Nonsection Radical

撮影と本の空間

舶来品

2016年07月25日 | Weblog
”ニンテンドー”のポケモンGOが日本でもサービス開始され、巷に”騒ぎ”を起こしている。
ニンテンドーのと言いながら、ニンテンドーが作ったわけではないアメリカ製のゲームアプリのようだ。
もしこれが任天堂が作ったものなら社会的に批判を受けて早々にサービス廃止されていただろうなぁと思った。
「何考えているんだ!」「危険だろう!」「非常識だ!」と国民、マスコミ、政府、警察総掛かりでで批判を浴びせて、”平穏”な日常を取り戻そうとしただろう。
ところがこれが外国製のサービスで、日本上陸前に散々騒ぎが伝えられていたものだから、同様な状況になっても批判の矛先を向けるのが”同類”の日本人ではないからなんとなく曖昧な感情を持て余しているのが面白い。
もちろんそれでも”社会常識”を取り出して批判するのは若者以外の人たちの”特権”で、既成の殻を守るために規制に寄生する活動を行なうのだが、そうやって新しい芽を摘んでしまう結果、途中まではうまくいったアベノミクスなのに第三の矢は生み出されなかったんだろうなと話を飛躍させてしまうのも若者以外の”特権”である。
第一、二の矢で潤った企業がホップ、ステップ、ジャンプと飛躍することを期待したのが、ジャンプすることなく内部に儲けを溜め込んでしまうようでは、ポケモンGOのような社会現象を起こせるわけもない。
そして社会は、そんな社会現象が起きることなど望んでいない。
ひたすら年寄りが縁側でひねもす日向ぼっこしているような毎日が続くことを望んでいるのだ。
そのためには過激なことも辞さないし、後ろ向きなことであっても行なう。
ただし攻撃はあくまでも同じ日本人に対してだけだ。
外からの力にはてんで弱いのは鎖国が長く続いた影響かもしれない(笑)。
「攘夷」などという言葉は死語である。
死語であることは幸いなことで、外からの波によって少し活気付くのである。



坂下通り松友会 2
東京都世田谷区赤堤2丁目,松原6丁目
撮影 2016年7月1日 金曜日 10時20分
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする