雪月花 季節を感じて

2005年~2019年
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かぼちゃ

2008年08月29日 | 筆すさび ‥俳画
 
 今月の俳画の画題は「かぼちゃ」でした。かぼちゃは三秋(初秋、仲秋、晩秋)の季語だそうですが、八月初旬のお教室だったせいでしょう、お手本には夏の句「日焼けせし裸の子らにむかへられ」(香雲会句)がありました。「冬至かぼちゃ」として、年末にも使える絵です。

 食べものを描くとき、① 下のほうに描かない、② 絵の真上に文字を置かない、の二点に留意しなければいけませんのに、色紙におさめたときつい文字が上にきてしまいました。はがきでも、短冊でも、文字とのバランスがむつかしい絵です。

 「かぼちゃ」の名は原産地のカンボジアをもじったもの。「とうなす(唐茄子。西洋の栗かぼちゃに対して、日本かぼちゃのことをいう)」「ぼうぶら」などの異名をもちます。そうそう、大阪方面はかぼちゃを「なんきん」と言うのでしょうか。


 ふぞろひの南瓜選(よ)る目が集ひけり (雪月花)

 かぼちゃのおいしい季節。わが家はほぼ毎週かぼちゃの甘煮をつくります。すこし濃ゆめに味をふくませてこふきにし、温かいうちに白ごまをたっぷりふる。ほくほく、まるでお菓子のようです ^^


 かぼちゃプリンもつくります。これ、裏ごしをしない、オーブンも使わない、蒸し焼きプリンなんですよ。


 うふふ。かぼちゃって、色もお味も秋ですね ^^


 ‥あら、俳画の話でしたのに。最近、食べもののことに傾きがち ^^ゞ
 (だって食欲の秋ですもの ^^)

 かぼちゃや、ぴっかぴかの新鮮な秋刀魚を調理しながら、五感で秋を感じています。
 

水ようかん

2008年08月26日 | 季節の膳 ‥旬をいただく
 
 毎年楽しみにしているご近所の庭の酔芙蓉が開花しないうちから、すっかり秋の長雨の様相です。夏の間活躍した扇風機も、部屋のかたすみでひっそり。雨音をききながら、読書の秋は何を読もうかなぁと思案中です。


 旬をすぎてしまったお菓子ですけど、残りのつぶあんで水ようかんをつくりました。上品な甘みとつるりとしたのどごしが後を引きます。夏にかぎらず、一年中常備しておきたくなるおやつです。


 凝固剤はアガーを使います。透明感・光沢・やわらかさにおいてはゼラチンや寒天よりすぐれているので、水ようかんにぴったり。なめらかな表面から、うっすらとつぶあんが透けて見えるのがきれい ^^


 羊羹といえば、夏目漱石の『草枕』の一節。

 「菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹が並んでいる。余は凡ての菓子のうちで尤も羊羹が好きだ。別段食いたくはないが、あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた練り上げ方は、玉と蝋石 (ろうせき) の雑種のようで、甚だ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生まれた様につやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる。

 当時、羊羹は贅沢な菓子だったかもしれませんけど、漱石によって美術品にまで格上げされました(笑 漱石は本郷三丁目の藤むらの羊羹(『吾輩は猫である』に登場する)を好んでいたのだとか。
 さて、その漱石の羊羹観をさらにすすめたのが、谷崎潤一郎です。

 「かつて漱石先生は『草枕』の中で羊羹の色を讃美しておられたことがあったが、そういえばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光を吸い取って夢みる如きほの明るさを啣(ふく)んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。‥(中略)‥だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑らかなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。
 (谷崎潤一郎著 『陰翳礼讃』より)

 羊羹も、ふたりの文豪にたたえられて、さぞかしうれしかったでしょう。
 谷崎の「瞑想的」菓子という表現が気に入って、さっそく水ようかんを塗りものの菓子器に入れてみました ^^ゞ


 うーん、ここはやはりこしあんの煉羊羹でなければ、感じが出ないようです ^^;


 お遊びはこのくらいにして、いただきまーす♪
 つぶあんなので、中はつぶつぶ ^^


 水ようかんはこしあんが一般的なのでしょうけど、主人もわたしもつぶあんの食感にしあわせを感じるんです♪


 こんな、特別なお道具の要らない手軽な和菓子のレシピを集めたいな~とおもいます ^^
 

花火をつつむ

2008年08月22日 | くらしの和
 
 昨夜は激しい雷雨ののち急激に気温が下がり、つめたく冷えた風は草の匂い、蝉の声は消え、虫の音が高らかに聞こえた夕べでした。今朝はまるで高原にいるようなさわやかさです ^^

 八月も残すところあと十日。子どもたちの夏休みも、北京オリンピックも終盤です。秋の気配を身近に感じると、「そろそろ、夏を送らなきゃ」というきもちになります。毎年とくべつなことをするわけでなく、お線香を焚いて夕涼みをしたり、手花火で遊びながら、この夏も元気にすごせたな、お出かけも花火大会も楽しかったな‥とおもいつつすごします。

 花火も、この季節なら線香花火。牡丹、松葉、散り菊‥と、わずかな時間にうつろう炎のようすは、「和火」という名にふさわしい風情がありますね。

 折形の本に、線香花火のつつみ方を見つけまして、さっそく折ってみました。漢字用半紙を四つ切りにしたサイズの半紙で、かんたんにできるんですよ。折形に線香花火をつつみ、紐をかければできあがりです。


 紐は、上向きの結び切りに。(下向きは弔事のときですね)


 こんなふうにして、夏も終わりに近づくころ、知人や友人に分けます。ちょっとステキな贈りものでしょ?(‥と、勝手にいい気分になっています ^^)

 この折形は 『半紙で折る 折形歳時記』(折形デザイン研究所編著、平凡社刊 ※)に載っています。ぜひお試しください。


 迎え火や送り火にも見立てられてきた花火は、秋の季語。手花火で、夏を送り秋を迎えることにいたしましょう。

 手花火の消えて庭なお闇深む (雪月花)


※ 『半紙で折る 折形歳時記』 は さくら書房 で紹介しています。
 

夏野菜

2008年08月19日 | 季節の膳 ‥旬をいただく
 
 わが家の夏の定番料理、ラタトゥイユ。義父母の畑の野菜でつくっています ^^
 トマト、ピーマン、なすび、紫たまねぎ、それにきゅうり‥は主人が嫌うので、代わりにセロリを入れて食感を出します。きゅうりはぬか漬けにして、わたし専用のおかずに。ぬか床は元気です ^^

 ラタトゥイユは仏南部地方の名物だそうですが、野菜の水分だけで煮込むヘルシーな料理ですね。クツクツ煮ながら「夏だなぁ」としみじみおもうんです。弱火で30分ほど煮たら、ゆっくり冷まして冷蔵庫へ。一日ねかせてからいただきます。ひんやり、夏を味わう一品。オムレツに添えたり、パンにのせ、とろけるチーズをちらしてトーストで食べたり。

 子どものころから夏野菜が大好きで、母がまな板上でトマトやきゅうりをスライスするそばから手を出して食べました。夏野菜は体を冷やすから、唐辛子・しょうが・ねぎ類などの体を温めるものといっしょに調理するレシピも多いですね。


 先日は、階下の奥さまからとっても甘いとうもろこしをいただきました。さっそくゆがいて、バターじょうゆで焼きとうもろこしに。


 主人いわく、「焼きとうもろこしって、夏まつりの味だね」。


 台所は、家外の自然とつながっている場所。すこし前までは、いまよりずっと密につながっていたでしょう。これからは、その関係をつなぐ努力をしなくては‥とおもいます。


 夏野菜煮くずれてゆく鍋の中 (雪月花)

 夕刻の草叢から秋の虫の音が聞こえます。夏と秋の同居を感じるようになりました。



  ぬか漬けは、冷蔵庫に入るコンパクトなぬか床専用ホーロー容器を使っています。その名も「ぬか漬け美人」(野田琺瑯製)。蒸し暑い夏は冷蔵庫で管理できますし、毎日かきまぜる必要がないため数日間留守をしても安心です。
 写真はきゅうりとセロリ。唐辛子、昆布、しょうがなどを入れて風味づけをしています。主人はぬか漬けが苦手で、漬けるのはわたしの分だけ。(ちょっとさみしい)
 ぬか漬け初心者なので、これからがお楽しみ ^^♪

