とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」812【中森明菜/名曲045】『十戒(1984)』

2024-09-02 01:01:43 | 日記
歌のベストテン。これを探していました。懐かしい。

【中森明菜/名曲045】『十戒(1984)』


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


中森 明菜(なかもり あきな、1965年〈昭和40年〉7月13日 - )は、日本の歌手、女優。本名同じ。1982年5月1日、デビュー。1980年代を代表する女性アイドル歌手であり、数多くのヒットナンバーを世に送った[3]。アイドルの当たり年と言われた1982年のデビューで、「花の82年組」の1人であった。また、コメディエンヌとしても活動していた。

東京都大田区大森生まれ[4]、清瀬市育ち[4][5]。清瀬市立清瀬小学校、清瀬市立清瀬中学校を経て、明治大学付属中野高等学校定時制中退。研音→コレクション→コンティニュー→N.A.P.C→楽工房→FAITH(ファイス)を経てHZ VILLAGE所属。所属レーベルはユニバーサル ミュージック ジャパンのPolydor Records(旧・UNIVERSAL J)内の私設レーベル歌姫レコーズ[6][7]。

概要
1981年7月11日、16歳の誕生日目前に出場した日本テレビ系列のオーディション番組『スター誕生!』で山口百恵の「夢先案内人」を歌って、合格[8]。これを機に、ワーナー・パイオニアとのレコード契約を締結した。

1982年5月1日、16歳の時にシングル「スローモーション」でデビューし、2枚目のシングル「少女A」がヒットした。

翌1983年には、「セカンド・ラブ」「禁区」などもヒット。1980年代のアイドルとしては松田聖子と2強を競った[3]。

以降も「北ウイング」、「飾りじゃないのよ涙は」など連続してシングルヒットを出し、1985年の「ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕」と1986年の「DESIRE -情熱-」で2年連続となる日本レコード大賞を受賞した[9][10]。弱冠20歳で歌手としてトップクラスの実績を収めていた。

1980年代のシングル総売上げは年間ベスト50位以内のものに限っても932.5万枚、年間50位以内ランクイン曲数は22曲と、どちらも当時の女性アイドル中で1位であった[11]。また日本レコードセールス大賞年間アーティストトータルセールス最高位の座を4回獲得している(1983年、1985年、1986年、1987年)。

女優としても、1985年1月公開の映画『愛・旅立ち』で近藤真彦と共に主演を務めたのを始め、1992年には連続テレビドラマ『素顔のままで』(フジテレビ系列)に安田成美とW主演。その後も1998年の連続テレビドラマ『冷たい月』(日本テレビ系列)で永作博美と共にW主演するなど活動を広げた。

2002年にはユニバーサルミュージックに移籍し、カバー・アルバム『-ZEROalbum- 歌姫2』を発表[7]。歌姫シリーズの第2弾として発売されたこのアルバムはヒットを記録する。以降、『歌姫3 〜終幕』、『フォーク・ソング〜歌姫抒情歌』などカバー・アルバムのシリーズ作をリリースする。2004年にはプライベートレーベル歌姫レコーズを設立した。

2010年10月、体調不良により芸能活動の無期限休止を発表。それ以降メディア出演はもとより、公の場へ一切姿を現していなかったが、2014年12月31日、第65回NHK紅白歌合戦にスペシャルゲストとして、ニューヨークのレコーディングスタジオから生中継で登場し、4年3か月ぶりに芸能活動の復活を果たした[12]。2015年1月には、シングル「Rojo -Tierra-」、カバーアルバム『歌姫4 -My Eggs Benedict-』をリリース。

2018年以降、再び芸能活動を殆どセーブしているものの、アルバム作品の発売など音楽活動は意欲的に取り組んでいる。

2022年8月、個人事務所HZ VILLAGEを設立と同時に、8月30日に公式Twitterを開始した。

2023年12月24日、公式YouTubeチャンネルの開設を発表した[13]。

あちこち「SYOWA」811 ABBA - Dancing Queen (Tradução/Legendado)

2024-08-24 00:56:09 | 日記
ラジオで久しぶりに聴いてて、おおっこれがあった!! と衝撃的に画像を見たくなった。見ててアドレナリンがどっと出てきた恍惚とした気分を久しぶりに感じることができた。不滅の名曲の一つだと思う。

ABBA - Dancing Queen (Tradução/Legendado)


ABBA(アバ、スウェーデン語発音: [²abːa])は、スウェーデンのポップ・グループ。1974年から1982年まで世界中の音楽チャートを席巻した、ポピュラー音楽界で商業的に成功したグループの1つ。アグネタ・フォルツコグ、ビョルン・ウルヴァース、ベニー・アンダーソン、アンニ=フリッド・リングスタッド(フリーダ)によってストックホルムで1972年に結成。イギリスのザ・ドーム(英語版)で行われたユーロビジョン・ソング・コンテスト1974に出場し、スウェーデン代表として初めて優勝した。

