命日に 父に捧ぐ
家を建替えるというので、置いたままになっていた品々を片付けるために久しぶりに実家を訪れた。そのとき母から「懐かしいものが出てきたのよ」と渡されたのが、古ぼけて色褪せた小さな紙袋に入っていた十数通のエアメールだった。みなセピア色に変色して大きさもまちまちで、ところどころ破れかけている。いくつかは外国の珍しい切手でも貼ってあったのか、無理やり剥がしたとみえて、その跡がうす汚れて無残だ。建替えの間は近くの借家に仮住まいをするため、荷造りをしていたら、家具と部屋の壁の隙間に落ちていたこの紙袋を見つけたらしい。それは、わたしがまだ幼な子で、弟が母のお腹の中にいたころ、会社の研修旅行で長期にわたりアメリカを旅していた父から、母とわたしに宛てたエアメールの束だった。
高校の入学試験が控えていて、そろそろ本腰を入れて受験勉強を始めなければならなかった歳の夏。雨の季節特有の重苦しい鈍色の雲が空を覆っていた日の早朝に、その電話は鳴った。電話と母に起こされたわたしと弟は、身支度もそこそこに自宅からそう離れていない病院の一室に駆けつけた。が、すでに病室の壁もベッドも傍らの椅子も父を覆う布団も、一切が白く空しくなっていて、そこには痩せて穏やかな顔をした父が静かに横たえ、まだいくらか生気の残るくぼんだ目は、もう二度と開くことはなかった。父の母が泣きながら「こんなことになるなら生まなければよかった」と言った言葉に、わたしは何故かとても腹が立って、余計に悲しくなって泣いた。父はわたしに多くのものを遺して逝ったが、わたしはそんなことに少しも気づかずに、連れ合いを亡くした母の気持ちさえ理解しようとしないまま、病床の父に対して思いやりのなかった自分のことばかり悔いていた。
エアメールを消印の日付順に並べると、父はほとんど毎日のように、訪れた街の様子やその地の出来事をこと細かに絵葉書に書いている。よく見ると、ひとつ書いて投函し、その後すぐに、別の地へ移る飛行機の中で新たにしたためたものなどもあって、父が筆まめであったことに驚く。ちょっと神経質そうな父の手をこんなにじっくりと眺めるのも、初めてのことかもしれない。それにしても、身重の母と祖父母に預けたわたしのことなどすっかり忘れたような楽しげな文面だ。
「明日はバスで2晩ニューヨークへ行きます。
道で日本娘の可愛い子に逢って色々話しました」
「各都市の電気業者の内容は合理化されている点のみ素晴らしい。
技術は日本の方が上」
「今夕日本料理店でさしみと茶ワンむしの日本食を食べ、
ブロードウェイを歩いてきました」
「昨夜(サンフラン)シスコ名物の路面電車に乗り、
終点で方向転換の時、電車を客が押して廻します。
僕も手伝って押してやりました。愉快な電車です!!」
「ホノルル迄の飛行機の中で書いています。眼下に太平洋。
アメリカ大陸を離れました。天候は晴。空と海のブルー」
けれども、ほとんどの手紙の末尾には、出産を間近に控えた母と幼いわたしへの気遣いのひとことが添えられている。
「君は元気か。K子(わたしの名)は? 体を大事に」
母に言わせれば「半分はお遊びの旅行だったのよ」ということになるが、母が弟を無事に出産した日と同じ日付の消印の葉書には、偶然にも「この手紙が着く頃出産かな」と書かれていたりするのを見ると、当時の父母の仲睦まじさが不意に伝わってきて、ちょっと感動する。
三十路を迎えたころから、何かの拍子に父の残してくれたものに気づくようになった。読書をしているときには読書好きだった父の言葉を、カフェに流れる古き良きハリウッド映画のテーマ音楽を耳にするときは、映画好きだった父がすすめてくれた映画のワンシーンを。母は「お母さん」なのに、父のことは「パパ」と呼んでいたわたしは、母がしばしば父を叱るほど父に甘やかされて育ったのだった。
今ごろになってどうしてこのようなエアメールがわたしのもとに届いたのだろう。もしかすると父は、家族四人で暮らしたこの小さな家が、まもなく他人の手で壊されて消えてゆくのが耐えられなくて、こんな手段を使って意見してきたのだろうか。そういえば、母がわたしに荷物を取りに来なさいと電話をしてきたのは、父の命日から数えていくらもたっていない雨の週末だった。
パパへ。
わたしは元気に暮らしています。ようやくあなたの深い愛情に気づいた親不孝なわたしです。いつかわたしがあなたのそばに行ったら、あなたの好きな本や映画の話をゆっくりしましょう。そして、いずれまた家族四人がそろうときがくるでしょう。
そんな日が来るのを楽しみに思った夏のひと日の昼下がりだった。
「下駄」 辻 征夫
冬の雨下駄箱にある父の下駄
(うん 死んだ父の
下駄なんだよ
履き方に癖があって
へんな風にへるものだから
借りて歩くと頭にひびいた
先日みつけて
履いてみたらやっぱりひびいた
おこられてるみたいで
まいったね)
素敵なお父様からのエアメールですね。家族4人で暮らした幸せな時を思い起こさせてくれたのですね。深い愛が私にも伝わってきました。お父様は、今は安心して天から見守っていてくれると思います。私も父には、何もしてあげられませんですた。心配ばかりかけたかもしれません。
そうなんですよね。いづれは又会えるのです。その時には、何をしてあげられるのか?考えてみます。
水彩画のやさしい感じがすきですよ。
又、作品UPしてください。楽しみです!
こんな乱れた気分の時には雪月花さんのサイトへ遊びに行こう~。^^
と思ってまいりました。
心に沁みるお話をありがとうございます。
私も17年前に亡くした父のことを思います。
逝ってしまった直後よりも最近のほうがいろいろなことを静かに思い出せ、当時は思い至らなかった父の深い愛を実感というとへんですが自分の中の深いところで「わかる」ような気がしています。
なんだか少し元気になりました。笑
ありがとうございます。
雪月花さんの水彩画。とっても!素敵です。
お墓は、四国は伊予のちいさな町のお寺を守る山にあり、瀬戸内海をのぞむ風通しの良い斜面に立っています。
> 花ひとひらさん、
あたたかいお言葉を有難うございます。このエアメールは、旅好きだった父らしい、たいせつな遺品です。花ひとひらさんのように、父の遺した言葉に自分の言葉を重ねてここに綴ることはできませんでしたけれども、エアメールを読んでいると、父もなかなか詩人だな、なんて思うんです。父亡き後、母はほんとうに苦労して、わたしと弟を育ててくれました。
> 道草さん、
道草さん、ご心配なく。子は親が思う以上に驚くほどたくさんのものを父母から吸収して成長していますから。「下駄」の詩、カラコロ‥と癖のある音が切ないですね。
親孝行をしたいと思うときに親はなし‥という言葉をかみしめています。父は、自分亡き後のわたしのことより、気持ちがやさしすぎていじめられっ子だった弟のことをとても心配していたと思います。弟は長い間父を喪った悲しみから抜けられず、そのことで母も苦しみ、悩みつづけました。退職後、いきいきと好きな仕事に取り組んだり、趣味を見つけて楽しんでいる母ですが、いまでも「母は幸せなのだろうか」と考えてしまいます。
> みいさん、
わたしはよく「父に守られている」と思うことがあります。占いで「守り神がついていますね」と言われたときは、「あぁそれは父だな」と思ったし、野良猫が家に住みついたときも、「父の化身だわ」と。いつも父に見られている気がするから、悪いことはできません(笑
拙い絵をほめてくださって有難う。先週、水彩画セットをそろえました。絵筆をもつのは十年ぶりかしら。毎日ひとつずつ、身近な暮らしの道具などをそばに置いて描いています。
> きのさん、
何か悲しいできごとがあったのですか? こんな、雨よりもじめじめした記事に、よけいに気持ちが暗くなったのではないかしら。お夕飯を召し上がってぐっすり眠って、元気を出してくださいね。
きのさんのおっしゃるとおり、喪失感を味わった後の長い時間が、じっくりと熟成した味わい深いものをわたしたちに届けてくれますよね。不思議です。思い出の中の父はいつも笑っていて二枚目ですし(笑
絵は、きのさんの和のどみのかわいいデザインに触発されたんですよ。次回はわたしも和小物を描いてみます ^^
それでも 家族を想ふ 愛情は
永久に 変わらざりし
の メッセージ。
かも
読書好き、旅行好き、筆まめなお父さまでいらしたようですね。
私も父を高二の時に亡くし、わずか2~3か月でしたかしら、私なりに看病したこと思いおこしました。一ばん下の妹は三歳で長女の私がしっかりしなければと、悲しいながらも
責任をもたされたような気がします。
商売をしていて、忙しい毎日に、父とどんな会話をしていただろうと、思い出してみますが、(雪月花さま)みたいに書簡もなく、働く姿しか浮かんできません。
一緒に旅行したりお酒を飲んだりしてみたかった・・・と思う次第・・・
エアメール・・いつまでも大切にしてくださいね。
ただただ、じーんときました。
子供の頃には分からなかったことが、今になって
分かる瞬間があるように思います。
その瞬間は心の奥にグサリときたりするのですが、
精神的に大きな飛躍をするきっかけになるように
思っています。