雨水をすぎ、ひと雨ごとにあたたかくなる春の雨はやさしく、こころ楽しい。雨上がり、不要になった傘をかたむけてみると、小枝の露に光る春を見つけることもあります。
草木(そうもく)は雨露(うろ)の恵み
養ひ得ては花の父母たり
(謡曲「熊野(ゆや)」より)
ふりつづく雨をいとわず、草木の根を潤し花芽を育てる雨に父母の恩を思う。森羅万象はあまねく創造主の恵みであると、いにしえ人は考えました。「父母」は古くは「かぞいろは」と読んだそうです。
わが家に近い白梅の林の花は遅く、白くちいさな坊主頭がいくつか見えるものの、花はいまだ。白梅は万葉の花、この花にたくされた親子の恩愛もありました。娘の早すぎる縁談に躊躇した父親の歌と、お相手の男性の父親の返歌です。
春の雨はいやしきふるに 梅の花いまだ咲かなく いと若みかも
(『万葉集』 大伴家持)
春雨を待つとにしあらし わが宿の若木の梅もいまだ含めり
(『万葉集』 藤原楠麿)
「春の雨がしきりにふるのに、梅の花はまだ咲きません。まだまだ若すぎるのでしょうか」。「春雨を待っておられるのですね。わが家の庭の梅もまだつぼみのままです」。(※) ─それぞれの花(ここでは家持と楠麿の子たち)をいつくしむ気持ちが春の雨にゆれています。のちに、家持の娘と楠麿の息子はめでたく結ばれたそうです。
今日もまた雨‥ もしかすると、春の雪に変わるかもしれません。
待ちわびて林のくろきぬかるみに傘さし入りて梅の花追う
つぼみのほころぶまで、あと幾日。
※ 古くは「春の雨」と「春雨」は区別されて使われたそうです。「春の雨」は早春の雨(または、早春から晩春の雨の総称とも)を、「春雨」は春の霖雨、菜種梅雨のころの雨をいいました。俳句ではいまでも区別されて使われるようです。
草木(そうもく)は雨露(うろ)の恵み
養ひ得ては花の父母たり
(謡曲「熊野(ゆや)」より)
ふりつづく雨をいとわず、草木の根を潤し花芽を育てる雨に父母の恩を思う。森羅万象はあまねく創造主の恵みであると、いにしえ人は考えました。「父母」は古くは「かぞいろは」と読んだそうです。
わが家に近い白梅の林の花は遅く、白くちいさな坊主頭がいくつか見えるものの、花はいまだ。白梅は万葉の花、この花にたくされた親子の恩愛もありました。娘の早すぎる縁談に躊躇した父親の歌と、お相手の男性の父親の返歌です。
春の雨はいやしきふるに 梅の花いまだ咲かなく いと若みかも
(『万葉集』 大伴家持)
春雨を待つとにしあらし わが宿の若木の梅もいまだ含めり
(『万葉集』 藤原楠麿)
「春の雨がしきりにふるのに、梅の花はまだ咲きません。まだまだ若すぎるのでしょうか」。「春雨を待っておられるのですね。わが家の庭の梅もまだつぼみのままです」。(※) ─それぞれの花(ここでは家持と楠麿の子たち)をいつくしむ気持ちが春の雨にゆれています。のちに、家持の娘と楠麿の息子はめでたく結ばれたそうです。
今日もまた雨‥ もしかすると、春の雪に変わるかもしれません。
待ちわびて林のくろきぬかるみに傘さし入りて梅の花追う
つぼみのほころぶまで、あと幾日。
※ 古くは「春の雨」と「春雨」は区別されて使われたそうです。「春の雨」は早春の雨(または、早春から晩春の雨の総称とも)を、「春雨」は春の霖雨、菜種梅雨のころの雨をいいました。俳句ではいまでも区別されて使われるようです。