雪月花 季節を感じて

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一陽来復

2006年12月21日 | 季節を感じて ‥一期一会
 
 東京は冬らしくきんと冷える日がつづいています。寒いのが苦手なわたしはいったんこたつに足を入れますとなかなか出られません。冬は猫になってこたつでまるくなっていたい‥ そんな気持ちなのですが、昨日は勇気をふるって(?)美容院へ出かけ、半年ぶりに髪をまっすぐにのばしましたら、髪もこころもすっきりかる~くなりました。こんな感じ‥ │^^│♪

 この冬義父母の畑で聖護院だいこんがとれたので、かぼちゃよりも大きなのをひとつもらって帰りました。長ねぎは葉の根もとに包丁を入れますと切り口から無色のどろっとしたぬめりが出て、まるで九条ねぎのようです。甘みがつまっているのでしょう、小口切りにせず大きめのひと口大に切ってたっぷり食べています。さらに青首だいこんが数本と里芋もたくさん。キッチンでねぎや根菜を煮炊きする日がつづいています。
 冬といえば、身体が温まって、野菜をたっぷり食べられて、食後の後片付けも簡単なお鍋がいちばん!ですね。みなさまはどんな鍋料理がお好きですか。最近のわが家のお気に入りは、ごま風味のすきやき風お鍋です。土鍋にごま油で香りづけしたたっぷりの鶏がらスープに好みの野菜、豆腐、牛肉を入れ、すきやき風に生卵のタレでいただきます。野菜とお肉を平らげた後は、スープを好みで味付けして中華麺を入れてごはん代わりにします。食欲をそそるごま風味のスープにピリ辛のタレが合い、食がすすみます。(NHKのある番組で紹介していたレシピです。詳細は こちら をご覧ください)


 冬至の日しみじみ親し膝に来る (富安風生)

 22日は冬至です。冬至は冬初めといいますけれども、この日をさかいに畳の目ひとつ分ずつ日脚が長くなるそうですから、「冬初め」より「一陽来復」という言葉のほうが有り難く感じられて、なにとなく気持ちも浮き立ってまいります。わが家の食卓には冬の太陽のような柚子がひとつ、柚子湯につかるのをまっています。

 きょうは あしたが たのしみ。

 これは「第10回手帳大賞 身近な人の名言・格言部門」で受賞した言葉のひとつです。5歳の息子がおばあちゃんの家へ遊びに行くのが待ち遠しくて、乏しいボキャブラリーを精一杯駆使して日記に書いた一文です、とお母さんの解説がついていました。この一年、楽しいことやうれしいことばかりではなかったけれど、陰極まって陽に転じるという冬至の日に「あしたが たのしみ」「新しい年(春)が たのしみ」と声に出してみたら、沈みがちな気持ちも軽くなるかもしれませんね。

 冬至、天日回生すといふ日に
 あまてらす神の復(かえ)ると聞く今日は みそらのはての明日ぞこひしき


 * * * * * * *

 今年も雪月花の庵にご訪問くださいまして有難うございました。コメントや一筆箋にみなさまからたくさんの温かいお言葉を頂戴して、毎日のように新しい出会いや発見がありました。また、師走になってからブログをとおしておつきあいをさせていただいている方々の受賞の知らせ(水墨画、写真、随筆)が相次いで届き、たいへん励みになりました。これらを糧に、新年もまた季節になずんだ暮らしのひとコマひとコマを綴ってゆきたいと思います。

 「雪月花」は新年まで記事の更新をお休みします。年明けは元気な干支、イノシシを連れて登場する予定です ^^
 みなさまお健やかにクリスマスとよいお年をお迎えくださいませ。

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ムーン・ドロップ

2006年12月14日 | うす匂い ‥水彩画
 
 今年も残すところ二週間余りですね。みなさまも年末年始のご準備等で外出の機会が多いことと思います。街もいそがしく動いているときですし、風邪が流行っていますから気をつけてお出かけください。

 さて、「美の源流」というテーマで二回にわたりご意見ご感想をお寄せくださいまして有難うございました。このテーマについてお話ししたいことはまだあるのですけれども、しばらくみなさまからの情報を整理したり、すすめていただいた関連書籍を読む時間をとり、さらに考えを深めてゆきたいので、ここでちょっとひと息‥ 冬空を見上げようと思います。
 オリオン座や冬の流星群など冬の夜空は星が主役になりますが、月は秋のころより輝きを増しています。

 冬の月寂寞として高きかな (日野草城)

 今宵(14日)は今月5日の望月から数えて九日目の月です。凍てつく夜空に煌々とかがやく月の光を受けていますと、しみついた師走の喧噪は去り、全身がすきとおってゆくようです。

 冬枯れのけしきこそ、秋にはをさをさ劣るまじけれ。‥‥
 年の暮れはてて、人ごとにいそぎあへるころぞ、またなくあはれなる。
 すさまじきものにして見る人もなき月の、
 寒けくすめる廿日(はつか)あまりの空こそ、心細きものなれ。

 (『徒然草』第十九段より)

 兼好先生は冬月のかかる空ほど心細いものはないというけれど、殺伐とした枯れ野をたったひとり西へゆく月もまた寂しくはないのでしょうか。

 冬の日、後夜の鐘の音きこえければ峰の坊へのぼるに、月雲よりいでて道をおくる。
 峰にいたりて禅堂にいらんとするとき、月また雲をおひてむかひの峰に
 かくれなんとするよそほひ、ひとしれず月のわれにともなふかと見えければ