 

遊洛とはずがたり 四 『平家物語』 をたずねて

2008年08月15日 | 京都 ‥こころのふるさと
 
 四 『平家物語』 をたずねて

 『平家物語』が好き。八年前の五月、放火による大原寂光院の本堂焼失という衝撃的なニュースは忘れない。再建されたお堂を拝するべく、旅のおわりに平家滅亡後の建礼門院の隠棲地を訪ねることにした。


 三尾は京の町からそう離れていず、「京に田舎あり」の感がつよいが、大原はいまなお「かくれ里」の趣きがある。車道がなければ、黒木をかついだ大原女が歩いていてもおかしくないようにおもわれる。

 乗客のほとんどはバスを降りるといっせいに三千院をめざす。が、わたしたちは反対方向の寂光院へ。谷川づたいにみやげ物店のつらなる三千院の参道とちがい、青田も清々しい田舎道をすすむと、「宮内庁管轄」と大きく書かれた建礼門院大原西陵の入口にたどり着く。まずは建礼門院の御陵に一礼。そして、緑陰をもとめるように寂光院へ向かう。

 『平家物語』灌頂の巻に描かれた寂光院は初夏だ。「庭の若草茂り合ひ、青柳糸を乱りつつ、池の浮き草波にただよひ、錦をさらすかとあやまたる‥」の名文は、冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり‥」と呼応するように無常観をただよわせるが、庭の草木は八百年前の当時とさほど変わっていないのではないか。無常とは、人の世のことにすぎないのだろう。
 後白河法皇の大原御幸は史実であるかどうかさだかではないようだが、“日本一の大天狗”といわれた後白河法皇こそ、平家を滅亡させた張本人ともいえるのだから、この侘びずまいに法皇をお迎えしたときの女院のお気持ちを考えると、こころが痛む。

 青苔のゆたかさにすぎた歳月をおもいつつ、いったん寂光院を出、そこからさらにいくらか道をのぼったところに今回の目的地はあった。イノシシよけとおもわれる金網扉を開けて山道に入り、すぐ左手の石段をのぼりきったところに、薄幸の女院を支えた侍女たちのささやかな墓石が四基、肩をならべるように立っているのである。
 それはもうちいさな墓石で、すっかり風化しており、いったい四つのどれが阿波内侍(あわのないし)・大納言典侍(だいなごんのすけ、平重衡の妻)・右京太夫(うきょうだいぶ、平資盛の恋人)・治部卿局(じぶきょうのつぼね、平知盛の妻)のものなのかさえ分からない。杉木立につつまれ、あたりは晴れた日の昼間でもうす暗い場所で、手入れのゆきとどいた寂光院の境内とは対照的。それだけになおあわれで、自然手を合わせ、しずかに冥福を祈る気持ちになる。

 建礼門院徳子とその侍女たちは、人生の絶頂と地獄をわずか数年の間に経験した。建礼門院だけではない。当時を生きた者たちは、みな平家の栄枯盛衰を目の当たりにし、この世の闇を実体験したのである。それをおもえば、平忠度や女院が遺した和歌だけでなく、『新古今和歌集』、西行の足跡、『方丈記』に『徒然草』など、すべてその根底を『平家物語』と同じ無常観が流れていることにあらためて気づく。かれらは、たんにおもうに任せない世をはかなんで歌の道にすすんだり、美の世界に没頭したのではない。そこには、この世の地獄を生き抜くための命がけともいえる「諦観」があり、闇をつけぬけた一種の明るささえ感じられるのである。このことを忘れては、中世という時代の本質を見誤るとおもう。死を見すえ、なお生を謳歌する諦観。これが、その後もずっと日本の文化の底流となっているのではなかろうか。


