雪月花 季節を感じて

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美の源流 用の美

2007年02月22日 | 雪月花のつぼ ‥美との邂逅
 
 2006年に生誕120周年を迎えた陶芸家・富本憲吉(1886-1963年、重要無形文化財保持者)。昨年の秋に松下電工汐留ミュージアムの「富本憲吉のデザイン空間」展を、そして現在世田谷美術館で開催中の「生誕120年 富本憲吉」展(2007年3月11日まで)を観ました。どちらも、人間国宝の仕事というより富本の美意識に焦点をあてた展観で、整斉とした空間でじっくり作品と向き合うことができました。観賞後のくつろいだ気分を表そうとしましたら、久しぶりに水彩画になりました。

 見どころのひとつは、やはり富本の斬新なデザイン。「模様から模様をつくる可からず」という有名な富本の言葉は、「伝統から伝統をつくる可からず」と言い換えられるでしょう。以前ご紹介した刺繍の人間国宝・福田喜重氏も同じことをいっています。伝統の形骸化をもっともおそれる人の仕事には、かならずこころを打つものがあります。
 もうひとつは、建築と室内装飾を学んだのち英国留学し、帰国後、バーナード・リーチと出会って作陶を始め、故郷の安堵村(奈良県)~東京~京都と、およそ五十年の作陶活動を行った富本ならではの美意識です。富本は国宝級の陶芸を創作するかたわら、生活空間を美しくするための作陶を忘れませんでした。
 世田谷美術館の展示に、富本の家族がそろって居間でお茶を楽しんでいる一葉の写真がありました。茶器や菓子器はもちろん富本のものなのですが、それらはよく見なければ気づかないほど家族のだんらんにとけこんでいます。これこそ、富本の原点でしょう。かれは、飾り壷や陶板以外に、ブローチや陶印、タイル、煎茶器セット、灰皿、コンセントカバー、照明灯の把手を作陶し、椅子をつくり本の装丁まで手がけて、暮らしをゆたかにするためのものをできるだけ安価に大量につくろうと努めた人でもあったのです。汐留の展示を見逃した方は、世田谷でそのことを感じてほしいと思います。


 さて、富本憲吉といえば金彩の羊歯(しだ)模様、あるいは定家葛の花を意匠化した「四弁花模様」がまず想起され、色も古色に近い沈むような赤色と鈍い光を放つ金銀彩の大壷が思い浮かびます。ところが、世田谷で目をひいたのはその赤でも金でもなく、あたたかでとろんとした肌の白磁や瑠璃釉の小壷、「粟田色絵」という名の黄草と青の菱模様の香炉などで、どれもみな小品にもかかわらず、赤色の勝った壷や陶板の中にあってもその存在を無言で主張していてまったく新鮮でした。また、同じかたちをした三つの四弁花模様の飾り壷は、模様がもっとも細かく描かれたものに惹かれました。富本は小ぶりのもの、模様の繊細なものに佳品が多いのでしょうか。色絵金銀彩にも派手さはなく、赤と金と銀は同じ面に交錯しながら互いの個性を消し合うように配列されています。京焼の雅びでもなく、江戸の粋でもない。余白がないのに観る者の感懐を受け入れる余裕がある。この感覚は、異国に学び、奈良・東京・京都をみごとに融合させた富本だけのものでしょう。
 ただし、どんなに好きでも、それらが美術館のケースの中にあるうちはほんとうのところは分かりません。そこが暮らしの道具の面白いところであり、そのことはみなさまも十分すぎるほど経験から学んでいるはずです。惚れこんで買って、使うほど愛着がわき、料理のアイデアまで教えてくれるうつわもあれば、しばらく使ううちに見るのも嫌になってしまううつわもあります。ほんとうに不思議です。

 最近よく思いますのは、出合いがどのようなものであれ、つきあううちにいつのまにかこころがしずまるもの─それがわたしの用の美のようだ、ということです。美との出合いの瞬間は、はっとしたり、言葉にならなかったり、思わず手にとってみたくなるという本能的なものだけれど、やがてその気持ちがところを得て“ストンと落ちる”といった感じ‥ そうそう、「落ち着く」とはよい言葉です、まさにそんな気持ちです。うつわなんて、所詮は道具。そう思えば、いつまでも揺さぶられては疲れてしまいますし、作家の感情や大望がそのまま凝結したモノなんてまっぴらです。