概要
ABBAの売上の記録は不確実であり、様々な見積もりでは、1億4000万枚以上から数億枚以上とされる。ABBAは、母国語がスウェーデン語にもかかわらず、イギリス、アイルランド、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ(英語版)、アメリカ合衆国といった英語圏の国々で、成功を収めたグループである。彼らはイギリスでアルバム8作連続1位を獲得している。グループはラテンアメリカ市場でも成功を収め、ヒット曲のコレクション(英語版)をスペイン語で収録した。

バンドの活発な活動期に、アグネタとビョルン、フリーダとベニーは結婚した。彼らの人気が上昇しすぎたことから婚姻関係は微妙なものとなり、結局、1979年にアグネタとビョルン、1981年にフリーダとベニーはそれぞれ離婚した。これらの関係の変化は、グループの音楽に反映され、彼らの通常の純粋なポップ・サウンドとは対照的に、内省的な歌詞になっていった。

1982年12月にグループが解散した後、アンダーソンとウルヴァースは舞台音楽の作曲で成功し、リングスタッドとフォルツコグは独自の音楽活動を続けた。ABBAの音楽は、1989年にポリグラムにより旧譜発売の権利が買収され、1992年9月に発売されたグレイテスト・ヒッツ(『アバ・ゴールド』)は世界的成功を収めた。

1994年の『ミュリエルの結婚』、『プリシラ』などのいくつかの映画は、グループへの関心を高め、いくつかのトリビュートバンドを生み出した。1999年、ABBAの音楽は成功したミュージカル『マンマ・ミーア!』に起用され、世界的なヒットとなった。2008年に公開された同名の映画は、その年のイギリスで商業的に成功した映画となった。

ABBAは、2005年にユーロビジョン・ソング・コンテストの創立50周年を迎えると、その大ヒット曲「恋のウォータールー」がコンテストの歴史の中で最高の歌に選ばれた。グループは2010年にロックの殿堂入りを果たした。2015年に、彼らの歌「ダンシング・クイーン」がレコーディング・アカデミーによりグラミーの殿堂入りを果たした。

2021年11月5日には40年ぶりのオリジナル・アルバム『ヴォヤージ』を全世界同時にリリースした。

メンバー
アグネタ・フォルツコグ(Agnetha Fältskog) - リードボーカル、コーラス
アンニ=フリッド・リングスタッド(Anni-Frid "Frida" Lyngstad) - リードボーカル、コーラス
ビョルン・ウルヴァース(Björn Ulvaeus) - ギター、ボーカル、コーラス
ベニー・アンダーソン(Benny Andersson) - キーボード、ボーカル、コーラス
(Wikipedia)

あちこち「SYOWA」(番外) スワンの涙 Mi-Ke このスワンの涙が好き

2024-08-17 01:52:50 | 日記
オックスの原曲をカバー。これがまたいいですね。カッコいい。

スワンの涙 Mi-Ke このスワンの涙が好き Best collection


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Mi-Ke(ミケ)は、日本の歌手グループ。B.B.クィーンズの音楽コーラス隊「B.B.クィーンズシスターズ」として誕生。後に単独のアイドルグループとしてデビューした。

スターダストプロモーション所属。原盤制作をビーイングが担当。

オリジナルロゴには「Presented by B.B.QUEENS」と書かれている。

概要

アイドルグループとして1991年にデビュー。振付を意識した当時のアイドルグループの形態をとりながら、アルバムごとにテーマを定めたリバイバル・カバープロジェクトであった。振付担当は五十嵐薫子。

グループ名の由来は当時ヒットした「たま」をもじり、メンバー3名の個性を活かして三毛猫から取っており、白が宇徳、茶色が村上、黒が渡辺と、3色のイメージカラーに分けられていた。

なお、Mi-Keをさらにもじった名のアイドルグループ「ザ・ポチ」や「DORA」(日本テレビのアナウンサーによるグループ)、「NORA」(読売テレビのアナウンサーによるグループ)が存在した。

ビーイングの流行りのサウンドとアレンジで60年代後半のグループサウンズの「往年の名曲」のパロディを大量に盛り込んだプロデュースが認められ、日本レコード大賞、日本有線大賞、全日本有線放送大賞(現・ベストヒット歌謡祭)、日本ゴールドディスク大賞と各音楽賞の最優秀新人賞を総ナメにし、『第42回NHK紅白歌合戦』(「想い出の九十九里浜」)にも出場した。なお、スターダストプロモーション所属のアーティストが、新人賞を受賞したのはMi-Keのみである。

1992年4月、同月から放送が開始された『NHKヒットステージ』にてアシスタントとしてレギュラー出演。1993年3月の放送終了まで出演した。またスターダストプロモーション所属であったことから、多くのバラエティー番組や、CMにも出演した。

MVの大半は岩井俊二が監督したコミカルな作風のものであり、1991年にVHSと2002年にDVDでソフト化も行われている。

リードヴォーカルを務める宇徳敬子は、1993年にシングルCD「あなたの夢の中 そっと忍び込みたい」でソロデビュー。Mi-Keとしては同年にシングル「Please Please Me, LOVE」をリリース。アルバム「永遠のリバプールサウンド〜Please Please Me, LOVE.」リリース後はソロ活動に専念している。