 大原の里は、しば漬け用の茄子の仕込みに忙しそうであった。
 三千院にてお写経を納め、大原の里をあとにした。
 

 <追記>
 帰京後、寂光院の略縁起に目をとおしていたら、「翠黛山(すいたいさん)には、阿波内侍をはじめとする五人の侍女の墓地群が所在する」とあるのに目がとまった。はて、五人? 四人ではなかったの? と不思議におもい、すぐに寂光院に問い合わせてみた。すると、寺の縁起によれば、五人とは、阿波内侍・大納言典侍・師典侍(そちのすけ、平時忠の妻)とその娘(名は不明)・治部卿局だという。つまり、右京大夫の代わりに、師典侍とその娘が加わっているのだ。墓石もちゃんと五つあるそうで、師典侍の娘の墓石はほかの墓石の前か後ろにあって、ちょっと分かりにくいらしい。気づかなくて残念だった。
 じつは、五人のうち、女院に最後まで仕えたのは阿波内侍と大納言典侍の二名だけだったと、奈良本辰也氏はその著書 『京都百話』(角川ソフィア文庫 ※)に書いているし、女院は晩年になって大原の里を出られ、京にもどって崩御されたという説もある。謎は深いが、謎は謎のままにしておこうとおもう。



北観音山 @ 河原町通り
 後祭の先陣を切る曳山・北観音山。御神体は楊柳観音と韋駄天像、鳴滝産の真松をいただき、後部に柳の枝をつけ、山の装飾品も繊細かつ華麗で見ごたえがあります。浴衣と小物の意匠、お囃子と音頭の息のピッタリ合った調子もたいへん美しいです。曳き子さんたちが草鞋で足を傷めないよう、足袋型のストッキング?を用意していたことに感心しました。
 毎年祇園会についてご教示くださるまさおさんが、新町六角に通うようになってから来年で十年?でしょうか。記念年に向け、すでに六角会では新年会が行われたそうです。宵山の日、日和神楽を待つ祇園囃子の中で、「わたしたちが死んでも、祇園祭はずっと生きつづけるんですよね」というまさおさんの奥さまのお言葉が印象的でした。
 今年も有難うございました ^^



※ 『京都百話』 は さくら書房 で紹介しています。
 

遊洛とはずがたり 三 文化都市の条件

2008年08月12日 | 京都 ‥こころのふるさと
 
 三 文化都市の条件

 東京好きの京都人が、「東京は日本の経済都市、京都は日本の文化都市である」という。少々腹立たしくはあるが、京都好きの東京者としては肯定せざるをえない。最近の京都に失望することはすくなくないが、京都を焼き尽くした先の戦い(京都人にとって、五百年以上前の応仁の乱のこと)以降も、京都人はしたたかに生きつづけ、禁裏が東京に遷ったのは一時的なできことであり、王城の地はいまもここであると信じる人たちが、遷都後の京を支え、根こそぎ文化を失うことを防いだ。「信じる」ということは、存続と文化継承のためにとても大事なことである。


 話は変わるが、わたしは「京都のどこが好きか(おすすめか)」と問われると、「御苑と鴨川。」と答える。そう言うと、たいていの人は「?」という顔をする。きっと、もっと別の、分かりやすい名所を期待していたのだろうとおもいながら、もう一度「ぎょえんと、かもがわ。」と言う。こんなに京都らしい場所はないもの、とおもっているから。

 京都御苑は、なんといっても京都のセントラル・パークである。いまでこそ市民の憩いの場といわれるが、むかしからそうだったわけではない。かつてそこに、紫宸殿を中心とした禁裏を守護するように、宮家や公家の邸宅が所狭しと建ち並んでいたことを忘れてはいけない。「近衛邸跡の糸桜」とか、「一条邸跡の大銀杏」が話題になるようになったのは、明治の遷都後のことであり、京都人にとってはごく最近のことなのだ。
 光源氏さながらの公達も、出入りの陰陽師、御用絵師や庭師もここを歩いた。夜になれば、怨霊や魑魅魍魎が暗躍したろう。そんなことを想像しながら御苑を歩けば、「洛中洛外図」」さながら広大な空から俯瞰した花の都がまざまざと目に浮かんでくる。御苑は歴史的時空のエア・ポケットであり、タイム・トラベルだって可能にしてくれるのだ。夏雲や公達どもが夢のあと。ここにいれば、市街の喧噪はもう聞こえてこない。


