Nonsection Radical

撮影と本の空間

4月15日 水曜日 逃げ場のない写真

2015年04月15日 | Weblog
アマゾンで写真集をつらつら検索していたらこれはというものがあった。
名前に記憶はないので調べたら、以前出入りしていたギャラリーで写真展をしている人だった。
でも記憶がないのでポストカードコレクションを探したがなかった。
見に行かなかったのだろう。
たぶん見に行っても、写真集とは異なる評価をしていたと思う。
2冊目の写真集に合わせた写真展であった。
その人は2冊の写真集を出して自殺したようだ。
そのことを知らずにいても、「こんな写真をこんなふうに撮っていたら行き詰まっちゃうよ」という感想を写真集の数枚の写真から感じたのだった。
どのように言えばいいのかわからないけど、1冊目の写真集はどんどん自分を追い込んでいくような写真で、どんなに緻密と言われる写真であっても、必ずどこかに逃げ場があって、それで写真家は”次”を期待させるのだけど、次を求めないような追い込み方で閉ざした空間を作ろうとしているのだった。
そんな事をしていたら、次が撮れなくなるのは当たり前で、悪戦苦闘の末に次の写真集にこぎ着けたようだけど、1冊目と同様に追い込んで行くのだけれど、どこか空間にひび割れが出来て破綻しているのだった。
あ~あ、である。
だから自殺したとは思わないが、自分の論理構成が崩れてきているのに気がついてはいたのだろうか。
言っても無駄だけど、そんな気持ちの状態でそんな写真など撮ってはイケナイのだ。
破綻が待ち受けている。
それが望みのようでいて、そうではないのは写真を撮る行動をしているからわかる。
破滅するために写真を撮ったりはしない。
往々にして逃げない事が正しい事のように思いがちだけど、そんな思い込みもその時の状況でそう思い込んでいるだけなので、自分の状況を把握していると自覚しているのなら自分は追い込んでいると自覚する必要もあるのだ。
それだけ人間の思考は自由に出来るものなのだ。
そうして自らが自分を追い込むような事はせずに逃げる事で時間を稼いで状況の変化を見るべきだ。
そして別の思考を持った自分が新たな表現を試みればいいのだ。
それがたとえ以前のような”傑作”でなくても構わないではないか。
今の生きている自分の表現であればいいのだ。
とういうわけで、どんなに良い写真であっても逃げ場のない写真というのは嫌いなのだ。




中通り商店街 1
長崎県長崎市諏訪町
撮影 2014年3月21日 金曜日 17時05分
コメント
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