3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

平穏死を考える

2012-10-20 11:51:37 | 現代社会論

高齢者を抱えている家族にとって、どう看取るかは大きな問題であろう。
85歳ぐらいになるとだいたいいろいろな疾病を抱えているものである。
そして、いつか来るXデー。

石飛医師が「平穏死」というのを提案している。
胃瘻など不必要な延命処置はいらない、というものだ。

家族は、どうしても延命を望むし、高齢者当事者も一分一秒長生きしたいと思うのかもしれない。
認知症などで意思確認が難しい場合はどうか。悩ましい問題である。

個人的には、平穏死が望ましいと思う。
年齢に関係なく人は平等によい医療を施されなければならないというのは理解できるが、やはり、高齢になればどのようにしてその人の一生を閉じるかが最大の課題であることは違いない。他の世代とは異なる大きなテーマがあるのだ。いかに充実した幸せな人生だったか、それまでの人生が苦しみに満ちた苦労ばかりの人生だったとしても、最期の最後に幸せだったと信じて旅立っていけたら、それこそが素晴らしい人生なのだと思う。

昨日まで、家族と談笑し、遠くの娘と電話で長話をし、庭の花を愛で、季節の移り変わりを感じ、デイサービスで仲間と歌をうたい、いつもと同じ様に朝食をとり、静かに眠りにつく。
昨日の続きのいつもと同じ日、次の日はない。でも、それが平穏な死だと思えるのだ。

医療や看護、介護に従事する人は、そういった静かな平穏な死をいかにプロデュースするかに細心の注意を払って欲しいと思う。
少々寿命が短くなっても、幸せな一日があればそれでよいのだ。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 政治家のレベル | トップ | 隅田川散策 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

現代社会論」カテゴリの最新記事