Nonsection Radical

撮影と本の空間

メンタリティとシステム

2014年04月25日 | Weblog
今朝の尼崎駅改札には数人の駅員が立ち並んで”あいさつ”をしていた。
よくあるJRの風景である。
個人的にはそれがどのような職務なのか理解出来ないのだけれど、そういう行動を求める人がいるのだなとは理解している。
福知山線の事故の前に、オーバーラン等で遅れる列車内で、車掌に「謝らないのか」と言ったオッサンが居たそうだ。
そして車掌は放送で遅延のお詫びをして、それで”納得”する人もいたわけだ。
それとどのような関連があるのかわからないけれど、改札で駅員が何人も立ち”あいさつ”を繰り返す光景を何度も目にした事で、そういうメンタリティの空間なんだなと思ったのだ。
特に今日のような日には。
で、JRのメンタリティは事故後、どのように変わったのか。
あのような事故が起きる”前提”となるような組織としてのメンタリティとシステムの問題があったわけだが、どのような”改革”が行なわれたのか。
システムを整備した場合にメンタリティをどのように変化させて運用しだしたのか。
システムの事は報道されたりするが、メンタリティの事は報じられない。
目にするのは、朝の”あいさつ”だけだ。
乗客がそれを望んでいるから?
乗客もそれでいいのか?
そういう問題か?

で、福島の原発事故の場合、それがきっかけに一時は原発をやめようと思う人が増えたが、いつのまにか原発再稼働へ進んでいる。
”対策”は立てたから安全ですと言う。
”あの時”みんなが不安に思って原発をやめようと思ったのは、対策が不十分だったからだけではなく、東電の組織としてのシステムの不安、右往左往するだけの国、東電の関係者のメンタリティに不安を感じたからではなかったのか。
対策は立てたというが、では再び同様な事が起きた場合、今度は上手くやれるという組織のメンタリティとシステムに改革はあったのか?
政府や東電首脳陣がまた右往左往することはないのか?
また国民は、再びみっともない姿を見る事がないと信じて再稼働に賛成出来る根拠をつかんだのか?
従来通りの、見えるカタチだけの”反省”や”謝罪”がされる事で、問題が解決されたと判断するのだろうか。
すくなくとも、そういうメンタリティはいまだこの国には漂っているように感じられるのだけれど。




倉敷一番街
岡山県倉敷市阿知3丁目
撮影 2014年1月11日 土曜日 14時50分
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読み終えた本

2014年04月24日 | Weblog
もう、きみには頼まない 城山三郎 毎日新聞社
メガロポリス犯罪地図 朝倉喬司 朝日新聞社
政変 毎日新聞政治部 角川文庫
史実を追う旅 吉村昭 文春文庫
ドキュメント東京電力 田原総一朗 文春文庫
新潟少女監禁事件 松田美智子 朝日文庫
ラブ・イズ・ザ・ベスト 佐野洋子 新潮文庫
私の人生 私の昭和史 上坂冬子 集英社文庫
巨頭 孫正義 大下英治 イースト・プレス




乾新町の街並み
兵庫県篠山市西町,乾新町
撮影 2014年1月6日 月曜日 13時30分
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さまざまなノンフィクション

2014年04月23日 | Weblog
ここ数日は古本屋さんをバタバタと探しまわっていた。
事の起こりは、某氏Aが某氏Bの書いたルポをデタラメ扱いしている文章を読んだからだ。
このルポはずっと以前読んだ事があるので、そうかいなぁと思い、確認のために本を探したのだけれど見つからず、絶版となっているようなので古本屋さんで探そうとしたのだ。
これまで度々古本屋さんでは見かけていたので、簡単に見つかるだろうと思ったのだが、欲しい時には見つからずの法則通り何日か探した末にやっと手に入れた次第だ。

書籍で「ノンフィクション」というジャンルがある。
ルポルタージュとか調査報道とか単にノンフィクションとか様々な呼び名がある。
そして”手法”にも様々ある。
著者自身の姿、考え、意見などを表に出さずに、”第三者的”に調べた事実を書き連ねるもの。
あるいは逆に”私”を前面に出して、対象となる人、事との関係を含めて書くもの。
また、自分の考え、意見を表に出して、その”裏付け”を記するもの。
資料を中心に、関係者の言葉を肉付けに使うもの。
聞き書きやインタビューというものもあろう。
中には、資料だけ、あるいは自分の考え、意見、憶測だけの「ノンフィクション」というものも存在するかもしれない。
作者にはそれぞれのスタイルがあり、それぞれが「ノンフィクション」と呼ばれている。

