雪月花 季節を感じて

2005年~2019年
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文様印(三) 唐草

2007年08月29日 | 和楽印 めだか工房
 
 一昨日まで晴天がつづき、夜空にかかるお月さまの具合もよい塩梅でしたのに、皆既月食が見えるはずだった昨夜の東京は、皆既食の間はあいにくの雷雨となり、九時をすぎてからほぼ復円に近い月がうす雲から透けて見えただけでした。夏休みの最後を飾る天体ショウを子どもたちにもぜひ見てほしかったのに、残念です。みなさまのお住まいの地域はいかがでしたか。


 さて、先月の「こころばかり」プレゼント企画で使用しました文様印のうち、ブログ上で未発表だったものを、今後すこしずつご紹介してまいります。今回は「唐草文様」、“古くて新しい”日本の伝統文様を代表する柄のひとつです。画像のように和紙小物に使っても、とってもモダン。それに、唐草文は古くは蔓草文といったそうで、蔓草が丈夫な蔓をどこまでも伸ばして広がってゆくことから、吉祥文様のひとつにもなっています。最近のお気に入りです ^^

 この文様を見ればすぐ、わたしと同じように、手ぬぐいでほっかむりをしたドロボーさんや夜逃げする人が背負っているふろしきの模様とか、獅子舞を連想する方もいらっしゃるでしょう。そうでなくても、きっとみなさまの身近にある文様のひとつと思います。
 先日、NHK教育テレビの「しばわんこの和のこころ」を見ていましたら、しばわんこが日本の伝統文様を紹介していました。調べましたら、この唐草文様の原型は古代ギリシャにあること、そしてのちにシルクロードを経て中国から奈良時代の日本に伝播したものであるということを知りました。もちろん、中国から渡来した当時の唐草文様(蔓草文様)はもっと複雑な意匠で、それは奈良や京都の古寺伝来の宝物にみられるそうです。ひとくちに「唐草文様」といいましても、あらゆる草花の意匠との組合せによって、その種類は無限であるといっても過言ではないでしょう。ご参考までに、こちらをご覧ください。

 → 「日本の文様 唐草百選

 上記のページを見ていただくと分かりますように、わたしたちになじみのある“ドロボーさんの唐草模様”は、唐草文の中でももっとも簡略化された意匠のようです。このように、本来複雑なものを、お洒落に簡略化して何にでも応用できる(使える)ように工夫するセンスはみごとなもの。これもまた、日本人の得意とすることのひとつでしょう。


 みなさまも、使いやすい小風呂敷や和装小物などで、ぜひ吉祥文様の唐草を取り入れてみてくださいね。
 
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 下の 「イベントのお知らせ」 もご覧ください ↓
 

イベントのお知らせ

2007年08月29日 | 和楽印 めだか工房
 
 雪月花の「和楽印 めだか工房」は、「スタンプカーニバル」に参加しています。「スタンプカーニバル」は、スタンプ関連の企業・出版社・個人ショップ・スタンプクリエイターたちが一堂に集う日本初のスタンプ専門イベントです。消しゴムはんこやスクラップブッキングにご興味のある方は、ご家族やお友だちをお誘い合わせの上、ぜひご来場ください。

 詳しくはこちらをクリック!
 日本初のスタンプ専門イベント スタンプカーニバル

 ブログもあります ↓
 「スタンプカーニバル便り」 by スタンプカーニバル実行委員会


 ◆ ご招待券をプレゼントします ◆◆◆

 この「スタンプカー二バル」へのご招待券二枚一組を二名の方に差し上げます。(入場料 800円 が無料になります) ご希望の方は 一筆箋 に下記の三つの事項を必ずお書き添えの上、送信ください。

 ・ お名まえ(ハンドルネーム可)
 ・ あなたのメールアドレス(正確に記入ください)
 ・ おたより欄に「スタンプカーニバル招待券希望」と記入ください。

 ※ 応募者多数の場合は抽選とさせていただき、ご招待券の発送をもって
  当選者の発表と代えさせていただきます。


 ご応募は 9月3日(月)まで 受け付けております。
 → お申し込みの受付は終了いたしました

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処暑

2007年08月23日 | 季節を感じて ‥一期一会
 
 処暑の候、今日の空は厚い雲に覆われていて、わずかな間でしたけれど雷鳴をともなう激しい雨になりました。掃除機を動かしていた手を止めて窓を開け、気持ちのよいシャワーに町中がうるおうのをながめていると、雨が風に流されるたびに木や草や土の匂いを運んできます。これが夏の残り香なのかな‥と、雨にけむる家並を見つめながらその匂いを胸いっぱいに吸いこみました。雨があがると同時に蝉が鳴き出し、雲間からにぶく陽の光が射し始めています。