 そうはいいましても、落ち着いたこころの状態を保つことはむつかしい。未熟なわたしにとって、自らが招いた“不用”なモノが悩みのタネです。
 暮らしの道具に限りません。絵画、音楽、書画などの芸術においても、わたしはその“落ち着きどころ”をこれからも探ってゆくことでしょう。

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 ◆◆ 雪月花のおすすめ 用の美の壷 ◆◆◆

 「柳宗理 生活のなかのデザイン」展 @東京国立近代美術館(~3/4/2007)
 「志野と織部 風流なるうつわ」展 @出光美術館(~4/22/2007)
 銀座 黒田陶苑トピックス / NHK 美の壷  / 工芸店ようび
 
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家紋印

2007年02月15日 | 和楽印 めだか工房
 
 14日、九州から北陸、関東地方にかけて「春一番」が吹き荒れました。東京は夕刻から暴風雨となり、一時はまるで滝壷の中に家があるかのごとく激しい雨が屋根を叩きつけました。積雪のないまま春の訪れとなりましたけれども、今日15日は一転して北風の強い一日になるそうです。先週から風邪気味だったわたしは、とうとう発熱して二日間寝こみました。不安定な時季ですから、みなさまも十分気をつけてくださいね。


 さて、昨日は聖バレンタイン・デーでした。女性のみなさまは、本命と義理チョコを合わせていくつ買いましたか。事前インタビューで、今年は父親に感謝のチョコレートを贈ります、と答えた女性が多かったのだとか。義理チョコ+奥さまと愛娘からのチョコももらって、ほくほく顔のお父さんたちの顔が目に浮かびます。

 かくいうわたしは、昨年会社を辞めて義理チョコを買う必要がなくなりましたので、今年はとりあえず主人用だけです。風邪っぴきのわたしをずいぶん気遣ってくれましたので、病院帰りに生チョコレートを奮発。ところが、箱がとても立派だったせいか、ラッピングをしないまま紙袋に入れられてしまったので、最近彫った家紋印を使ってひと工夫してみました。
 紋は「丸に撫子」と「丸に二つ引き(ふたつびき)」(※)です。「撫子」は主人の家の紋、「二つ引き」は主人の里にゆかりのある紋です。光沢のある浅葱色の包装紙に、金色のインクで紋をランダムに捺し、和紙の紐をかけ、裏側は紙と紐留めのため千鳥の消しゴムはんこのシールを貼って、できあがり。いかがでしょう、表の目立つところに「二つ引き」の紋が出てしまったのが失敗かしらん。そうえいば、ふだん買ったものを包んでもらう包装紙は、大事な模様や店のロゴは表の中央付近に出るように印刷されているのですね。

 家紋だなんておおげさかしら‥と思ったのですけれども、こんなラフな使い方をするとなかなかお洒落なデザインです。長き戦乱の世を彩った武将の旗印だったといえばおどろしい気もするけれど、草花や鳥、虫などの身近な生物を象った家紋に日本人のやわらかな感性を感じますし、当時はきもの、風呂敷、漆器、調度品にまで家紋を入れて先祖代々引き継いだのですから、モノをたいせつにするこころもあったのでしょう。
 もうすこし小さめの家紋印をつくって、手まわり品やふきんなどにも捺してみようと思っています。


 それにしましても、中味よりラッピングのほうが立派になってしまいました(笑 それに、ラッピングをするときに暖かい部屋で箱を何度もひっくり返してしまいましたから、生チョコレートが‥。でも、チョコは崩れても、味と贈り主の気持ちは変わりませんよ、だんなさま。

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※ 吉天さんから、引両紋の読みは「にびき」ではなく「二つ引き(ふたつびき)」が
  正しいとのご指摘をいただいて訂正しました。吉天さん、有難うございました。

 
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初心

2007年02月08日 | 筆すさび ‥俳画
 
 毎月一回の俳画の稽古も今月で五回目。毎回、画題のお手本とは別に、先生のはがき絵をひとりに一枚ずつくださいます。先月は、「帰 初心」と賛のある産衣を着けた赤子の絵で、拝見したとたん、わたしは声にならない声を上げてしまいました。「無垢」という言葉が絵に成ったもの‥ こう言葉で説明すると、絵から伝わるものが軽々しくなってしまうのですが、批判を覚悟で告白すれば、「あの横山大観の『無我』を超えている」とさえ思いました。