村上遥はグループ活動休止後、タレント活動を行う。1993年から1998年までビーイング系音楽番組『NO.』(テレビ朝日)のナレーターを務めた。

渡辺真美は活動休止後改名し、2024年現在は「麻宮百(まみやもも)」名義でラジオDJや、ジャズクラブ・ライブハウスを中心とした音楽活動を行っている。

Mi-Keは活動休止後も公式に解散宣言等の発表がされなかったため、長らく「活動休止中」とされたままであったが、2024年8月現在、宇徳敬子以外のメンバーは既に芸能界を引退しており、また宇徳も2023年10月15日放送の「千鳥の鬼レンチャン」に出演した際には「元 Mi-ke」と紹介されていたことから、事実上解散していることは明白である。

メンバー

村上遙
コーラス。立ち位置左。単独コーラスはほとんど宇徳が行っていたため、TV出演時以外はサビのコーラスパートのみであった。神奈川県出身。
宇徳敬子
リードボーカル&コーラス。ほとんどのコーラスも宇徳の単独コーラスであり、Mi-Keの音源では彼女の声が9割を占める。ソロ転向後にはアルバムでオリコン1位を獲得するなどヒットを出している。鹿児島県出水市出身。
渡辺真美
コーラス。立ち位置右。村上と同じくコーラスだが、「想い出の九十九里浜」のカップリング曲「あっぷる・らぶ」では、自ら作詞して歌っている。Mi-Keの楽曲ではないが、YouTubeで渡辺のライブ映像を見ることができる。2008年2月より、ブログおよび定期ライブを開始した。2016年3月より麻宮百(まみや もも)として活動する。東京都出身。


あちこち「SYOWA」810 追悼「丘さとみ」なつかしの東映城のお姫様

2024-08-14 00:56:11 | 日記
東映城のお姫様として不動の人気を博した女優、丘さとみさん。訃報に接し悲しく思っています。東映城の三姫、桜町弘子さん、大川恵子さんと並び東映時代劇を支えた女優さんでした。ここに謹んでお悔やみ申し上げます。

追悼「丘さとみ」なつかしの東映城のお姫様


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おか さとみ
丘 さとみ

来歴・人物
1953年3月、尼崎市立尼崎高等学校在学中にディズニー映画『シンデレラ(シンデレラ姫)』の日本公開を記念して行われたRKOラヂオ映画社と毎日新聞社主催の「日本シンデレラ姫コンテスト」に応募し、ミス・シンデレラの栄冠に輝く。その副賞で1953年3月20日から4月4日まで渡米し、ディズニー撮影所や女優・アン・ブライスの自宅などを訪問したり、ケーリー・グラントとの2度に亘る会食やソニア・ヘニーのアイスショー観覧といったハリウッド見学に招待されている。

1954年に尼崎市立尼崎高等学校を卒業後にRKOラヂオ映画社日本支社に就職。RKOラヂオ映画社日本支社関西支社で支社長の秘書として配属される。しかし、東映にスカウトされて、1955年に東映ニューフェイス第2期生として東映に入社して芸能界へ転身した。同期には高倉健・今井健二・五味龍太郎らがいる。芸名を丘 さとみにして同年の映画『御存知怪傑黒頭巾・新選組追撃』でデビュー。東映時代劇での貢献が大きく、「東映城のお姫さま」と呼ばれ、人気を博した(引退までの10年間で約150本もの映画に出演)。

1962年に東映を退社してフリーになり、映画出演も続けながらテレビドラマに主な活躍の場を移す。

1965年、在米日系人2世の商業デザイナーと結婚し、引退。3子をもうけるが、1975年に別居。同年、離婚し、女優に復帰する。

その後、6歳年下の司法書士と再婚し、再び女優業から遠ざかる。

2010年10月16日、T・ジョイ京都で開催された「巨匠・内田吐夢 名優・月形龍之介 東映時代劇傑作選(その一) 内田吐夢、月形龍之介没後40年回顧」のトークショーに出演した。

2024年4月24日、心疾患のためアメリカ合衆国カリフォルニア州の自宅で死去。88歳没。

あちこち「SYOWA」(番外) ZARD きっと忘れない【6】

2024-08-10 01:52:23 | 日記
永遠の坂井泉水さん。この曲も歴史に残る名曲だと思います。もし生きていたら・・・・。何度も、もし、もし、という言葉を繰り返しています。

ZARD きっと忘れない【6】


坂井 泉水
出生名 蒲池 幸子
生誕 1967年2月6日
日本の旗 日本・神奈川県平塚市
死没 2007年5月27日(40歳没)
東京都新宿区・慶應義塾大学病院
学歴 松蔭女子短期大学卒業
ジャンル
J-POPロックポップ・ロック
職業
歌手シンガーソングライター作詞家モデル(初期)
担当楽器 ボーカル
活動期間 1989年 - 2007年
レーベル B-Gram RECORDS
事務所
スターダストプロモーション(1989年 - 1992年)
Ading(1992年 - 1998年)
SENSUI(1998年 - 2007年)
共同作業者 ZARD
公式サイト https://wezard.net/       (Wikipedia)