3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

注水の停止、実は継続

2011-05-30 12:45:22 | 福島原子力発電所事故
注水停止実は継続のニュースにはみんな驚いた。でも、私は想像できる。
東電本店と福島との間にある緊迫感の温度差。

現場を取り仕切る吉田所長としては、現場の状況から注水を中断することなどありえなかったのだろう。
官邸の顔色をうかがう本店、東電という会社を守ることに勢力を注ぐ本店、しかし、現場は体面やこれまでの安全神話などを守ることなどまるで意味がないこと、ナンセンスであることを痛感していたに違いない。これは世紀の過酷な事故なのだ。現場はいかに事故を最小限に抑え放射能汚染の拡大を防ぐかをかんがえることが使命なのだ。現場の状況からみて注水を停止することなどありえなかっただけだ。注水を停止したらさらなる爆発がおきてしまう。
本店と現場の意見の対立、それはこれまでの東電体質をかんがえれば当然かもしれない。

保身のために嘘をつく。優等生の行動スタイル。東電はこれまで100点満点であることを演出してきた。いつまでも100点を取り続けることなどありえないにもかかわらず、そうしなければ許されないとおもいこんでいたのかもしれない。30点とっちゃって、お母さんに合わせる顔がなくて、しばらくかくしておいて忘れたころに出してくるねじまがった優等生みたいな東電。
現場はとうの昔に優等生なんかやめていた。おなかにズシンとくる仕事がメインのガツン系でないとやっていけないのだから。現場の荒っぽい労働者と一緒に働ける人じゃないとやっていけないのが、原発研究者技術者なのさ。

政治の茶番、内閣不信任案、世界から笑いもんになるだけなのに、なぜわからないんだろう。
無能な政治家を選んだ私たちが悪いのか、それとも生まれたときが悪いのか。何もいわずにだまってやり過ごすのは簡単だが、なんとかしなければならない。日々の生活の忙しさに紛れ、私たちはあまりに政治から遠ざかってきた。政治の季節は1960年代で終わり、その後経済の時代になり、次に文化の時代といわれたが、果たして我々は豊かな文化を築いてきたか疑問である。電源三法、経済に支えられた乱開発、その上にたってきた狂乱の文化。そんななかで、知識人たちは、政治に関心を持つことに脱力感をおぼえ政治的虚無に陥っていた。もう一度、あのころに立ちかえり政治を語ることが必要なのだろうか。そのエネルギーが残されているかどうか・・・わからない。

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緑のカーテン

2011-05-30 12:15:16 | 日記
我が家の節電対策その1として、昨日は大雨だったのだが、ベランダにゴーヤのためのネットを設置した。2週間ほど前に苗を買っておいたのだが、それが成長し、となりのゼラニウムに巻きつきそうになったので、ネットを設置することとなった。ゴーヤがどんどん成長すると窓を覆ってくれて完璧に室内温度は下がるはず。成長が楽しみだ。ゴーヤは香がするのだろうか、隣の猫がゴーヤの香につられてやってきてツルにかみついている。「こら!」としかると、かわいい顔して、「なんでだめなの?噛んでもいいでしょ」というように甘えた声でなく。困ったアメリカンショートヘアだ。

ゼラニウムは長年育てている。白くて中心がピンク。清楚なこの花たちはけなげに何があっても毎年ちゃんと咲いてくれる。朝起きると、ご機嫌はいかがですか、と、水をやる。すると、花たちが、笑っているように見えるのは私だけのようである。家族は、花が笑って喜んでいると私がいうと、おかしいと笑うけど、本当に花が笑って歌っているようにおもえるんだから仕方がない。

節電対策その2は、エアコンを買い換えたこと。以前のものはあまり節電タイプではなかったが今回のものはかなり節電できそうだ。

緑のカーテンと節電型エアコン+送風機、冷温枕・・・いろいろ対策を考えている。

フクシマはまだまだ安定しそうにない。
政治の混乱は続く。我々の人生も続く。
市民としてできることは、生活レベルでの節電対策と日本のエネルギー政策について真剣に考えることである。




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