 その後、何度も何度もこの絵を写しました。でも、どうやっても先生の赤子にたどりつけない。賛の代わりに、赤子の視線の先に咲き初めた紅梅を添えてみたのですが、赤子をなんとか描けたと思えば梅が不自然だったり、梅が描けたと安堵すれば赤子の表情がちっとも初々しくない、という失敗の繰り返し。さすがに疲れてきて、そろそろ集中力が切れそう‥と感じ始めたころ、力が抜けたせいか、ようやく今回の絵が成りました。それなら、もうひとつ描けたら納得がゆくかもしれない、とつづけましたところ、これ以上のものはもうできませんでした。そこで筆をおきました。ですから、この絵は未完です。この画題は今後も描きつづけるつもりです。


 先生にとって「帰 初心」でも、わたしはまだその「初心」すら身についていません。いわゆる「かたち」に拘泥しない俳画において、「初心」とは書くよろこび、向上しようという気持ちの充満であり、それが横溢して絵に表れるまで稽古することと考えます。そうして初めて、「初心忘れず」といえるのではないでしょうか。

 そんなとき、『俳画手引』という本を書店で偶然見つけましたのです。著者の赤松柳史(故人)という名をどこかで聞いたと思い、調べましたら、なんとわたしの先生のお師匠さまでした。「やれやれ、これではいけない」と、赤松先生がわざわざわたしを訪ねてくださったのでしょうか。有難いことです。
 本には、こうあります。

 うぶうぶしいものには何をやっても 美しさが感じられる‥
 道を極めての童心、道を完成した後の無我、そしてそのような心に
 よってなる稚拙は、俳画として、われわれの最も尊ぶところである。


 先生の赤子の絵は、まさにこのようなものです。わたしの下手な説明など、まったく不要なことでした。‥‥


 もし、みなさまがこの拙画に何かを感じてくだされば恭悦です。

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※ 『俳画手引』 は さくら書房 で紹介しています。
 
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消しゴムはんこで「福豆と福鬼」

2007年02月01日 | 和楽印 めだか工房
 
 本日より如月です。節分、立春と、気分はぐっと春に近づきますね。
 四月上旬の陽気になった昨日、梅林の三十本ほどの白梅の木を一本一本見てまわりましたら、たった一輪だけ、空を仰ぐように咲いていました。「あなたが一番よ、よくがんばったね。春のよろこびを有難う」と声をかけたくなりました。

 さて、今回の消しゴムはんこは小豆と鬼の顔、そら豆とお多福を組み合わせて、節分と立春の気分を表してみました。仕上がりにすっかり満足して、「フムフム、これなら手ぬぐいの図案にもなりそう」と、ひとり悦に入っています ^^
 サイズはそれぞれハガキ大です。はんこの良いところは、自由に色を変えたり、レイアウト次第でさまざまな図案を生み出せることです。また、ひとつの図案をいくつかのパーツに分けて彫っておけば、アイデアはさらに増します。そして、手彫りのはんこならではの素朴な味わいが好きです。(自画自賛‥)

 手ぬぐいや唐紙などの図案をよく参考にするのですが、自分で図案を考えるようになりましてから気づいたことがあります。それは、連続模様は一見単純なように見えて、じつは念入りに計算されていること。模様の繰り返しですから、単調でもうるさくてもいけません。適度な遊びごころと余白、色調を合わせることが重要でしょうし、仕上がりを念頭に入れてパーツのかたちや大きさを決めるのではないでしょうか。
 先人たちが生み出した日本の紋様って、ゆかしくてすばらしい。それが手紙、はがき、ぽち袋、箸袋、唐紙、手ぬぐい、きもの‥等々、日本の暮らしのすみずみを美しくしてきたのですね。


 節分の口上は「鬼は外、福は内」が一般的ですけれども、ところ変わればさまざま。奈良の天河神社では鬼は神であるため「鬼は内、福は内」、九鬼一族の本拠地・和歌山の熊野本宮は鬼抜きで「福は内、神は内」、かつて丹羽氏が藩主だった福島の二本松は「お丹羽外」にならぬよう「鬼外、福は内」。こんなことからも、福神は変わらないのに、鬼は変幻自在、神になり邪鬼にもなるという、この日本人の身勝手さ‥いえいえ、八百万(やおよろず)の神のさきはふ国ならではの柔軟な思考がうかがえます。

 彫っていていちばん楽しかったのは鬼の顔です。紙に初刷りした赤鬼の顔を主人に見せましたら、ひとこと、「似てるね」。 ‥え? 誰に??

 連れ添えば鬼も内なる追儺(ついな)かな (雪月花?)

 ‥もちろん、わが家は福鬼です ^^

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消しゴムはんこの本 『四季の消しゴムスタンプ』(山田泰幸著、マール社)を
  さくら書房 に追加しました。

 
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