 母とともに、涼をもとめて東京の奥座敷の山へ出かけました。標高およそ830メートル、気温は都心より10℃低く、山をわたるさわやかな風に下界の炎暑をひととき忘れることができました。八月中はレンゲショウマの花を目的に訪れる観光客でにぎわう山で、写真のほかにも、レンゲショウマの花に気をとられていると見逃してしまいそうな、ちいさな花がたくさん咲きそろっていました。コアジサイ、タマアジサイ、キヌタソウ、オクモミジハグマ、ミズヒキソウ、そして名を知らない草花。山路をゆけばどこからか水や葉ずれの音が聞こえてきて、耳をすませていると、あらゆる雑音や騒音に満ちた暮らしにいつのまにか慣れてしまっている自分に気づきます。麻痺していた五感が正常な状態にもどってゆくとき。都市に生き、文明の恩恵を享受する人間は、生活の合間にこうした時間をバランスよく取り入れてゆかなければ、どこかにひずみを生じてしまいそうです。
 
 仏語の「悉有仏性」は「悉くの存在は仏性である」と知ってから、すべてはかけがえのないいのちなのだと思えるようになったといえば、ウソになります。ただ、ふと出合う木や草花の無為無意識な姿を見るたび、そこが山路であろうと街の中であろうと、みなみ仏の姿に思えて、こころの中で手を合わせます。こんなとき、人はこの大きな自然と根はつながっていることを知って「安心」するのでしょう。“意識”というものを得て以来、その根っこにつながるものを断ち切って生きなければならなくなったわたしたちは、安心を失っています。ときにはそれをつなぎなおして心身をリセットしなければ、万物の環からどんどん離れていってしまうでしょう。

 山が好きで、いまも忙しい身でありながら時間を捻出して山登りを楽しんでいる母の気持ちが分かるような気がしました。そう母に言えば、ほんとうの山のゆたかさはこんなものではないと言うにきまっていますから、黙っていましたけれども。
 母を案内するつもりが、「この山はもうずいぶん歩いたわよ」という母に案内されることになってしまい、ちっとも親孝行にならなかった晩夏の山ゆきでした。


 稲光四方(よも)の仏土を照らしゆく (雪月花)

 干天の慈雨に、秋の豊穣は約束されたでしょうか。
 夕空にかかるお月さまの輝きと虫の音が日ごとに増してゆきます。

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鬼灯

2007年08月16日 | 筆すさび ‥俳画
 
 夏の暑さが耐えられないものであればあるほど、秋を待つ気持ちは高まります。芙蓉の初花、精霊流し、法師蝉と秋の虫の音、鰯雲、とんぼ‥ と、残暑の厳しい日々のひとコマに、ちいさな秋をひとつ、ふたつ‥と見つけるのは楽しいものです。わたしにとって、いまは初夏の次に好きな季節。みなさまの身のまわりにも、秋は見つかりますか?


 俳画教室の画題も、「鬼灯(ほおずき)」「蛍袋」「オクラ」「きりぎりす」「虫籠」‥と、夏の季語になる「蛍袋」をのぞいてみな初秋の季に入る風物で、残暑お見舞いに好適な絵がつづきました。オクラの絵って、なんだかユーモアがあるでしょう? 切り口が五稜形(星形)のオクラは手ぬぐいの図案にも見えます。鬼灯は、ご先祖さまをお迎えするお燈明に、またその色は厄除の色に見立てられるのだとか。毎年七月の四万六千日(しまんろくせんにち)に行われる浅草観音の鬼灯市に出まわる風鈴も、いまでは色とりどりですけど、かつては赤色のものばかりだったそうです。

 あかあかと日はつれなくも秋の風 (芭蕉)

 鬼灯の俳画にあるのは、夏深むの思いに秋の気を重ねた句。これは、「秋立つ日よめる 秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」(『古今集』 藤原敏行朝臣)をふまえた句であることはよく知られています。『古今集』のほうは視覚から聴覚にうったえているのに対し、芭蕉は夏の光の中でとらえた秋の“質感”を詠じており、色に着目すれば、和歌においては風が強調されて白(白秋)のイメージにかたむき、句のほうは朱(朱夏)にわずかなすきま風が吹く印象でしょうか。
 鬼灯の色は、あるいは太陽の光り輝くさまを表す「茜(あかね)色」といったほうがふさわしいかもしれません。古くは『古事記』に「あかがち」という古名で登場する鬼灯。もしかすると、先生はそのことを知っていて、この「あかあかと‥」の句を添えたのかもしれません。「あか」は「あけ(緋)」のことで、これもまた茜色につながってゆきます。