 雲をいでてわれにともなふ冬の月 風や身にしむ雪やつめたき
 (明恵上人)

 冬の月と同じ孤独を友にした明恵上人は、「風が身にしみないか、雪はつめたくないか」と月にやさしく語りかけています。

 * * * * * * *

 住まいの近くに住居の一階部分をティールームにしている家がありまして、そこで定期的に手づくりのものの展示やミニコンサートなどが行われます。わたしは時折町の図書館からの帰り道などにお茶をいただきに立ち寄るのですが、先日は近所の主婦たちが集まって趣味で作っているというアクセサリーを展示即売していて、その中に下弦の月をモチーフにした銀のブローチがありました。アクアカラーの大きな石がひとつと、その上下に繊細なカッティングをほどこしたガラス玉がふたつ嵌めこまれていて、それらの石をつなぐ銀の模様も申し分のないデザインでした。ただ、サイズがかなり大きいのと(縦の長さが8センチくらいありました)思いのほか高価だったので買うのを断念。でも、デザインがとても好きだったので、帰宅してすぐ記憶をたよりに絵に残しました。石の水色が効いているので、ムーン・ドロップ、「月のしずく」と名づけました ^^

 このブローチなら聖夜の装いにもピッタリだし、もうすこしサイズがちいさければ、帽子や襟もとにつけたりチェーンをとおしてネックレスにしてみたかったのだけど、「催眠状態から抜けるため一度頭を冷やす」という“お買い物の鉄則”を守り、このお月さまとのご縁はあきらめました。もし予報がはずれて今夜が雨もようでなければ‥ これと同じかたちをした月のしずくがわたしのこころを満たしてくれることでしょう。

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美の源流 自然

2006年12月07日 | 雪月花のつぼ ‥美との邂逅
 
 “森と湖の国”、フィンランドのイッタラ社のタンブラー(無鉛クリスタルグラス)を愛用しています。日本人が好むシンプル&ナチュラルな北欧デザインの中でも「フィンランドデザインの良心」と称されるカイ・フランク(1911~89年)の1950年代の作品で、世界的に有名なデザインであることを知ったのはごく最近です。週末にしばしば主人と訪れる店の一角にイッタラ社の食器が陳列されていて、初めてこのグラスを見つけたときにふたりともすっかり気に入ってしまい、以来新色が出るたびにひとつずつ購入してきました。上の写真からその魅力は十分伝わると思いますけれども、洗練されたライン、色の美しさ、透明感、持ったときの手のひらに感じる心地よい重量感‥、極めつくされた機能美を有するモノの存在感に圧倒されます。でも、わたしがこのグラスに魅せられているいちばんの理由は、実はその機能美ではないのです。

 東山魁夷画伯がフィンランドの森と湖を描いた「スオミ」という作品をご存知でしょうか。フィンランドの人々は自国を「スオミ(湖の国)」と親しみをこめて呼ぶそうですが、このグラスをとおして、画伯が描いたとおりの北欧の清らかな森と湖が見えてきます。フィンランドの針葉樹林の深緑、氷色の湖水、水のつめたさ、水上の風─ そして、その神秘の森を守りつづける精霊たちの息づかいをも感じられるのです。カイ・フランクが、なぜこれほど美しいものを作り得たか。それは、彼がその美しい森と湖を愛してやまなかったからであることはいうまでもありません。
 ふりかえって、わたしたちの祖国はどうでしょう。「国破れて山河あり」とは、いつのころまでのことでしょうか。

 先週は主人と琵琶湖まで出かけて、信楽のミホ・ミュージアムと湖東・湖北の城下町をめぐってまいりました。美術館では特別展「青山二郎の眼」が開催されており、青山の眼にかなった美の数々をじかに観ることができたのですけれども、それらよりもはるかに美しいものが近江にはたくさんありました。湖東三山の古刹を染める紅葉、霊峰の雪景色、満々と水をたたえた琵琶湖に遊ぶ水鳥たち、広々とした田園風景、掘割をゆく清流、しっとりとした家並み、街道の家々の黒い瓦屋根と琵琶湖をかこむ山々のつらなり、町を見守るようにそびえる城の白壁、苔むした石積み。まるでひとむかし前の日本にタイムスリップしたかのようでした。近江に暮らす人びとの美的感覚(センス)は、その町づくりにおいては関西地方のどこよりもすぐれているのではないでしょうか。

 近江の湖(うみ)のさざ波や
 浜の真砂は尽くるとも 浜の真砂は尽くるとも
 詠む言の葉はよも尽きじ

 (謡曲「関寺小町」より)

 そんな琵琶湖も、干拓や汚染がすすみ、湖底にはヘドロが蓄積されて、数百年後には跡形もなく消えると聞きました。いつから、わたしたちはこのように美しいものを自らの手で壊し始めたのでしょうか。


 美しい祖国の風景は新たな美を育み、それは芸術だけでなく文学や学問にまで及ぶことは、『国家の品格』の著者・藤原正彦氏の指摘するところですし、この国のゆく末を案じつつ亡くなられた司馬遼太郎さんは「山河を惜しむ心こそ、人間が地上に生棲する基本的な文化といえるのではないか」(『街道をゆく 24 近江散歩 奈良散歩』より ※)と書いています。自然を失うほど人心は乾き、ふるさとは失われ、国は汚れてゆきます。自然の声を聞かなくなった国から、美しいものなどけして生まれてはこないでしょう。

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※ 『街道をゆく 24 近江散歩 奈良散歩』 は さくら書房 で紹介しています。
 
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