 祇園会の交通規制のため、予定外の川端通りでバスを降ろされたわたしたちは、暑さをしのぐため鴨川縁の遊歩道を歩くことにした。車道の騒音が気にならないし、草叢に青鷺が羽を休めていたり、白鷺がじっと獲物をねらっている姿などを楽しめる。犬は水浴びに夢中だし、飼い主は膝から下を水につけて涼んでいる。四条大橋付近の川床の桟敷は夕刻の客を静かに待っている‥。そう、ここには京都の日常がある。
 もちろん、こちらもむかしはこんなにおとなしい川ではなかった。ひんぱんに氾濫し、京の人々を長年悩ませてきた。疫病や兵火にたおれた人の亡骸が累々と積み重ねられ、それらがそのまま流されていたこともある。六条河原や三条大橋のたもとには、数知れない首がさらされた。鴨川の水は、京都の人々にとって生きる糧である以上に、死ととなり合わせのものだったのだ。だからこそ、この地に文化が育ち、花ひらいた。なぜなら、文化とは、多かれすくなかれ“禊(みそぎ)”と“鎮魂(たましずめ)”という意味をもつものだから。


 過去(あるいは霊界)と現在を行き来できる場所がある。長い間、人の生死に関わってきた水の流れがある。御苑と鴨川が、京の文化を育て、根づかせたのである。そういった意味で、京都に匹敵するほどの文化は(一部を除いて)東京にはないし、育たない。‥とおもっている。




お榊と「蘇民将来子孫也」
 祇園会の主役といえば、八坂神社(祇園社)の祀る牛頭天王(スサノオ)ですが、山の神さまも関わっていることを今回初めて知りました。宵山の日に行われる「採燈大護摩供」では、聖護院門跡の修験僧が山伏姿で山町をめぐりつつ奉経し、最後に役行者山において山伏問答および護摩修法を行って御神体を勧請します。山伏と役行者、つまり山岳信仰と結びついているのですね。これは、北観音山の作事方をつとめるまさおさんから伺った話で、わたしは見たことがないのですが、聖護院は天台宗系の修験道寺院であることから、修験僧が一時比叡山を下り、山町に神を勧請して巡行の無事を祈願くださるのでしょう。
 ほかにもたくさんの祭神さまがいらっしゃる祇園祭。まだまだ興味は尽きません。

 

遊洛とはずがたり 二 ひと目惚れ

2008年08月08日 | 京都 ‥こころのふるさと
 
 二 ひとめ惚れ

 時折訪ねるうつわのお店のご主人は、買い付けのためにしばしば京都へゆかれる。ある日「初めて東寺へ行ってみたのですが、よかったですよ」と目を細め、まだならぜひ行ってごらんなさい、とすすめていただいた。

 東寺(教王護国寺、世界遺産)。といえば、京都を舞台にしたテレビ番組にかならず映るあの五重塔。新幹線の車窓に五重塔が見えると、「また京都に来た」と期待感はいっそう高まる。ところが、それですっかり東寺を見た気になっているのは、きっとわたしだけではないとおもう。東寺のことは、五重塔とその大まかな歴史以外、ほとんど何も知らないことに気づいた。

 祇園社に詣でて古札を納め、そこから循環バスに乗って東寺へ向かった。九条通りにバスが入ると五重塔が見え始め、徐々に迫ってくる。門前でバスを降りると、目前に広々とした境内がひらける。手入れのゆきとどいた庭。大きなつぼみをたくさんつけた蓮池は、まもなく花の盛りというころ。その先に、五重塔がそびえる。蓮華の咲きそろうころ、桃色の花のうてなに五重塔が浮かんで見えるさまは、まさに極楽浄土であろうと想像されたし、また境内には意外なほどたくさんの桜が植わっていたから、春は春で満開の桜が堂塔伽藍を荘厳するのであろう。ふと、御室桜が見ごろのころの仁和寺を思い出す。
 それにしても、三代将軍・家光の権力の象徴ともいえる建造物とは、どうしてこうも重々しいのだろうか。荘重といえば聞こえはいいが、東寺・仁和寺の五重塔も、日光東照宮も、近寄ると押しつぶされそうになる。どれも、そばで見上げるべきものではない。