 「茜」という色について、江戸小紋染師で重要無形文化財保持者(人間国宝)の小宮康孝氏が興味深いことを述べています。長い時間を経ても変色しない染料を追求した結果、? 天然染料の中でも、色焼けしない藍や茜の成分をもとに合成した染料で染めた反物はいつまでも色褪せないことをつきとめ、さらに、? その染料によって、自然界にあって人間にはつくり出せない「集めれば無色透明になる光の色」に近い色を出せるようになった、というのですね。とても深くて重みのある言葉だと思うのですけど、自然界のつくり出す「集めれば無色透明になる光の色」とは、いったいどんな色なのでしょうね。鬼灯は、この光の色をきっと含んでいるのでしょう。


 送り火や無限の闇に幾千仏 (雪月花)

 十六日夜、京都では盂蘭盆会をしめくくる五山送り火が行われます。この日の午後7:30より、NHK総合とNHKBSハイビジョンで「京都・五山送り火」が放映されますので、ぜひご覧ください。魂送りが済めば、ひときわ暑かったこの夏もすこしずつ遠のいてゆくことでしょう。みなさま、くれぐれもご自愛ください。

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夏深む

2007年08月09日 | くらしの和
 
 連日の夏日のせいでしょうか、町中の木々に病葉(わくらば)が目立ちます。気休めに水を打ってみたところで焼け石に水、ひと雨ほしいところです。つい「暑い‥」と口にしそうになったとき、思い出した言葉がありました。「(新潟県中越沖)地震に遭われた方々の心情を思えば、大抵のことは何でもないでしょう」─ ひと月前のプレゼント企画に応募くださった三重にお住まいの方(女性)のメールにありました。こんな思いやりの気持ちを、忘れないようにしたいものですね。
 毎年立秋をむかえますと、夜風にゆれる草叢から虫の音が聞こえてまいります。立秋なんてまだまだ暦の上のことと思っても、虫たちは風に新涼を感じるのでしょうか。夜風にあたりながら、秋の虫の初音をさがしています。

 夏ふかき野辺を籬(まがき)にこめおきて 霧間の露の色をまつかな
 (藤原定家)

 余談になりますが、二日前に道元のことをネットで調べていましたら、「日本文化と仏教」(平成16年3月、『仏教文化』 107号に掲載)と題した宗教学者・山折哲雄氏の講演をまとめたページに遭遇し、その内容が前回の小記事「雪月花」とほぼ同じ視点から述べられていることを知って驚いています。ご興味がありましたら、こちら をぜひ読んでみてください。わたしは、これまで山折先生の著書を読んだことがないので、今後いくつか当たってみようと思っています。


 さて、葉月を迎えてまもなく、毎年祇園祭を案内してくださるまさおさんから、京都の疫神社の茅の輪が届きました。お手製です。(左の写真) 先月三十一日に行われた疫神社の夏越祭をもって、今年の祇園祭は無事終了しました、というご報告とともに「蘇民将来のご加護を雪月花さんとその周囲の皆様とともに分かちあえますように」とのお言葉が添えられていましたので、ここにご紹介します。疫神社は八坂神社の摂社で蘇民将来を祀っており、牛頭天王(素戔嗚尊 スサノヲノミコト)を御祭神とする八坂神社との関係は古く、どちらも平安期から産土神(その土地の守り神)として信仰されてきました。蘇民将来の説話は、みなさまもご存知のことと思います。

 中央の写真は、いつも当ブログに率直な所見を寄せてくださる紫草さんのいけばなです。御庭に咲く花を手折り、茶花としてお床に挿したものを写真におさめてしばしば送ってくださいます。花は遠州槿(えんしゅうむくげ)、花器は丹波焼の花入れ。メールに「『槿花一朝夢』とか『朝開色鮮』と申しますが、朝鮮の国名は前詩を取り入れたとの事、国花にもなっています」とありました。朝咲きの初々しい純白の花一輪、なんとも涼しいですね。昼にはもう萎み始めるはかない一日花ですけど、つぼんだ後の姿もぜひ見てあげてほしい花です。一重の槿は、翌朝にはつぼみにもどるように、きちんと身じまいをして枝を離れます。

