雪月花 季節を感じて

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風の姿で‥ ~山折哲雄先生のお話から~

2016年03月25日 | 雪月花のつぼ ‥美との邂逅
 横浜能楽堂にて「生と死のドラマ」というテーマの狂言「野老(ところ)」と能「芭蕉」を鑑賞しました。公演前に宗教学者の山折哲雄先生から、日本古来の死生観についての興味深いお話がありました。

 記紀万葉の時代、人は死ぬと風葬され、のちに肉体から魂が遊離して風とともに遠くへ運ばれてゆき、ときにその魂は何ものかに憑いて(憑依して)物狂いとなり、現世に再現する‥と考えられていたそうです。室町期に能を大成した世阿弥にとって、この物狂いが重要なテーマであったことは周知のとおりで、風(笛の音)とともに、こころを残して死んだもの(シテ)が生きた人の姿を借りて(憑いて)旅の僧(ワキ)の前に現れ、哀しい物語りをしつつ狂おしく舞い、やがて僧の読経などによって成仏し消えてゆくという、いわゆる能のステレオタイプ(夢幻能)が完成しました。このことは、いまを生きるわたしたち日本人の死生観につながっているのですが、山折先生は「そこにはいつでも、風が吹いている」と言います。

 古くからわたしたち日本人は、目に見えない何ものかを風に感じてきました。たとえば平安期の歌人・藤原敏行の「秋来ぬと目には さやかに見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」(『古今集』)、宮澤賢治の『風の又三郎』、最近では「千の風になって」(♪わたしののお墓の前で泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を吹きわたっています‥)、さらには、桜吹雪、葉擦れの音、風になびくすすきの姿に、もの思いする‥と、枚挙にいとまがありません。わたしたちは、風に“何か”を感じずにはいられないのです。

 20世紀初頭にヨーロッパのユングやフロイトが考えたように、世阿弥は物狂いのシテ(=クライアント)と旅の僧(=カウンセラー)という関係を、すでに600年も前に考え深めていたこと。そして最古の体系的な能の理論書『風姿花伝』を編んだこと‥それはまさに、「風の姿で、能の真髄である花を伝える」ためだったこと。山折先生のお言葉が、わたしのこころに重く深く沈みました。


 でも、たとえ風が吹かなくても‥

 さまざまなこと思い出す桜かな(芭蕉)
 なにごとの おはしますかは知らねども 恭(かたじけ)なさに 涙こぼるる(西行)

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