 が、東寺は仏像がすごい。(← ガイドブックの謳い文句にもある) なるほど、国宝・重文級の平安期の力づよい仏像がずらりと並んでいるさまは壮観だ。ところが、そんな歴々の仏さまがみないっぺんに色褪せてしまうほど、容姿端麗な仏像に出逢ってしまったのである。講堂内の守護神、帝釈天半跏像(国宝)である。切れ長の目は半眼、真一文字にひき結ばれた唇に意志のつよさがうかがわれ、沈思黙考の表情であられる。白像に乗り、半跏趺坐したお姿はほれぼれするほど。頭部のみ後補らしいが、どう見ても、当時モデルになった超二枚目の男性がいたことは疑いない。あまり人間くさいからである。

 これほど目の保養になる仏さまは初めてだ。そばにいた主人のことはしばし忘れた。ひと目惚れである。さすがは「日本一端麗な仏像」。“東寺の王子”、帝釈天さまである。


 帝釈天さまに浮かれて、評判の門前菓子屋で“東寺餅”を買いそびれてしまった。


 こちらは祇園会の王子、長刀鉾のお稚児さん。下京区の建築設計会社社長・岡澤浩一氏のご長男・一規くん(9歳)で、長刀鉾の地元の小学校から選ばれたのは、じつに34年ぶりとか。
 巡行直前の長刀鉾を見るため四条通りを歩いていて、「あっ」と驚きました。通りに面して海外有名ブランドの大きなビルが建っているではありませんか。一瞬、自分が(東京の)銀座中央通りにいる錯覚におちいり、ついに京都にも‥と愕然。あと何年かしたら、銀座のように海外ブランドビルが建ち並ぶ四条通りを、32基の山鉾が練り歩くようになるのかしらと、暗澹たる気持ちです。

 

遊洛とはずがたり 一 山寺もうで

2008年08月06日 | 京都 ‥こころのふるさと
一 山寺もうで

 この夏は、知人友人、あるいはそのご両親に心配ごとが多い。温暖化は、すくなからず人体にも影響を及ぼしているのかもしれない。そんな中、ご自身の体調すら不確かなのに、病ともいえない理由で入院したわたしを気遣い、わざわざお寺へ足を運び、観音さまやお薬師さまに手を合わせて回復を祈り、励ましてくださった方たちがいる。頭が下がるおもいでいっぱいである。

 今回は、京都に着いたらまず山寺参りと決めていた。朝早い新幹線で入洛し、荷物を預けてすぐに山行きのバスに乗る。できれば大原野の里や花背くらいまでゆきたかったが、余裕がなく断念、市街からそう離れていない三尾の山々をめざした。
 お祭さわぎの街を逃れたのでなく、最初に訪ねるのが山寺でなければならなかった。温かな心遣いにいくらかでもむくいるため、一歩一歩山道をすすみ、石段をのぼり、山の神仏に近づいてゆきたい。それなら、できるだけ参道は長いほうがよい。ふだんから信心篤く神社仏閣とのおつきあいがあるならいざしらず、残念ながらそうした暮らしではないので、その分をせめて足であがないたいとの、虫のいい考えもあったろう。高雄のバス停を乗り越して終点の栂尾で降り、そこから高雄の神護寺をめざす。

 前日の大雨のせいか、全山水を打ったようにしっとりとしていた。栂尾の石水院を拝観後、槙尾・西明寺をすぎ、草木の香を楽しみながら多少のアップダウンを繰り返して、途中清滝川の瀬音や河鹿の声に涼みながら、神護寺への山道に入る。眼前をふさぐ長い石段を見上げれば、自然気持ちが引き締まる。そこから古色蒼然たるたたずまいの山門までは、ずっと上り坂であるのがよい。深緑の楓に洗われた楼門にたどりつき、森閑とした境内に足を踏み入れるとき、疲れと暑さを忘れてすっかり爽快な気分になるのが、さらによい。そして、薬師如来のまします金堂に達するまで、この霊刹の過酷な歴史をおもうのである。