で、某氏Aのデタラメ扱いの話だが、こういう場合のデタラメとはどういう事を指すのかsatoboにはわからなかったので確かめてみようと思ったのだ。
普通ノンフィクションの場合にデタラメというのは
取材そのものをせずに、創作、捏造で書く。
事実を変えてしまう。
言われるままに裏付けを取らずに書く。
などが当てはまるだろうか。

某氏Bの場合、断りつきで誰々はこう言った、という話が中心であるので、こういう場合のデタラメは、
言ってもいない事を言ったと書く。
取材してないものを取材したように書く。
など考えられるが、どうも某氏Aの話ではそうではなさそうだ。
というのも、登場して話す人物の存在自体を云々という事は言っていないようだ。
話している人物の言った内容がデタラメなので、それを鵜呑みにヨイショのように文章にした事がデタラメであるという事らしい。

そこで探し出した本で”確認”をしたのだが、論争のある話の一方の言っている事を書いていると断りを入れている。
以前に読んだ時にも、これは一方の言っている話を書いたものであったはずと思ったので、それを確認したカタチである。
ところが某氏Aは、それでは相手のプロパガンダに乗っただけの一方的な話でデタラメだというのだ。

たとえば、某氏が犯罪を犯して逮捕、有罪になった時に、マスコミは”事実認定”された事でこぞって警察、検察、裁判所の”一方的な”話だけを伝え、某氏の無実の訴えなど伝えないのは日常茶飯事である。
それが実はえん罪であったなどという事もある。
だからと言って、両者の言う事を公平に報じろという声は少ないし、”犯罪者”の言う事を信じて報道するのかという声も多い。
こういう場合の正しい伝え方というのはどういうものなのか。
両者の言葉を並列に伝える事か。
では、一方の立場が弱い場合に、あるいは誰も取り上げない場合に、その一方の言葉を伝えるのは”平等”に反するのか。

家族が、家族の誰か一人を語った場合、家族それぞれにその人に対する人物像があり、一人の人間を語るのにいく通りもの人間像が現われてくる。
では、誰かがデタラメを言っているのか?
どれが正しい人物像なのか?
デタラメだと言えるのか?
同様にある人物が体験した”事実”を語った時に、その場にいなかった者がどうしてデタラメだと決めつけられるのか。
そういう事を語ったという”事実”を記する事がどうしてデタラメと言えるのか。
ある事があり、それを誰かが自分の体験として話したという事実をルポする事を無価値として扱う某氏Aの「ノンフィクション」に対する考え方がどうも理解出来ないでいる。




湖西線 近江舞子ー堅田
滋賀県大津市
撮影 2013年12月28日 土曜日 16時30分
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火曜写真館

2014年04月22日 | Weblog




















旭大橋からの眺め
長崎県長崎市旭町,尾上町
撮影 2014年3月23日 日曜日 11時45分
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そろそろ変え時

2014年04月21日 | Weblog
ケータイに怪しげメールが増々増えてきた。
同じアドレスなら着信拒否操作をするのだが、ほとんど異なるところから。
どうせ出元は同じなんだろうがリストに載ってしまっているのだろう。
もちろんウッフンメールやアゲマス、当たりましたメールなどに反応した事などない。
というより、知っている人以外のメールには一切反応していない。
こういうメールに腹が立つのは、「まんまと引っかかるバカ」扱いされていると思うからだ。
ホワイトナイトのハッカーがいるならば、こういう輩のサーバーをハックして破壊してもらいたいものだ。
ついでにビットコインのように銀行口座を消し去っても許す。

というわけで、本気でメールアドレスを変更する気になった。
問題は変更を通知する事だが、まあ家族だけに知らせるだけで十分であろう。
メル友なんていないし・・・(涙)。




烏丸通から夷川通を
京都府京都市中京区少将井町,蒔絵屋町,巴町,鏡屋町,冷泉町,花立町,竪大恩寺町
撮影 2014年3月8日 土曜日 13時35分
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