3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

吉本隆明を追悼する 鹿島茂『引用句辞典』不朽版 

2012-03-28 09:49:12 | 現代社会論
毎日新聞毎月第4木曜日に鹿島茂先生の『引用句辞典』が掲載されるが、なかなか辛口でとても良い。

今日は吉本隆明の「別れ」『背景の記憶』からの引用だった。

吉本は東京の月島の船大工の三男として生まれた。小学5年の時、塾通いを始めた。
実家が豊かになり、三男の隆明を工業高校に進学させようかということになったらしい。
それまで、遊んでいた周りのガキと「別れ」をしたことが吉本のその後の思想に影響を与えているということが書いてあった。

「・・・・わたしが良きひとびととの良き世界と別れるときの、名状し難い寂しさや切なさの感じをはじめて味わったのはこの時だった。これは原体験の原感情というべきものとなって現在もわたしを規定している。」


学校にいかず、そのまま社会に出て職人などになって一生を終える周りの友人たち、それとは一線を画し、ひとり勉学の道を幸運にめぐまれ歩むこととなった隆明少年の胸に去来したものはなんだったのだろうか。

昭和初期においては、ほとんどのものは小学校のみか、高等小学にいって終わりだった。小学校を出て丁稚奉公に出るとか、工員になるとかそれが一般大衆の進路だった。

ゆとりがあり、親が教育熱心で、しかも優秀であれば旧制中学に進学、旧制高校、旧帝国大学という、いわゆる一高東大の当時としては最高の学歴が用意されていた。
旧制中学から旧制高校ではなく、専門学校、たとえば高等工業高校や、物理学校などに進学する学生もいた。あるいは、高等師範学校へいって教師になるというのも当時の優秀な学生の進路であったと思う。
女子は、高等女学校から師範学校か、津田や日本女子大学校などに進学するのが当時の優秀で裕福な子どもの進路だった。


吉本の学歴は華々しい。
1937年(12歳)東京府立化学工業学校入学。1942年(17歳)米沢高等工業学校入学。1945年東京工業大学に進学。そこで数学者の遠山啓と出会う。1947年9月に東京工業大学電気化学科卒業。
当時、府立の工業高校に進学し、米沢高等工業高校を経て、東工大というのは吉本が理系分野において非常に優秀であったことを示している。

小学校5年の時の「別れ」の経験は、鹿島茂のことばを借りれば、「自分と家族の損得しか考えない大衆の原像を自らの思想の強度の試金石として繰り込んでいくことが絶対に不可欠」であり、「どんな高尚な思想も無効である」ことを彼に学ばせたのではないかと思うのである。

生まれた時から当たり前のように高学歴になる条件が揃っているものがいる。そういう人もその後の人生や社会への向い方は二通りある。
ひとつは、それを当然として受け止め、一般大衆とは違うのであるという、自分は選ばれた人間であると奢り高ぶるもの。
反対に、一般大衆から学びそのために尽力しようとするもの。

さらに、もう二通りの人間を追加しておこう。
一般大衆の出身でも、ここは自分の居場所ではないと上昇志向し、出世をしよい生活をしたいために一般大衆を忘れ、踏みつけながら邁進するもの。
そして、一般大衆から出発し、そこを試金石としながら、社会のために考え尽力しようとするもの。

吉本は、この最後のタイプの人間だったのだろう。
そこに彼の偉さがあるし、彼をして、一時代を築いた大思想家にならしめた理由があると思うのである。

それにしても今の子どもはどうなのだろう。
小学校受験などさせて、あまり小さいうちから、一般大衆と隔絶させるのはどうなのか。
選ばれたものという錯覚と傲慢さだけを子どもに植え付けさせるだけなのではないか。

吉本少年の心に去来したものは、社会における生まれながらの階層性についての暗黙の社会的な容認、それへの不可思議さだったのかもしれない。それが社会の矛盾を体感するはじめての経験だったのかもしれない。

小学校だけで社会にでたものでも、非常に優秀なものもいる。たまたま幸運にも自分は大学に行くことができ、作家として成功したいそうな仕事をするようになったけれど、そういう者たちのことを忘れてはならない、というのが最後まで吉本隆明の思想の試金石だったように思う。




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