Nonsection Radical

撮影と本の空間

競艇にはまる論理

2011年05月17日 | Weblog
会社に競艇にはまっている人たちがいる。
で、少しずつどういうものか教えてもらうのだけど、実に楽しそうに話をしてくれる。
かといって、興味があるわけではないので、知識として聞いているのだけれど、どうしてまた競艇が好きなのか理解出来た事もある。
競艇も他のギャンブルと同様にデータを元に、自分の予想と組み合わせて当たりを探すものなのだけど、他のとはちょっと違うらしい。
というのは、競艇は自分で物語を創って、それが実現するかどうかが楽しいらしいのだ。
話を聞いていると、誰それはどういう調子で、きっとこういう走りをするから、それに対して誰それはこう行ってと、頭の中ですでにレースは終わっていて、その結果、こういう組み合わせで買うといくら儲かるとわかっているのだ。
そして現実がその通りに運ばれると「どうや!」と快感が走ると言う。
だから結果的に儲かるかも知れないが、それよりも自分が予想したようにモノゴトが運ばれて、それを自分はわかっていたのだ!という気持ちがサイコーなのだそうだ。
競艇は6艇で走るのだが、そういうシミュレーションをするにはこれぐらいの数が限度であろう。
実に良く考えられている。
またそういう数の組み合わせだから、実は配当はそんなに高くない。
だから配当よりも「予想」の楽しさがはまらせていると思えるのだ。

satoboはだからこそ、競艇には興味が持てないのだろう。
これこれこうこうとモノゴトを考える事がないのだ。
すべてが始める前から予想して、その予想のように運ばれる事に快感を憶えるのでは、なんのためにジョシとあんな事やこんな事、ア~んイヤン、そんなとこにそんな事しちゃダメ~ん、と予想外の反応に頬を緩ませて「ほほ~そんなふうになっちゃうのかい、カワイイ顔をして。じゃあ、こうすればどうだ?!」などと悪代官ぶりを発揮する楽しみがなくなってしまうではないか。
まあ、あくまでも「楽しみがなくなってしまうではないか」と思うところまでがシミュレーションの一部であり、つまりすべてが妄想であるのも、それはそれでまたひとつの年寄りの楽しみの一つなのであるが。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする