蜩(ひぐらし)の初音を聞いた日の夕まぐれ、近畿地方の梅雨明けの報が届きました。東京でも二日ほど乾燥した晴天がつづきましたのに、梅雨前線が太平洋沖にまだ居座っていて、梅雨明け宣言はどうやら来週までおあずけです。明けてから暑中おうかがいの記事を書きたかったのですけど、しかたありません。わが小魚庵の主・めだか(俳画、賛は「渾々流水(こんこんりゅうすい)」です)と、めだか工房の新作はんこ「桔梗」で、今年のご挨拶とさせていただきます。いくらかでも、涼味を感じていただけましたら幸いです。
町のあちこちを、夏休みの子どもたちが元気に駆けまわって、ふだんより緊張して車の運転をしています。(しばらくは)宿題のことなんて忘れて、楽しい思い出をたくさんつくってほしいものです ^^
子どものころは、雷さまが来て梅雨を追いはらってくれるんだ、と思っていましたけれど、今年はほとんど雷鳴を聞きません。気象庁が「梅雨が明けた(梅雨入りした)“もよう”」と表現するようになったのも、季節の変わり目が明確でなくなってきたことの反映かもしれませんね。
梅雨明け前に発生する雷を「梅雨雷(つゆかみなり)」、梅雨の終わりを「送り梅雨(おくりづゆ)」、そして、梅雨明け後の雨を「もどり梅雨」あるいは「返り梅雨」などといって、どれも季語に見えています。こんな言葉から、ほんのわずかな季を逃さず、スナップショットのように切り取ってしまう感性はみごとなもの。一瞬、一瞬のできごとを拾い集めつつ一年をすごしてゆこうとする態度は、日本人の特徴のひとつといえそうです。全体よりも、それを構成する部分のほうがたいせつで、過去も未来も、「今このとき」を輝かせるための添えものにすぎないようです。また、このことは、雨の季節をもち、水に恵まれた生活をしていることと無関係ではないのでしょう。水と親しむことで、さらさらと流れゆく時に身をゆだねるという処世術を、わたしたちは知らず知らずのうちに身につけてきたのではないでしょうか。
ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、ひさしくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。‥‥
(鴨長明 『方丈記』 冒頭より)
夏の川に遊んだときの、ひんやり、さらりとした水の感覚は、いまも鮮明によみがえります。
とはいえ、何事も「現在」こそ大事とするその性向が、どんな過去も水に流し、未来への明確な展望を持たない日本人として、各方面から責められることもしばしばあるようですけれども‥。
父のふみ読み返す夕べ送り梅雨 (雪月花)
暑ささえも友とできたらいいですね。
みなさま、どうぞおすこやかにおすごしください。
お知らせです。
文月二十三日は「ふみの日」でした。昨年の8月1日付記事にご紹介して好評だった光琳かるたの「百人一首」切手が今年も販売されております。昨年のようなおたよりセットはないらしく、今年は切手のみの販売のようです。昨年と同様に、『百人一首』から、春・夏・秋・冬・恋の歌が一首ずつ選ばれています。今年の選歌は下記の五首です。
人はいさ心も知らず故郷は 花ぞ昔の香ににおいける
(紀貫之)
春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすちょう天の香具山
(持統天皇)
奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき
(猿丸大夫)
淡路島通う千鳥の鳴く声に 幾夜寝覚めぬ須磨の関守
(源兼昌)
わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾く間もなし
(二条院讃岐)
毎年このシリーズ切手を集めてゆけば、二十年後には「光琳かるた」が切手でそろうかも‥と、淡い期待を寄せているわたしです ^^ゞ
詳しい切手の画像は、郵政公社の下記のページをご覧くださいね。
→ 日本の雅を伝えたい ふみの日「百人一首」切手
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一筆箋