 ミニトマトとピーマンは義父母の畑から収穫しましたものです ^^ たくさん分けてもらったので、毎日のようにトマトやピーマンを使った料理をつくっています。主人の実家はすぐそばまで山が迫っており、蝉時雨に目覚め、蝉時雨に夜が更け、時折ホトトギスやウグイスの声が蝉時雨にまぎれて聞こえます。午前中の涼しいうちに義父は畑で野良仕事、義母は洗濯、義姉は朝ごはんの片付け、主人は義父の手伝いや洗車、わたしは掃除‥とすぎてゆき、昼食後にみなで畳にころがって小一時間ほど昼寝をし、日が傾き始めますとめいめいまた外出したり読書をしたりお茶を囲んだり‥という具合に、里の時間はゆっくりとすぎてゆきます。「あれ‥、これはどこかで経験したような気がする」とふと感じて、ふり返ってみましたら、幼いころに愛媛の祖父母の家ですごした夏とまったく同じ時の流れであることに気づきました。父もまだ元気で、家族で楽しくすごした山里の夏のひとときが、ふつふつとわたしの中によみがえってきました。

 ふるさとの畑みのれる盆休み (雪月花)


 有難いことで、みなさまからのいただきものがほかにもあるのですけど、今回は掲載しきれませんでした。また機会を見つけてご紹介したいと思います。厄除のお守りと涼花を届けてくださったおふたりへの感謝とともに、この夏のみなさまのご健康とご多幸をお祈り申し上げております。
 今週末から夏休み(お盆休み)というご家庭も多いことと思います。すてきな夏の思い出をつくってくださいね。

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雪月花

2007年08月02日 | 雪月花のつぼ ‥美との邂逅
 
 梅雨明け宣言を聞かないまま、葉月はさわやかな夏空で明けました。昨日は一日かけて虫干しをしまして、家の中も気分もすっきり。週末は花火大会へ出かけて、短い夏を味わいたいと思います ^^
 先日、『日本の伝統文様事典』(片野孝志著、講談社)に「雪月花」の紋を見つけて、さっそく消しゴムはんこにしてみました。(左端の画像) 「雪輪」と「月」を組み合わせて輪花文風にしたものでしょうか。めだかの印とともに、今後愛用したいと思っています。

 七年前、自分のホームページを開設するきっかけとなった言葉を思い出します。「日本文化のアイデンティティとは、季節感ではないか」─ 深く感じるものがあって、これをわたしなりにホームページに具現したいという思いから出発して七年がすぎました。「雪月花 季節を感じて」というタイトルはずっと変わりませんけれども、この七年の間に「雪月花」への思いは大きく変わりました。備忘録のつもりで、それをここに書き留めておこうと思います。


● 「雪月花」は日本の季節感と美の象徴?
 タイトルを「雪月花」にした理由は単純。きれいで、そして「日本文化のアイデンティティ」であるという季節感と、その美を代表するものを集めた言葉だったからです。(われながら浅はか) でも、いったい「雪月花」はどこから来た言葉なのでしょう。それは二年後、読者の方から教えていただきました。

 琴詩酒友皆抛我 雪月花時最憶君 (白居易 『寄殷協律』 より)

「雪月花の時、最も君を憶(おも)う」‥ 琴詩酒の友はみな去った。いま雪月花に親しむとき、君(遠い任地にいるかつての部下のこと)をなつかしく思い出す。ちなみに、この歌の花は桜ではなく梅で、『万葉集』にみられる日本最古?の雪月花の歌もまた、梅を詠んでいます。

 宴席詠雪月梅花一首
 雪の上に照れる月夜に梅の花 折りて送らむはしき子もがも
 (大伴家持)

 白居易も家持も、自然の姿に相手を思いやる気持ちを重ねたことでは同じでしょうか。「雪月花」には、美しいものに触れたとき、それを共有したい友や縁者への思いやりがこめられているのかしらと、(当時は)思ったことでした。

● あるべきよう
 作家の川端康成が、ノーベル文学賞受賞記念講演で発表した挨拶文『美しい日本の私』の冒頭に、

 春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷(すず)しかりけり
 (「本来の面目」 道元禅師)

が紹介されています。「本来の面目」というくらいですから、春に花が咲き、ほととぎすが夏を告げる‥という、至極当然なことを並べただけの歌なのですけど、当然のことが当然にあることへの気づきとよろこびに満ちており、これを禅語は「無事是貴人」ともいっています。さらに、道元禅師に学んだ良寛の辞世が、同じ内容の歌であることも同書から知りました。