 頭を垂れ手を合わせ、お世話になった方々の息災を願う。金堂へのきざはしを下りつつ、ふと、これまで幾度も京都に足を運びながら、ついぞこうした謙虚な気持ちで京の寺社を訪れたことがなかったことに気づく。本来そうあるべきなのに、いつも旅行者の目線であったことばかりおもいかえされて悔やまれる。講和に耳を傾け、庭を鑑賞し、お茶をいただいて、季節に彩られた歴史的建造物や宝物を拝んだりするのは、それはそれで感性が鍛えられて有難く結構なことではある。だがしかし、そんなことは、みな“自分のこと”にすぎないではないか。弘法大師や文覚、明恵上人らが、このように社会から隔絶した地を選び、荒廃した寺を再興し、み仏を勧請したのは、何のためだったか。そのことに、およそ十年もの歳月を経てようやくおもい至ったことが、ほんとうに恥ずかしかった。


 不徳者が、有徳者に導かれて山寺に参拝し、ものの見方を大きく変えたのである。何にもまさる収穫だった。これは、旅の効用ではない。わたしのような愚者に一心を捧げてくれた方たちのおかげである。

 今日6日は広島の日。八月は平和への祈りの月である。


 祇園会宵山の風物詩のひとつ、駒形提灯。白熱灯だったものが今年から蛍光灯にかわり、消費電力と二酸化炭素排出量は半分以下に。明るすぎて風情がない‥と不評でも、ことは千年の歴史を誇る祭事も例外ではないようです。
 でも、環境対策なら、もっとほかにすべきことがたくさんあるようにおもう。そう考えるのはわたしだけでしょうか。「地球にやさしく」と主張されれば、何も言えなくなってしまうけれど。

 宵山は昨年より6万人も(!)多い44万人の人出だったとか。一方通行になってしまった筋が多く、今年は日和神楽についてゆけませんでした。

 

文様印(13) うちわ文

2008年08月01日 | 和楽印 めだか工房
 
 東京は真夏日がつづいていますものの、湿度が低いせいか、木陰に入るといくぶん暑さもやわらぎます。かまびすしい蝉の声には、こちらも負けじと元気になれます。かれらのごく短い地上での生を知っているからであり、ようやく暑さに体が慣れたせいもあるでしょう。また、記録的な猛暑がつづき、各地で突風や大雨の被害が出る中で、「何かおかしい」と感じながら、夏が夏らしくあることへの一種の安堵感であるのかもしれません。
 今日から八月。旧暦は文月となり、もうしばらく暑い盛りですね。


 うちわの消しゴムはんこで、「うちわちらし」文の暑中見舞いはがきとカレンダーをつくりました。カレンダーは こちら です。扇の部分は別に彫って、色分けして押しています。

 うちわはもともと中国のものだそうで、奈良時代に日本に入ってきました。透かしを入れた色の美しい奈良うちわは伝統工芸品ですね。
 うちわって、扇子よりもずっと庶民的な感じがしますけど、それは江戸時代に日本独特のうちわがつくられるようになってからのこと。俵屋宗達の扇絵が町衆の間で人気になり、「扇は俵屋」と評判だったのは江戸時代初期ですから、ちょうどそのころかもしれません。それまでは、うちわは死者の霊魂を復活させる神通力があるものとして、高貴の象徴だったのだそうですよ。ひとあおぎするごとに霊力がつく、と信じられていたのでしょうか。なんだか、考えただけで涼しくなりそう~(笑)ですが、夏は霊界との結びつきを深める季節でもありますから、そういった意味でも、うちわは重要な役割を果たしてきたのでしょうね。

 涼風を送る。災厄を祓う。そんなおもいをうちわ文にこめて、みなさまのご健康をお祈りします。


 明日の夜は、主人の里の花火大会です ^^