3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

格差拡大と生活再建力

2011-06-19 17:28:04 | 被災地支援
被災地の人々の生活支援を考えるとき、さまざまな支援の在り方があるだろう。
東北三県のうち、フクシマ、個人的には福島の人々の生活をどう支援したらよいか、ずっと考えている。

天変地異はすべての人に平等にやってくる。放射能も。
しかし、その後の生活再建、復興の度合いは個人の生活力によるところが大きい。
被災前の生活の安定性によって被災後の再建力は異なるということ。私有財産制だから、難しいところが多い。しかし、憲法25条を引くまでもないが、最低生活を保障するのは国家の役割だから、国、地方自治体の責任は重い。このことを国会議員は肝に念じてほしい。


それから、ジェンダー視点で震災をとらえる必要も感じる。
わが国の女性の地位は低い。GEMは57位なのだ。防災計画や復興計画にどれだけジェンダー視点を盛り込むことができるか、大きな課題だ。

貧困問題を考え、セイフティネットを考える。フクシマの人々を見捨てず、生活と人生の再建を真剣にわがこととして受け止め、エネルギー政策の行く末を案じつつ、ジェンダー視点を盛り込んだ生活再建の方向・・・、考えることが多くて大変だ。
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エネルギー政策を考えるためには、やわらかい頭が必要である

2011-06-17 11:22:16 | エネルギー政策
このところ、TV朝日報道ステーションを見ていると、エネルギー政策についてかなり、感情論的なトーンなので、辟易する。
寺島氏が冷静な視点から今後の原子力技術について論じているのにもかかわらず、F氏は聞く耳をもたず、ゲンパツ怖いのトーンで、まことに興ざめである。
これでは、反原発運動から人は離れて行ってしまう。政策を語れるかが問題なのだ。経済の衰退を最小限に抑えつつ、次のエネルギーを冷静に語らなければならないはずである。さらに、フクシマは現在進行形であり、また、他の発電所も決して廃炉になったわけではなく、これから大変なエネルギーをつかって政策転換をするわけだから、相当の覚悟と見通しが必要なのだ。それを、あのような薄っぺらな言説でまとめるのではだめだ。そもそも「報道」などという名称の番組にはふさわしくないだろう。アンカーマンにはもっとやわらかい頭が必要であると思う。
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NHKの劣化はひどい―BShiがなくなり、クラシック音楽は衰退し、ドキュメンタリー番組も

2011-06-16 14:23:47 | 音楽ノート
大震災で世の中、音楽どころじゃないのはわかる。が、しかし、このところのNHKの番組の劣化がとまらない。
民放かとおもうようなバラエティ、視聴率かせぎなのか、大衆迎合か。
3月末まであったクラシック番組は軒並み終了。いったい何をみればいいのか?
クラシック愛視聴者は自分でCD買えばいいでしょ、ということか。

さらに、硬派の海外のドキュメンタリー番組などもなにもない。
視聴率にこだわらず、とにかく上質なプログラムをお願いしたいものだ。

ついでに女性アナウンサーの劣化もひどい。
わずかに残ったクラシック系の番組でもバラエティかと見まがう。早口で上品とはいえない口調に思わず耳をふさいでしまう。

大震災でバーバラボニーのスーパーオペラレッスンも途中までになってしまった。
あんな番組、だれもみていないだろうと思っていたが、歌の仲間うちでは結構見ていたのだ。
毎回楽しみにしていた。
再放送もしたそうだが、震災後の忙しさに逸してしまった。

たとえ少ない視聴者向けでも、よいものはどんどん流してほしい。
紀尾井やトッパンでやるような小規模な歌曲コンサートなども放映してほしい。
最近、クラシック番組がなくなり、本当につまんないね。

Eテレのドイツ語講座とイタリア講座、J-ブンガク、2355はなんとなく、みてるけどね。むつごろうがかわいいから。

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ポスト管はだれかーそして誰もいなくなった

2011-06-13 10:52:52 | 政治の世界


仙谷氏は首相、鳩山前首相、小沢一郎元代表の「トロイカ」が一線を退くべきだとの考えを表明したという。
この3人は引退させ、二度と政治の表舞台には出てくるな、ということなら、基本的に支持したい。


仙谷氏は次期代表選で野田財務相の擁立を検討しているそうだが、野田氏?国難を乗り越えるスーパーな力があるかというとかなり弱いのではないか。もちろん、管だって首相ができるのだから、周りが有能ならだれだってよいかもしれないが、国民の多くが支持するかというと野田では無理だ。下世話な話で恐縮だが、少なくとも女性の支持は得られそうもない。

どぶ板で県議を経て、立ち上がってきた国会議員、平時ならやれるだろう。しかし、このレベル7の難局には、ふさわしくない。
大所高所からものを見ることができ、かつ論理的な思考ができること、国際社会に出して恥ずかしくない外交センス、スマートなプレゼン力が必要なのだ。
フクシマへの対応を考えると文系出身でもよいが、できれば理系的発想を理解できる人でないと無理だ。
反原発の動きもある。が、そういったimotionalな動きにも冷静に対応できる、ある意味で冷徹さも必要になっている。エネルギー政策は一時の感情で動くべきではない。現在の産業構造は一夜にして変わるはずもないから。原発をやめて、ものつくり日本の名を返上し、基幹産業が枯れていって多くの失業者を発生させてしまうのでは、元も子もない。その手腕も問われる。

ずっと、80年代から、原子力発電に疑問を持ち続けてきたものからみると、今の反原発の動きはかなりムードに流されているように思え、危うい。

横道にそれてしまったが、総理にふさわしい人材には、官僚の暴走を抑え、官僚の力を引き出しつつ上手にマネージメントすることができる力量も求められる。
さらに、復興には財界との強いパイプも必要だ。マクロ経済に疎いものは首相になることはできない。

というように考えるといったいだれが次の総理のイスにすわるのか?
だれもいないじゃないか。
ということになり、ますます国民の政治不信はいやますのみ。

子どものころの総理大臣や閣僚はみな私利私欲を捨てていたように思えた。
左派右派問わず大物がひしめいていたように子ども心には思えた。演説もうまかった。
子どもなのに総選挙の夜は遅くまで開票速報を見続けていたものだ。選挙の夜は興奮して眠れなかったものだ。
今はそんな子どもは少ないだろう。

若者はポスト管より、AKB48だ。AKB48の選挙にこんなに関心が集まるとは!
日本は終わったのだ。
過去のおつりでやっているようなもの。





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ボランティアを単位にすべきか否か―3.11世代

2011-06-12 10:59:21 | 被災地支援
今回の大震災で多くの大学生が被災地に入りボランティアとして活躍している。
6月10日の「朝日」の社説は「もっと!ボランティア―3.11世代」だった。大学生たちの活動をもっとと鼓舞している。
Youth for 3.11は大学生自身が立ち上げた被災地に若者を送る仕組みだ。まるで、トインビーホールや帝大セツルみたいだ。

大学生はある意味、時間的にも体力的特権階級なのだから、全力で被災地支援に活動するのはよいことだろう。
社会人ともなれば、生活に追われ、行きたくても行けない。

阪神・淡路大震災のとき、多くの若者が被災地に入り、大活躍した。1995年は「ボランティア元年」といわれた。その後、さまざまな社会活動グループに法人格を与え、活動しやすいようにという声があがり、NPO法が成立した。

ボランティアは損得なしの無償の奉仕活動だから、すばらしい。若者は活動から多くを学ぶことができる。意味なく笑顔を振りまかなければならないファーストフードのアルバイトで得られるいくばくかの金銭よりずっと貴重な体験のはずだ。

そういった被災地支援のボランティア活動に大学が単位を与えるか否かということになると賛否両論だ。
単位を与える?

20年ぐらい前の大学は出席などとらなかったが、最近の大学は出席に厳しいようだ。
講義開講数について文科省のコントロールが厳しく、なぜ、厳しいのかこれも意味不明だが、15回の講義、休講はご法度、補講せよ、ということにいつのまにかなっている。

あほらしい。

大学での出席欠席が、大学教育の非常に大きなウエイトを占めるようになるなんて大学の権威の失墜以外のなにものでもない。


大学で出席をとるなんてナンセンスだ。その考えは基本的に間違っている。大学はものの考え方、社会の在り方の方向性を議論を通して、自ら考える力を養うところだ。断片的な知識、昨日今日で終わってしまう小手先の技術などを教えるところではない。

ボラ活動に単位なんて与える必要はないというのが私の意見。

大学生の諸君、出席にこだわり、超つまらぬ講義を聞いているより現地にいこう。
自給1200円のバイトに汗をながすより、現地にいこう。
授業のことについては大学教員に直接交渉せよ。現地から学ぶことを奨励しないような教員の単位は落としてもよい。
大学教員は若者の特権をうらやましく思っているのだ。必ず理解を示してくれるだろう。そういう流れが出席回数や開講回数にこだわる文科省のやり方を崩していくだろう。そういうきっかけにもなる。それは大学教育の在り方をゲリラ的に改革していく最初の一歩なのだ。

単位にしてやりたい分野もある。
保健医療福祉系の大学生、つまり医学部や薬学部や看護学部や福祉学部などを学ぶ学生こそ、ボランティアとしてどんどん活躍してほしい。こういった資格系の学生に対して、厚生労働省は柔軟に対応すべきだ。またとない3.11世代の医療系の学生の鍛錬の場として、被災地支援のボラを奨励すべきだ。文科省よりもっと硬直している厚労省の態度が気に入らない。深い人間理解が必要な医療従事者こそ、若いときに震災ボラとして活動すべきなのだ。それが医療者としての原点になるはずだ。厚労省こそ、ボラ活動をなんらかの実習単位として認めるとかそういう柔軟な態度をとるべきだ。

3.11のような大震災に見舞われる機会はそう多くはないだろう。それに我々はもう3.11以前にはもどれないのだ。放射線医学はじめとして、多くを学ぶことができるはずだ。

3.11を境に大学教育も大きな転換をすべきなのだ。それ以前の平和ボケしているような全入時代の大学教育こそ変わらなければならない。




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