 形見とて何か残さん 春は花 山ほととぎす 秋はもみぢ葉

 わたしにとって、このときが道元と良寛との初めての出会いだったのですけど、このふたつの歌が、さらにわたしの好きな『徒然草』第十九段の「折節の移りかはるこそ、ものごとにあはれなれ‥」や、芭蕉の『笈の小文』の「造化にしたがひて四時を友とす」の文とも重なって、雪月花を愛でるこころというものを教わりました。
 そんなころ、旧ホームページに綴りましたのが「雪月花のこと」(2005年8月7日付記事)です。毎年めぐり、日々うつろい、自分がこの世を去った後も繰り返される四季というものの在り方に対して、なんの解釈も持たず、ただ有難く受けとめてゆく暮らし。それが、「雪月花」の極意なのかという思いを抱いて書いたのでした。

● 悉有仏性(しつうぶっしょう)
 『平家物語』に、平清盛から寵愛を受けた白拍子・祇王が、もうひとりの白拍子・仏御前の出現によって、清盛から見離されたときの歌があります。

 仏も昔は凡夫なり われらも終には仏なり
 いづれも仏性具せる身を 隔つるのみこそかなしけれ


これは、仏語の「悉有仏性」(一切の衆生は仏性をそなえていること)を踏まえて、祇王が舞いながら清盛に哀訴した歌ですけれども、このとき覚えた「悉有仏性」の意味を、わたしはずいぶん長い間誤解していたことに、最近ようやく気づきました。それまでは、「悉有仏性」を「悉(ことごと)くに仏性有り」、つまり、この世のものすべてに仏性が宿っている、と読んでいました。ですので、仏教(とくに禅)の修行とは、自分の中にあるはずの仏性を見つけ出すためのものと考えていたのです。
 ところが、道元禅師の教えを説いた本の中には、こうあります。

 「悉く仏性有り」と読むとき、‥一つの物体の中に、たとえば私の中に、仏性と仏性でない場所が混在している、一つの体の中に尊いものとそうでないものが混在している、そんなひびきがあります。
 道元さまの読みはそうではありません。「悉有は仏性なり」とまっすぐにお読みになるのです。「有」というのはあるなしではなく、存在そのものをいうのです。存在そのものが即仏性だというのです。むしろ仏性が縁にしたがって無限の展開をして、犬となり猫となり、皆さんとなり私となったのだということです。

 (青山俊菫著 『道元禅師に学ぶ人生 典座教訓をよむ』 より NHKライブラリ)

 まずかたちを持たない仏性があり、それが縁と仏の“御はたらき”によって、さまざまな目に見えるかたちとなって展開(出現)する、というのです。そうしてこの世に現れた存在は、すべて有限である。これが、禅のいう「無から有を生じる」ということでしょうか。さらに、(深読みすると本筋から離れそうですが)これは、この世のすべては根っこのところ(仏性)でつながっている、と読み替えられないでしょうか。

● 「雪月花」 ─ み仏の声を聴く
 そこで、わたしはもう一度、道元と良寛の歌にもどらなくてはなりませんでした。ふたりの禅僧が同じように「雪月花」の歌を残したことを、あらためて考えなおすために。
 雪も、月も、花も、わたし自身も、仏さまの御はたらきによって仏性からこの世に生じたというなら、かれらの歌は、そのままお釈迦さまのお言葉であり、ご意思であり、その大いなる御はたらきを述べたものとして受け取るべきではないでしょうか。
 同書によれば、仏教においては仏の御はたらきのことを「実相」と呼び、これを言葉よりも重んじるのだそうです。花が散るという事実があって、そこから言葉が生じる。道元が「まず見よ」といい、文字や目に見えないものの存在を信じなかった理由もここにあるのでしょう。
 いまは、「雪月花」はお釈迦さまの声であり、また「雪月花」の歌は、「み仏の声に耳をすませなさい」という道元と良寛からのメッセージと受けとめています。


 上記のようなたいそう偏ったわたしの考えが、これから先もどのように変化してゆくかは分かりません。仏さまの現れ方はさまざまで、どんなかたちになって現れるかなんて、わたしのような凡夫の知るところではないのですから。
 今後また、「雪月花」に何かの気づきがあったとき、ここに書きたいと思います。

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 一筆箋


※ 今回ご紹介した 『美しい日本の私』 『徒然草』 『道元禅師に学ぶ人生 典座教訓をよむ』 は、
  さくら書房 で紹介しています。ご興味がありましたら読んでみてくださいね。

※ 2007年9月9日(日)まで、東京国立博物館平成館にて、特別展・足利義満600年御忌記念
  「京都五山 禅の文化」展が開催されています。

 
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