サッカー日誌 / 2015年10月21日


ドイツ人捕虜収容所のサッカー


賀川浩さんのご講演
(10月19日、日本サッカー史研究会)

★関西からみたサッカー史
 日本サッカー史研究会の10月例会に、関西から賀川浩さんに来ていただいた。
 月に1度の割合で開いているが、場所は東京の日本サッカー協会の会議室である。そのため、どうしても東京中心のテーマになりがちである。
 そこで関西出身で、関西在住のサッカー記者の大御所である賀川さんに「関西からみた日本サッカー史」について、お話をしていただこうということになった。
 90歳のご高齢なので、関西から出てきていただくのは、ちょっとためらわれたのだが、すこぶる、お元気で、2時間近くにわたって、興味深いお話を聞くことが出来た。
 そのなかに「1914年(大正3年)は、日本のサッカーにとって、重要な年だった」という指摘があった。
 第1次世界大戦がおき、日英同盟を結んでいた日本が、ドイツの支配下にあった中国の青島(チンタオ)を攻略した。

★日本への文化的影響
 青島にいたドイツ軍とドイツ人居留民の合計約4700人が日本軍の捕虜となり、日本各地の収容所に移送された。
 そのドイツ人が、日本文化に、いろいろな影響を与えた。
 年末恒例のベートーベンの第九交響楽の合唱が、この捕虜収容所で始まったことは映画にもなった。
 サッカーでは、広島県の似島(にのしま)の収容所のドイツ人が広島のサッカーに影響を与えたことが知られている。
 賀川さんのお話によると、当時のドイツ人収容所についての研究は近年、非常に進んでいるという。
 そうすると、似島以外の収容所でのスポーツについても、新たな発見があるかもしれない。
 また、似島収容所で行われていたドイツ人のサッカーが、どういうものであったか、広島のサッカーに与えた影響が具体的に、どういうものであったかも、さらに詳しく分かるかもしれない。

 ★神戸一中対広島一中
 「当時のドイツのサッカーは、ショート・パスだったのだろうか?」
 「その後、東京や神戸のサッカーに影響を与えたビルマ人のチョウ・ディンのショート・パスのスタイルとは、どう違うのか?」
 「チョウ・ディンのサッカーは、スコットランドの影響を受けたものだが、ドイツのサッカーもスコットランドの影響を受けていたのだろうか?」
 いろいろな意見や質問が出た。
 戦前、西日本では、関西の神戸一中と中国の広島一中のサッカーが争っていた。
 それが、チョウ・ディン対似島の対決だったのだろうか?
 スコットランド対ドイツのスタイルだったのだろうか?
 ともあれ、サッカー史研究会で、ドイツ人収容所のサッカーを、改めて取り上げることにしたい。


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