3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

高齢者施設での虐待はなぜ増えるのかー介護の仕事は3Kなんかじゃないのに

2016-02-20 19:25:54 | 現代社会論
川崎市の介護付き有料老人ホーム「Sアミーユ川崎幸町」で入所者の男女3人が転落死した事件
殺人容疑で逮捕された元職員、今井隼人容疑者(23)はストレスを募らせていたとのこと。

まず、構造的な人手不足である。
高齢者介護施設、保健施設もそうだが、介護保険の介護報酬でやっている。
この介護報酬の額が減額されているのである。
だから、どこの施設も人件費を削減せざるを得ない、という。

介護保険は社会保険であるから、社会保障の費用でやっている。
我々から徴収した保険料に税金を投入しそれに利用料を加えてやっているのである。
しかし、このところ社会保障費用は抑制されている。
消費税をもっと上げない限り、または、所得税や贈与税など、とにかく税金をあげない限り、介護報酬削減、抑制の傾向は続くであろう。
で、介護報酬の削減は低賃金につながっているのである。
低賃金なので人が集まらない。で、介護人材は枯渇し、この仕事の意義と重要性を理解しがんばって働く人の重労働はますます苛烈になる。
負のスパイラルである。

介護現場では、少ない人数でやりくりせざるをえない。慢性的な人手不足。

人手が足りないので、いろいろなところに求人広告を出すが、なかなか集まらない。
介護は3Kなどといってあまり尊敬されない仕事としてイメージされているので、ますます、人が集まらない。
とにかく来てくれた人はありがたい。未経験でも3時間だけでもなんでもいいから働いてくれということになる。

しかしだ。
この介護という仕事ほど高度な仕事はないと思えるほど専門性に富むものである。

忍耐強くなくてはならない。
また、認知症や高齢者特有の病気についての知識が医者並みに必要である。
さらに、ある程度の経験がなければ力仕事は別としてろくな介護はできないのである。
さらに、高齢者は症状が急変することもあるので、とっさの判断、正しい危機管理ができるものでなければならない。
それにコミュニケーション能力がものすごく高くなければならない。無言でやれない仕事である。工場じゃないからね。
365日、24時間の仕事である。人の暮らしには切れ目がないのだから。

スーパーやコンビニの店員の2倍は給料を払うべきである。

公立学校の教師ぐらいは給料が出ていいのである。
また、資格だけでなく、現任研修の機会が豊富になければならない。
長時間労働はさせてはいけない。ストレスフルな仕事なので、ほっておけば虐待や殺人も起きる可能性はいつでもあるのである。

このまま人手不足が続けば、介護の仕事は盗癖があるとか殺人鬼になりそうな人格に問題ある人ばかりが集まってきそうで怖い。

そういうことは知らずにやれ管理体制がどうのとかいっているが、それだけではないことを我々は知るべきである。

そういっているワイドショーのコメンテーターも今からすぐ近くの介護老人施設に手伝いに行くとか、介護報酬アップのために政府に働きかけるとかしたほうがいいのである。
自分は部外者だなんて顔していても要介護になったら介護労働者のお世話にならなくてはならないのである。
質が高く暖かい人材をたくさん養成しておく必要があるのに、そういうことを真剣に考えることなく今日まで放置し続けてきたそのツケが今まさに突き付けられているのである。

介護は3Kの仕事なんかじゃないのである。
とても崇高な仕事であって安心できる高齢社会の基礎を護る仕事なのである。

そういう仕事のことを真剣に考えなければならないのである。

老いも若きも今すぐ施設に行って、掃除でもガラスふきでも話し相手でも電話番でもなんでもやって
介護労働者の労働軽減のために一役買ってほしいのである。

私の知っている介護労働者の人たちは本当に気持ちの良い優秀な人たちである。
彼ら彼女らの仕事ぶりに報いるために心底応援したいと思っているのである。

とにかく、介護老人施設の職員を孤立させてはいけない。
社会がこの仕事の価値を再評価し、よい人材養成のために後押しをする雰囲気をつくらなければならない。

自宅でのんびり、奥様ランチしている専業主婦よ、介護現場をささえるためになにかやるべきなのである。


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雨の土曜日に老いを考える

2016-02-20 17:47:56 | 日記
今日は雨である。
朝は少し太陽が出ていたが、午後から暗雲たちこめ、雨になった。
バルコニーに雨が降り、遠くの家々が雨に煙る。
美しい景色である。
いつまでも雨の景色を楽しみたい気分である。

先週は学恩のある先生の偲ぶ会だった。
最後の何年かをご一緒した。

親しくさせていただいた先生がだんだんいなくなり、自分の番がやってくるのかなあとぼんやり思う。

若い時分は、年を重ねることが想像できなかった。
中高年期の自分を想像することができなかった。

子どものころ祖父母や両親の暮らしぶりを見ていたが、彼ら彼女らの心のうちは本当はわからなかったのだなあと今、自分がその年になってつくづく思うのである。
ただの年寄りと思ってたが、本当は若者と少しも変わらずいろいろな感情を抱きながら暮らしていたのだということである。

見かけは老けるが精神は様々な人生経験を経て、その人なりの熟成を果たすものである。若者に負けない瑞々しい感性を持ち続けている。
年を重ねるということは結構素晴らしい経験なのではないかと思えてくる。

雨の土曜日になんとなく、そんなことを考えているのである。

しかし、世の中は年齢が若いというだけでちやほやするところがあり、むかつくのである。

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