロップやアイスクリームをトッピングするだけの、いたってシンプルな食べものですよね。炎天下を歩いた後、甘味屋さんに入り、熱い緑茶とともにかき氷をほおばりながらひとやすみしますと生き返ります。食べ終えるころには、店内の冷房がききすぎるくらい身体が冷えてしまうけれど、ふたたび外に出れば、しばらく暑さを忘れて元気に歩けます。
 古くは清少納言の『枕草子』に登場する「削り氷(けずりひ)」。削った氷に甘葛(あまづら)をかけて食したようです。もっとも、いちばんシンプルなのは氷を割っただけの「かち割り」ですね。こちらは、いまごろ甲子園球場で飛ぶように売れていることでしょう。

 かき氷には楽しい思い出があります。
 真夏の京都。わたしはある門跡寺院をめざして、陽光の照りつける長い長い坂道を登っていました。京都特有の、素肌にじっとりと湿気のまとわりつく炎暑の中を、ゆうに20分も泳ぐように歩きつづけました。拝観後、熱くなった身体を冷やしてくれるかき氷をいただくことを楽しみにして。
 門を出てすぐのところに茶屋がありました。カメ池のある広い庭を横切って店に入り、さっそく氷宇治金時を注文。エアコンのきいた座敷でほっとしていると、運ばれてきたのは、かなりボリュームのある、きれいな円錐形をした氷宇治。はて‥? わたしは氷宇治“金時”を頼んだのに、肝心の小豆がのっていない‥。うーん、これは店の人にクレームを、とも思ったのですが、なにせこの灼熱の中を20分以上も歩いたのですから、これ以上待つ気力はもうありませんでした。
 あきらめ気分で氷にスプーンを入れてみると、「‥?」、スプーンの先が何か固いものに当たったようです。さらにサクサク、スプーンで氷を崩してみると‥ ありました、抹茶がけの氷の中に、小豆がたっぷり。なんて粋なしかけでしょう! あきらめていただけに、よろこびもひとしお。(もしかしたら、店主がこちらを見てニヤニヤしていたかもしれません) で、あっという間に平らげてしまいました。 ‥京都って裏切らない。だから、好き♪


 上の絵は、東京羊羹の夏季限定商品です。粗く削られた氷に濃ゆ~い抹茶ソース、その上にたっぷりと甘さほんのり、大粒のゆで小豆。これを座布団にして、まぁるいバニラアイスクリームがでん、とのって出てきます。こちらも、氷の中に小豆が隠れているんですよ。さらに、その氷の要塞を側から固めるように、モチモチの白玉が三つもついて。これを味わう幸せといったら‥ ふふ、清少納言に食べさせてあげたい ^^

 匙なめて童たのしも夏氷 (山口誓子)

 あなたも、この季節限定のお楽しみ、甘くて冷た~いかき氷を召し上がれ。
 
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雨過天青

2006年08月05日 | うす匂い ‥水彩画
 
 梅雨明け後の東京地方は、朝晩はまだ涼しくしのぎやすい日がつづいています。昨日、桜の木蔭を歩いていましたら、どの樹の幹にも樹液がたっぷりとついているのを見て驚きました。この琥珀色に光る液をもとめてたくさんの蝉が集まってくるのでしょうか。わたしは不思議に気持ちになって木下闇に立ち止まり、しばらく蝉時雨につつまれていました。空は、雲ひとつない快晴。

 こんな日は、清々しい空色のお茶碗で冷茶をいただきます。銘は「雨過天青(うかてんせい)」。雨上がりのみずみずしい空の色、です。
 粉青茶碗で、土見(つちみ。茶碗の高台まわりなど釉薬がかかっていない素地土の露出しているところのこと)はまるで雪解けの景色を見るようにやわらかな印象です。もともと向付(むこうづけ)として作られたものだそうで、高台(茶碗の足の部分)は低くなっています。素地は非常にうすく作られており、口造り(くちつくり。うつわの口の部分)や土見、高台まわりは、こころして扱わないと欠けてしまいそうです。


 茶碗の由来です。
 京都におすすめの町家づくりの宿があります。「さろんはらぐち 天青庵(てんせいあん)」(※)。ほんとうは誰にも教えたくない隠れ家のような宿です。こちらのご主人は、日本に数人しかいない中国・南宋時代(1127~1279年)の官窯青磁(かんようせいじ)を作る陶芸家です。官窯とは、中国の宮廷で用いる陶磁器を製造した政府の陶窯のこと。とくに南宋の時代に、すぐれた青磁の作品がたくさん作られたそうです。
 ご主人から、官窯青磁は「雨過天青(うかてんせい)」の色とうかがいました。あるとき、南宋の皇帝が「雨上がりの空の色を」と陶工たちに作らせたのが始まりだそうです。大陸の国らしく、構想が壮大ですね。
 随筆集『雨過天青』の著者・陳舜臣(ちん しゅんしん、1924年~。作家)は、青という色を「青年とか青春とか、生命力に満ちたものに用いられる。わたしたちがさまざまな青を愛し、青磁の色に自分たちの理想を託そうとするのは、生命を愛するからにちがいない」と書いています。(紀伊國屋書店BookWebより)


 わたしは梅雨明けが近くなるとこの茶碗を取り出して、夏空の輝きを待ちどおしく思いながら一服のお茶を味わい、虫の音が聞かれるころまで楽しみます。唐物の茶碗を、こうしてふだん使いにするのは贅沢なことかもしれません。

 「天青庵」のご主人と奥さまにはお世話になりました。毎朝いただく奥さまの手料理が美味しいのです。みなさまも少人数で京都にお出かけの際は、ぜひご利用くださいね。


※ 「さろんはらぐち 天青庵
  東山のふもと、祇園円山公園のいちばん奥にあります。知恩院大鐘楼のすぐそば。

 
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ふみの日 『百人一首』

2006年08月01日 | くらしの和
 
 前回の記事に「琳派」をとりあげましたところで、今日は号外(?)で光琳デザインの美しい切手をご紹介します。

 毎年、文月(七月)の「ふみの日」に郵便局が発行する記念切手。今年は『小倉百人一首』を題材にした切手とおたよりセットが発売されました。
 50円と80円切手のデザインは、江戸時代の歌がるた「光琳かるた(通称)」をもとにデザインされており、『百人一首』のうち、春夏秋冬と恋の歌からそれぞれ一首ずつが選ばれています。おたよりセット(1セット500円、縦書きと横書き用があります)には下記のものが入っています。

 ・専用ケース
 ・便せん 10枚(1種類 10枚)
 ・封筒 5枚(1種類 5枚)
 ・はがき 5枚(5種類 各1枚)
 ・封緘シール 5枚(5種類 各1枚)
 ・百人一首説明入り下敷き
 ・アンケート用はがき
 ※ 切手は入っていません。

 わたしは縦書き用を購入しました。便箋と封筒は和紙に「波に千鳥(ほととぎす?かもしれません)」の透かし文様。はがきは一枚一枚に異なる絵柄が入っていて、色も日本の色にこだわっていてきれいです ^^

 夜長の季節になりましたら、こんなみやびな意匠の便箋やはがきに、親類やご友人宛のおたよりをしたためてみてはいかがでしょう。手紙に文香をしのばせてもすてきですね。プレゼントにもなりますし、短歌をなさる方や光琳ファンでしたら、この切手はぜひ。在庫があまりないようですので、お買い求めになる前に最寄の郵便局に問合せたほうが確実です。詳細は こちら をご覧ください。


 今日から葉月です。むかしは多羅葉(たらよう ※)の葉に和歌や消息をしたためたそうです。


道草さんから、多羅葉は「葉書」の語源と教えていただきました。
  詳しくは、道草さんのコメントをご覧ください。

 
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