Nonsection Radical

撮影と本の空間

さまざまなノンフィクション

2014年04月23日 | Weblog
ここ数日は古本屋さんをバタバタと探しまわっていた。
事の起こりは、某氏Aが某氏Bの書いたルポをデタラメ扱いしている文章を読んだからだ。
このルポはずっと以前読んだ事があるので、そうかいなぁと思い、確認のために本を探したのだけれど見つからず、絶版となっているようなので古本屋さんで探そうとしたのだ。
これまで度々古本屋さんでは見かけていたので、簡単に見つかるだろうと思ったのだが、欲しい時には見つからずの法則通り何日か探した末にやっと手に入れた次第だ。

書籍で「ノンフィクション」というジャンルがある。
ルポルタージュとか調査報道とか単にノンフィクションとか様々な呼び名がある。
そして”手法”にも様々ある。
著者自身の姿、考え、意見などを表に出さずに、”第三者的”に調べた事実を書き連ねるもの。
あるいは逆に”私”を前面に出して、対象となる人、事との関係を含めて書くもの。
また、自分の考え、意見を表に出して、その”裏付け”を記するもの。
資料を中心に、関係者の言葉を肉付けに使うもの。
聞き書きやインタビューというものもあろう。
中には、資料だけ、あるいは自分の考え、意見、憶測だけの「ノンフィクション」というものも存在するかもしれない。
作者にはそれぞれのスタイルがあり、それぞれが「ノンフィクション」と呼ばれている。

で、某氏Aのデタラメ扱いの話だが、こういう場合のデタラメとはどういう事を指すのかsatoboにはわからなかったので確かめてみようと思ったのだ。
普通ノンフィクションの場合にデタラメというのは
取材そのものをせずに、創作、捏造で書く。
事実を変えてしまう。
言われるままに裏付けを取らずに書く。
などが当てはまるだろうか。

某氏Bの場合、断りつきで誰々はこう言った、という話が中心であるので、こういう場合のデタラメは、
言ってもいない事を言ったと書く。
取材してないものを取材したように書く。
など考えられるが、どうも某氏Aの話ではそうではなさそうだ。
というのも、登場して話す人物の存在自体を云々という事は言っていないようだ。
話している人物の言った内容がデタラメなので、それを鵜呑みにヨイショのように文章にした事がデタラメであるという事らしい。

そこで探し出した本で”確認”をしたのだが、論争のある話の一方の言っている事を書いていると断りを入れている。
以前に読んだ時にも、これは一方の言っている話を書いたものであったはずと思ったので、それを確認したカタチである。
ところが某氏Aは、それでは相手のプロパガンダに乗っただけの一方的な話でデタラメだというのだ。

たとえば、某氏が犯罪を犯して逮捕、有罪になった時に、マスコミは”事実認定”された事でこぞって警察、検察、裁判所の”一方的な”話だけを伝え、某氏の無実の訴えなど伝えないのは日常茶飯事である。
それが実はえん罪であったなどという事もある。
だからと言って、両者の言う事を公平に報じろという声は少ないし、”犯罪者”の言う事を信じて報道するのかという声も多い。
こういう場合の正しい伝え方というのはどういうものなのか。
両者の言葉を並列に伝える事か。
では、一方の立場が弱い場合に、あるいは誰も取り上げない場合に、その一方の言葉を伝えるのは”平等”に反するのか。

家族が、家族の誰か一人を語った場合、家族それぞれにその人に対する人物像があり、一人の人間を語るのにいく通りもの人間像が現われてくる。
では、誰かがデタラメを言っているのか?
どれが正しい人物像なのか?
デタラメだと言えるのか?
同様にある人物が体験した”事実”を語った時に、その場にいなかった者がどうしてデタラメだと決めつけられるのか。
そういう事を語ったという”事実”を記する事がどうしてデタラメと言えるのか。
ある事があり、それを誰かが自分の体験として話したという事実をルポする事を無価値として扱う某氏Aの「ノンフィクション」に対する考え方がどうも理解出来ないでいる。




湖西線 近江舞子ー堅田
滋賀県大津市
撮影 2013年12月28日 土曜日 16時30分
コメント
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