雪月花 季節を感じて

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琳派への恋文

2006年09月21日 | 雪月花のつぼ ‥美との邂逅
 
 秋彼岸となり、日の出の時刻もだいぶ遅くなりました。曼珠沙華の花はきちんとこの季節に咲きますね。そろそろ衣更えをしなくてはいけません。
 子どものころは母の手づくりのおはぎが楽しみでした。おはぎは、萩の花の大きさに合わせて、春彼岸の牡丹餅(ぼたもち)よりも小さめにつくるのだそうです。すこし手間をかけて、今年は餡をつくってみましょうか ^^

 
 毎年「秋は琳派」と決めこんで、展示会に出かけたり、関連の書を読んでいます。いま話題の東京・出光美術館の「国宝 風神雷神図屏風 宗達・光琳・抱一 琳派芸術の継承と創造」展(10月1日まで)にも、さっそく行ってまいりました。琳派を代表する三者の「風神雷神図」を同時に観る機会に、この世に在るうちに恵まれたことはほんとうに幸せなことです。

温故知新の奇蹟
 せっかく66年ぶりに宗達、光琳、抱一という琳派のビッグスリーがそろったのですから、三つの「風神雷神図」の比較に終始してはつまらないことです。企画展の意図が三者の比較にないことは、図録の巻末、内藤正人・出光美術館主任学芸員による論文にも記されています。
 光琳も抱一も、「風神雷神図」においてはそれぞれの師(光琳にとっては宗達、抱一にとっては光琳)を越えていません。オリジナルの宗達がいちばんであることは当然だし、「風神雷神図」が宗達にとって到達点であっても、光琳と抱一にとっては出発点にすぎませんでした。むしろ、光琳が縁ある寺で偶然に落款も印もない宗達の「風神雷神図」を見出したこと、そして、抱一にいたっては宗達の「風神雷神図」の存在すら知らず、光琳のものこそオリジナルだと思いこんでいたことのほうが重要で、かれらの先達の画境への煮えたぎるような情熱と思慕が、同じ「風神雷神図」でつながったことの奇蹟(!)を思うべきでしょう。今回の企画展は、世阿弥の『花伝書』の教えを地でいったようなかれらの作画態度を目の当たりにする機会にもなりました。

 個性なんてものは、最初からあるものではありません。師に学び、無心に肉薄しようとする気概をもちつづけ、ついに独自の画境に至ったかれらの結論は、「紅白梅図」(光琳)と「夏秋草図」(抱一)でした。今回の出光美術館の会場に、このふたつの絵が無いことが残念でなりません。後世「琳派」といわれた絵師たちの中に、これほどの思いを抱いて私淑し、研鑚を積み、やがて師を越えた人物があったでしょうか。自ら「保守的な立場」とおっしゃる内藤氏と同様に、わたしも「琳派」の拡大解釈には慎重にならざるをえません。

 先達への傾倒と元禄文化の華やかさが光琳なら、抱一にとっては文化文政期のデカダンス(頽廃)が大きく影響したことでしょう。また、「自然を主(あるじ)とし、人間を客とせる」姿勢、さらにかれらが古典文学、古典芸能に通暁していたことも忘れてはなりません。そしてもうひとつ、宗達も光琳も抱一も、権力におもねる絵を描いたことはありませんでした。それが琳派です。


琳派の物語
 おかげさまで、雪月花のWeb書店からぽつぽつ本が売れています。琳派関連の書を購入してくださる方もあり、店長冥利につきます。

 ひとつは『嵯峨野明月記』(辻邦生著、中公文庫)です。本阿弥光悦と俵屋宗達ぬきに語れない琳派ですが、幕府から京都鷹ヶ峰の所領をもらい受け、そこで芸術村を営んだ光悦と宗達は、幕府の庇護下にありながら、いっさい権力にへつらうことなく互いに切磋琢磨して技を鍛えました。当時の幕府の御用絵師だった土佐派や狩野派とちがい、かれらはつねに自然とともにあり、ついに自然と同化した稀にみる芸術家集団だったのです。琳派の源泉は、この小説に凝縮されています。
 昨年の歴史文学賞を受賞した『乾山晩愁』(葉室麟著、新人物往来社)は、天才兄・光琳没後の乾山の苦悩が、やがて晩年の「花籠図」へと昇華されるまでの過程を描いた「乾山晩愁」のほかに、狩野派に直接的・間接的に関わった絵師たち(狩野永徳、長谷川等伯、久隅守景、清原雪信、英一蝶ら)の物語が四編収められています。五編をとおして読めば、琳派と御用絵師たちの生きた世界のちがいは明白で、琳派の純粋芸術に対して、「狩野派」という派閥を背負い、時代の権力と生死をともにせざるをえなかった絵師たちの艱苦をうかがい知る好著になっています。読後はかれらの絵を見る眼も変わるでしょう。また、史実かどうかはともかく、歴史小説ならではのロマンが織りこまれていて存分に楽しめます。光琳が赤穂浪士の討入りを演出したこと、一蝶が「朝廷 対 幕府」という大奥の陰謀に加担していたことなど、歴史の空白への興味はつきません。


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 晩年、江戸から下野(現在の栃木県)の佐野に下向した乾山は、亡き兄・光琳への追慕を、自分のやきものにこめてゆきました。
 京都・鳴滝窯でたくさんの職人たちを抱えて絶頂期にあった弟・乾山に宛てた光琳の手紙に、こんな言葉があります。

‥およそ工人として心がけるべき大切なことは、筆の走りが良いかどうかを批評の対象にするのは間違いで、絵を描く人のこころがいちばん大切なのです。描く人のこころがしっかりしていないと、筆は走るものではない。ただ見た目が美しいというだけでは駄目で、絵は生きていない。それはちょうど女の衣装が美しいと言っているようなものです。工人は色をさまざまに使っているのを綺麗だといって褒められることは本当は恥かしいことと思わねばなりません。‥‥自分のこころで美しいと思ったものを絵付してください。‥‥念のため、一言注意いたします
(『光琳乾山兄弟秘話』より 住友慎一著、里文出版)

 大胆にデフォルメされた装飾的な絵画イコール琳派ではありません。かれらの作品には、古典の世界と自然への畏敬の念、そして、「たましひ」が宿っているのです。
 
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